第18話 失望の封筒
白い封筒は、やけにきれいだった。
店の郵便受けに入っていたそれは、冬の湿気をまったく吸っていないように角が立ち、宛名の印刷もまっすぐだった。北町商店街の紙は、たいてい少し曲がっている。誰かの鞄の中で折れたり、惣菜の油がついたり、霧で端が波打ったりする。だからその封筒のきれいさは、店の机の上でかえって浮いて見えた。
差出人は、再開発会社だった。
大輝はすぐには開けなかった。味噌汁の火を見て、領収書の束をそろえ、紗那の花丸シールを引き出しに戻した。それでも封筒は、そこにあった。
「開けないと、増えるわよ」
可純が言った。
「封筒は増えません」
「開けない不安は増える」
珍しくまともなことを言うので、大輝は余計に困った。
封を切ると、中には正式な依頼書が入っていた。先日、担当者から持ちかけられた領収書整理の臨時仕事。その詳細条件だった。報酬は高い。家計にとっては、見なかったことにできない額だった。
大輝の指が、紙の上で止まる。
さやの残業、冬の光熱費、子どものいない夫婦でも積み重なる生活費。自分が主夫として家を回していることに誇りを持ちたいと思いながら、通帳の数字を見るたび、胸のどこかが縮む。町の人に味噌汁を出して、領収書を整えて、感謝される。それでも、世の中の支払いは感謝だけでは済まない。
「大輝くん?」
可純の声が遠く聞こえた。
依頼書の下部に、細かい文字があった。
『整理後、保存価値の低い不要書類については、当社指定の方法により処分するものとする。』
大輝は、もう一度読んだ。
不要書類。
その言葉が、昨日まで見ていた紙の上に、黒い判子のように押された。
台風避難者用の緑茶。迷子保護用の毛布。灯台扉金具。電球二個。帰れた、とだけ書かれた余白。優空の亡き夫の名前。正朋が吸い込みかけた紙片。真喜子の聞き取り。早貴の地図。
不要。
「これ、どういう意味?」
可純がのぞきこみ、すぐに顔色を変えた。
「捨てるってこと?」
「指定の方法で処分、とあります」
「言い方をきれいにしただけじゃない」
大輝は反論できなかった。
高い報酬は、紙を整えるためだけではなかった。整えたあと、どれを残し、どれを消すかを、相手の都合で決めるための費用だった。
自分は、先日その場で名前を書きかけた。
まだ署名していない。受け取っていない。そう言い訳はできる。けれど、封筒を開けた瞬間、心のどこかで金額を数えたのも事実だった。
大輝は、椅子に座った。
「僕、少し喜びました」
可純は黙った。
「家計が助かるって。これで冬を越しやすくなるって。町のためになる仕事なら、受けてもいいんじゃないかって」
「それは、悪いことじゃないでしょ」
「でも、不要書類って言葉を、見落としたかった」
声が震えた。
自分は、人の領収書には丁寧に向き合うと言いながら、自分の都合の悪い但し書きを見ないふりしかけた。町の記録を守る顔をして、町の記録を消す側に名前を書きかけた。
失望は、外から来るものだと思っていた。再開発会社の早口の説明、危険という言葉、きれいすぎる封筒。けれど本当に重い失望は、自分の内側から来た。
店の奥から、航貴が出てきた。いつの間に来ていたのか、手には入力途中の紙を持っている。
「大輝さん、これ、急いで返事しなくていいと思います」
「でも、返事を延ばしたら」
「延ばすのと、見ないふりをするのは違います」
航貴の声は静かだった。
その言葉で、大輝は少しだけ息ができた。
珠里と優空も、昼過ぎに店へ来た。可純がすでに事情を話していたらしく、二人とも驚かなかった。珠里は依頼書を読み、細かい文字のところで眉を寄せた。
「きれいな紙ほど、下のほうを見ないとね」
優空は、テーブルの古い領収書を一枚撫でた。
「お金が必要なのは、恥ずかしいことじゃないわ。昔だって、みんな困りながら出したのよ」
大輝はうなずいた。けれど、胸はまだ重い。
「僕は、自分だけは紙を大事にしているつもりでした」
「つもりだったと気づいたなら、大事にするほうへ戻れるわ」
珠里が言った。
夕方、さやから連絡が入った。今日は早めに帰れる、という短い文だった。大輝は返事を書きかけ、消した。星のような君のこと、航貴のこと、自分が疑ったこと。まだ話せていないことが、胸の中に積もっている。
それでも、まずは封筒だった。
大輝は依頼書を透明な袋に入れ、古い領収書とは別のファイルに挟んだ。隠すためではない。これも、町が何を選ぼうとしたかの記録になる。
可純が隣で腕を組む。
「断る?」
「今すぐ断ると、怒りで返すことになります」
「怒りで返してもいいじゃない」
「だめです。これは、ちゃんと読みます。読んで、何が危ないか整理して、それから返します」
可純は不満そうだったが、少ししてうなずいた。
「じゃあ、緑茶を濃くする?」
「それはします」
大輝は湯を沸かした。
白い封筒は、机の上でまだきれいだった。けれど、もうただのきれいな紙ではない。大輝が一度揺れたこと、見落としかけたこと、そして見落とさないと決めたことを残す紙になった。
その夜、店を閉める前に、大輝はノートに一行だけ書いた。
『失望した紙も、捨てずに読む。』
書いてから、指先で文字を押さえた。
町を守る前に、自分の弱さを処分しないこと。
それが、次に封筒へ返事をするための、最初の準備だった。




