第2話 掃除機が捕らえたもの
小火が起きたのは、前日の午後だった。
大輝が旧灯台の下部倉庫へ着いたとき、入口には濡れた段ボールと、使い古された箒と、町内会の腕章をつけた大人たちのため息が積み上がっていた。再開発会社の担当者は、汚れのないコートを着たまま、倉庫の外で腕時計を見ていた。
「このままでは近隣の安全に関わります。片づけだけでも早急に進めたほうがいいですね」
声は丁寧だった。丁寧すぎて、こちらの肩を静かに押してくるように聞こえた。
倉庫の中は、潮を含んだ木材の匂いがした。古い棚は傾き、床の一部はふかふかしている。捨て忘れられた長靴、錆びたバケツ、箱に入ったままの紙コップ。天井の隅には、去年の台風で吹き込んだ砂が薄く残っていた。
「だいきさん、これ、吸っていい?」
正朋が掃除機のホースを両手で抱えていた。幼稚園の名札が少し斜めに曲がり、靴下の片方だけが裏返っている。
「だめって言っても、もう半分吸ってるよね」
「半分じゃない。ちょっと」
正朋が胸を張ると、掃除機の中で何かががらがらと鳴った。
大輝は慌てて電源を切ろうとした。だが、古い延長コードは入口の柱から無理に引き回され、湿った床の上でねじれていた。掃除機のプラグの根元が熱を持ち、焦げたような匂いがした。
「止めてください」
大輝が声を上げるより早く、ぱち、と小さな音がした。白い煙が延長コードのつなぎ目から立ち、誰かが悲鳴を上げた。
火は大きくならなかった。幸平が外にあった消火器を持ち込み、理彩子が濡れた雑巾を床からどかし、勇がなぜか冷凍コロッケの箱を抱えて入口をふさいだため、現場は一瞬だけ妙な絵になった。
「それ、今いらない!」
可純の声が飛び、勇は箱を抱えたまま後ずさった。
煙が消えると、倉庫の中には焦げたゴムの匂いだけが残った。大輝は正朋を外へ連れ出し、しゃがんで目を合わせた。
「けが、してない?」
「してない。でも掃除機、おなかいっぱい」
正朋は泣きそうな顔で、掃除機の丸い胴を見つめた。
再開発会社の担当者が、そこでようやく倉庫の入口へ近づいた。
「やはり、危険性は明らかですね。住民の皆さまの安全を考えると、取り壊しを前向きに検討したほうがよいかと」
大輝は、その言い方にすぐ返事を返せなかった。火が出たのは事実だ。怖かったのも事実だ。だが、建物が勝手に燃えたわけではない。湿った床、古い延長コード、急がされた片づけ、そこに子どもが紛れ込んでいたこと。その全部が乱暴に結び合わされ、煙になって吹き出したように見えた。
担当者は、町内会長へ書類を差し出していた。
「詳細な調査は後日として、まずは危険建物として扱う手続きを進めましょう」
可純が一歩前へ出かけたので、大輝はその袖をつかんだ。今ここで怒鳴っても、煙の匂いが残るだけだ。
そのとき、掃除機の吸い込み口から、黒く縮れた紙片がひらりと落ちた。
大輝は無意識に拾った。熱で端が丸まり、文字は半分ほど消えている。だが、数字が残っていた。日付らしきものと、金額。さらに、かすかに「灯台下部」という文字が読める。
「それ、燃えたごみですよ」
担当者が言った。
「はい。燃えたごみです」
大輝は紙片を手のひらで隠すように持った。
「でも、燃える前は何かの記録でした」
担当者は薄く笑い、町内会長との話へ戻った。
正朋が大輝の袖を引いた。
「ぼく、悪いことした?」
「掃除機で何でも吸うのは、悪いより危ない」
「じゃあ、悪いは少し?」
「少し。あとで一緒に謝ろう」
正朋はうつむいて、靴の先で砂を押した。
大輝は紙片をポケットへ入れた。小さな焦げ跡は、指に黒い粉を残した。古い紙は簡単に燃える。けれど、燃え残るものもある。
倉庫の外では、霧が海のほうから流れてきていた。旧灯台の白い壁が、煙のあとの空気の中で少しくすんで見えた。
あの建物が危険なのか。危険に見えるような扱いをされたのか。
大輝には、まだわからない。ただ、掃除機が捕らえたものを、ごみ袋へ入れる気にはなれなかった。




