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領収書屋さんと霧の中の灯台 ――北町商店街、最後の一枚まで愛で保護します――  作者: 乾為天女


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第1話 栗皮茶のファイル

 十一月の終わり、北町商店街の朝には、川から上がった霧が味噌汁の湯気にまぎれるような、湿った匂いがあった。

 大輝は空き店舗の奥で鍋をかき回し、表の机に積まれた領収書の束へ目をやった。魚屋の保冷剤、惣菜屋の油、保育園のカラー帽子、薬局の湿布。どれも金額だけ見れば数百円から数千円で、町を大きく動かす額ではない。けれど、端に付いた指の跡や、急いで折られた折り目を見ていると、その紙を財布にしまった人の息遣いまで残っているようだった。

 店の名は、まだ看板にはなっていない。商店街の人は勝手に「領収書屋さん」と呼んでいる。大輝も、否定できるほど立派な屋号をまだ持っていなかった。

 「大輝くん、味噌汁ある?」

 引き戸が開くより先に、可純の声が飛び込んできた。続いて、毛糸の帽子、派手な赤い手袋、そして栗皮茶色に変わった古いファイルが、机の上へどんと置かれる。

 「ありますけど、朝ごはんを食べに来たんですか」

 「違う。町が壊される」

 可純は大げさに言ってから、味噌汁の湯気を見て声を落とした。

 「旧灯台。あれ、危険だから取り壊すって」

 旧灯台は、商店街の北端に立っている。観光客が写真を撮りに来るほど整った建物ではない。白い壁はところどころ潮でくすみ、下部の倉庫は湿気でいつも土の匂いがした。それでも、霧の朝や、夕方に海風が強くなる日は、誰かが必ず見上げていた。

 大輝も子どものころ、買い物袋を持った母の背中を追いかけながら、あの灯台を目印に歩いた記憶がある。光がともっていない日でも、上の丸いガラス室が霧の中に薄く浮かぶと、そこが町の端だとわかった。

 「危険って、昨日の小火のことですか」

 「そう。小火って言っても、煙がちょっと出ただけよ。なのに再開発会社の人が、もう建物全体がだめみたいに言うの。私、ああいう早口の説明、嫌い」

 可純はファイルを開いた。中から、古い紙の匂いがふわりと広がった。湿気、埃、かすかな油。大輝は鍋の火を弱め、手を拭いてから椅子に座った。

 領収書だった。

 茶色に変色した感熱紙。褪せたインク。手書きの但し書き。日付は何十年も前から、十年前、五年前へとばらばらに並んでいる。

 「なんですか、これ」

 「灯台の下の倉庫から出てきた。掃除のときにね。町内会の人は、古い紙だから捨てようって言った。でも珠里さんが、あんたのところに持っていけって」

 大輝は一枚をそっと取り上げた。紙は薄く、強くつまめば破れそうだった。

 但し書きには、古いペンで「台風避難者用 緑茶」とある。金額の下には、今は閉じている茶舗の印が押されていた。

 次の紙には「灯台下部 床板補修材」。その次には「迷子保護用 毛布二枚」。

 どれも、町の誰かがそのとき必要だと思い、財布を開いた記録だった。

 「これ、捨てたらだめです」

 大輝が言うと、可純は勝ったように胸を張った。

 「ほらね。私の勘は大体当たる」

 「大体、ですか」

 「細かいところは町のみんなで直すの」

 店の入口で、小さな影が跳ねた。保育園児の紗那が、母親の手を離して駆け込んでくる。首から下げた小さな袋が揺れ、中から折り紙とクレヨンがのぞいていた。

 「だいきさん、花丸いる?」

 「今はまだ、何に押すかわからないかな」

 「じゃあ、いるとき言って」

 紗那は真剣な顔でうなずき、ファイルをのぞきこんだ。小さな指が、古い領収書の端に触れそうになって、大輝はあわてて手を添えた。

 「これは、破れやすいからね」

 「おばあちゃんみたいな紙?」

 「うん。たくさん働いた紙」

 紗那はそれで納得したらしく、紙に向かって小さくお辞儀をした。

 大輝は笑いそうになったが、胸の奥がじんわり熱くなった。目の前の紙束は、ただ古いだけではない。町の人が忘れてしまった手の跡を、まだ抱えている。

 鍋の味噌汁が、静かに湯気を立てていた。霧の匂いと、古い紙の匂いと、朝の葱の匂いが、狭い店の中で混ざる。

 大輝は栗皮茶色のファイルを閉じずに、最初の一枚を透明な袋へ入れた。

 「まず、日付順に見ます。灯台が何に使われてきたのか、紙から拾い直しましょう」

 可純はうなずき、椅子に腰を下ろした。

 「その前に味噌汁。町を守るには、朝ごはんがいる」

 大輝は苦笑して、お椀を二つ出した。外では、霧の向こうで旧灯台がぼんやりと立っているはずだった。

 まだ何も守れていない。それなのに、もう一つ、手放せない仕事を抱えてしまった。



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