第14話 緑茶休戦協定
商店街の会議は、始まる前から湯気を失っていた。
会館の長机には、再開発会社から届いた説明資料、灯台下部倉庫の写真、理彩子がまとめた配線のメモ、真喜子たちの聞き取り表が並んでいる。紙は多い。だが、人の顔は紙より薄く疲れていた。
可純だけは元気だった。
「今日こそ言うわよ。北町商店街は、霧の中でも屈しませんって」
「屈しない前に、座ってください」
涼が静かに言った。彼は会議室の端で、椅子を一脚ずつ少し離して並べている。近すぎると怒鳴り合いになる。遠すぎると聞こえない。その中間を測るように、紙一枚分の余白を置いていた。
大輝はポットを二つ持ち込んだ。濃い緑茶と、薄めの緑茶。可純には濃いほう、再開発に賛成している店主には薄いほう。苦すぎるお茶で相手を攻撃してはいけない、と珠里に昨日教わったばかりだった。
「お茶で空気を変えられると思う?」
可純が湯呑みを受け取りながら言った。
「変えられなくても、熱いものを持っている間は、拳を握れません」
「なるほど。大輝くん、たまに怖いこと言うわね」
会議が始まると、最初に声を上げたのは魚屋の久作だった。彼は灯台を残したいと言いながら、修繕費の話になると眉間に深い皺を寄せた。
「思い出はあるよ。でも、うちはもう息子も継がない。毎月の管理費なんて出せない」
向かいの花屋の千登勢は、反対に身を乗り出した。
「お金の話ばかりしたら、何も残せないでしょう」
「お金の話をしないから、後で困るんだ」
声がぶつかりかけた瞬間、涼が机の中央に白い紙を一枚置いた。
「今日は、壊すか残すかを決める日ではありません。何を直せば安全に使えるか、まずそこだけにしませんか」
可純が口を開きかける。大輝はすばやく濃い緑茶を差し出した。
「熱いです」
「わかってるわよ」
可純は湯呑みに口をつけ、言葉を飲み込んだ。
理彩子が立ち上がる。彼女は白衣ではなく、紺色のセーター姿だったが、説明の声には、余計な飾りがなかった。
「最初の小火について、現時点でわかっていることを話します。灯台全体が急に燃えやすくなったわけではありません。下部倉庫の床は湿気を含んでいて、古い延長コードは熱を持ちやすい状態でした。そこへ掃除機をつなぎ、長い時間使ったため、発熱した可能性があります」
久作が腕を組む。
「だから危ないんだろう」
「危ない部分はあります。ただ、危ない部分があることと、建物を全部壊すべきかは別です」
理彩子は写真を一枚ずつ示した。湿った床材。錆びた金具。黒くなったコンセント周り。焦げた紙片。
「直す場所を絞れば、費用は抑えられます。逆に、危険だとだけ言って全体を壊すのは、病気の指先を見て、腕ごと切るようなものです」
「指先が灯台くらい大きいと困るわね」
可純が小声で言い、隣の優空が袖を引いた。だが、場の緊張は少しほどけた。
大輝は会議室の後ろで、湯呑みを洗いながら話を聞いていた。緑茶は、議論を勝たせる道具ではない。怒りが乾きすぎないようにする、湿った布のようなものだと思った。
そこへ、啓彰が手を挙げた。小学生なのに、背筋がまっすぐで、司会者より先に礼をする。
「発言してもよろしいでしょうか」
大人たちは少し驚き、涼がうなずいた。
「どうぞ」
「灯台保護隊としては、掃除当番を作ればよいと思います。ただし、掃除機は正朋くんに持たせないほうがよいです」
会議室の隅で、正朋が不満げに頬を膨らませた。
「ぼく、持てる」
「持てることと、吸ってよい物を選べることは違います」
啓彰の礼儀正しい断言に、大人たちは吹き出した。
涼はその笑いを逃さず、次の紙を配った。
「子どもたちの当番は、責任者の大人がいる時だけ。床材と配線の修繕案は、理彩子さんの資料を基にする。費用は、道雄さんに見積もりの比較をお願いする。今日のところは、ここまでにしませんか」
千登勢がまだ言い足りなさそうにしたが、珠里が静かに湯呑みを置いた。
「決めすぎると、帰り道に嫌いな人が増えます。今日は、嫌いな人を増やさないところまで」
その言葉は、緑茶よりも場を温めた。
会議が終わるころ、可純は不満そうにしながらも、湯呑みを自分で洗っていた。
「宣戦布告は延期ね」
「延期というより、形を変えたほうがいいです」
大輝が言うと、可純は眉を上げる。
「どう変えるの」
「敵を倒す言葉じゃなくて、何を守るかをはっきりさせる言葉に」
「大輝くん、今日やっぱり怖いわ」
可純はそう言いながら、濡れた手をエプロンで拭いた。
外へ出ると、霧は少しだけ薄くなっていた。旧灯台の頭が、屋根の向こうにぼんやり見える。
まだ光ってはいない。
けれど、壊すか残すかだけではない話が、ようやく始まった。




