第16話 誇り高い紙袋
珠里は、古い紙袋を捨てられない人だった。
店に来るたび、きれいに畳んだ紙袋を一枚持ってくる。茶舗の袋、薬局の袋、今はもうない洋品店の袋。どれも角が少し白くなっているが、底はしっかりしている。大輝が「使いますか」と聞くと、珠里はいつも「使えるうちはね」と答えた。
その日、珠里が持ってきたのは、栗皮茶色の古い紙袋だった。表には、かすれた金色で『北町金物店』と印刷されている。
「この袋の店主さんが、灯台の金具を何度も直してくれたの」
珠里は袋の口を開き、中から古い領収書の束を出した。大輝は慌てて手袋をつける。
「まだありましたか」
「うちの押し入れから。見つけたというより、見つかってしまった感じね」
可純が隣で身を乗り出した。
「珠里さん、隠してたの?」
「隠していたわけではないの。昔の人は、自分が出したお金を大きな声で言わなかったから」
珠里は一枚の領収書を机に置いた。『灯台扉金具 一式』。金額の横に、小さな字で何人かの名前が書かれている。
「これは、優空さんのご主人。こっちは、私の友人。もう一人は、魚屋さんの先代ね」
大輝は息を整えた。
名前は、どれも小さい。書いた人が遠慮したように、余白の下のほうに寄っている。町のために支払ったのに、目立たない場所に自分を置いた名前だった。
「どうして、ちゃんと町内会に出さなかったんでしょう」
航貴が聞くと、珠里は少し笑った。
「誇りがあったのよ。出したと自慢しない誇り。けれど、もらいっぱなしにしない誇りも、あったはずなのにね。私たちは、受け取ったことを忘れてしまった」
可純が黙った。
いつもなら、ここで何か大きな言葉を言う。けれど、その日の彼女は、湯呑みを両手で包んだまま、領収書の名前を見つめていた。
優空が少し遅れて店に来た。珠里が一枚を差し出すと、優空の目が細くなる。
「この字、うちの人だわ」
声は思ったより明るかった。泣きそうではなく、懐かしいものを棚から見つけたような声だった。
「見栄っ張りでね。家では、町内のことにお金を使いすぎるって私に叱られていたの。だけど灯台のことになると、必要だからって言って聞かなかった」
「怒ってた?」
紗那が小さく聞いた。
優空は、紗那の頭を撫でた。
「怒っていたわ。でも今は、ありがとうって言いたい」
大輝は、領収書の下部にある名前を一つずつ写し始めた。名前の読みがわからないものは、珠里や優空に確認する。閉じた店、亡くなった人、遠くへ引っ越した人。紙の中から、町の古い声が立ち上がる。
途中、可純がぽつりと言った。
「私、撤去反対って叫んでばかりいたけど、この人たちは叫ばなかったのね」
「叫ぶ人も必要よ」
珠里が言った。
「でも、叫ぶだけでは、静かに支えた人の名前が聞こえなくなることもあるわ」
可純は痛そうに顔をしかめた。
「珠里さん、優しい顔で刺すわね」
「緑茶よりは薄いでしょう」
優空が笑い、可純もようやく口元をゆるめた。
大輝は、紙袋を手に取った。底の角には、何度も使われた跡がある。灯台を直す金具を入れたことがあるのかもしれない。寄付を集めた封筒を入れたのかもしれない。誰かの弁当を運んだだけかもしれない。
用途が立派だったから大事なのではない。使われ続けたから、紙袋は紙袋のまま強くなった。
「この名前、今度の資料に載せてもいいでしょうか」
大輝が聞くと、優空はしばらく考えた。
「大きく載せなくていいと思うの。あの人は照れるから。でも、消さないで」
「はい」
「消さないで、手に取れるところに置いて」
その言葉は、大輝の中に深く入った。
記録は、飾るためだけにあるのではない。誰かが見つけられる高さに置くためにある。
夕方、珠里は空になった紙袋を畳み直した。
「これは、まだ使えるわね」
「何に使いますか」
大輝が聞くと、珠里は古いファイルを見た。
「新しい領収書を入れましょう。昔の人に、今の私たちも少しはやっていると見せないと」
可純がその紙袋に向かって、急に深く頭を下げた。
「先輩方、私、うるさい後輩ですが、よろしくお願いします」
誰も笑わなかった。
ただ、紗那だけが真似をして、紙袋にぺこりとお辞儀をした。
大輝はその様子を、領収書帳の余白に書き留めた。
『誇りは、大声でなくても残る。けれど、残す手は必要。』




