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領収書屋さんと霧の中の灯台 ――北町商店街、最後の一枚まで愛で保護します――  作者: 乾為天女


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13/23

第13話 データ入力は愛でできている

 翌朝、店の戸を開けると、冬の霧より先に航貴が座っていた。

 古いノートパソコンを開き、指先だけが別の生き物のように動いている。画面には、日付、店名、金額、但し書き、紙の状態、裏に書かれたメモまで、細かい欄が並んでいた。大輝が昨日のうちに作った簡単な表は、航貴の手にかかって、まるで町内の戸籍簿のような姿になっていた。

 「早いですね」

 「家だと母が掃除機をかけ始めるので。ここなら、掃除機が出た瞬間に正朋くんが止めてくれるかなと思って」

 「止めるどころか乗ります」

 「では危険です」

 航貴はまじめな顔で言い、キーボードへ視線を戻した。

 昨日の食卓のことが、大輝の胸にまだ残っている。さやの電話から漏れた航貴の声。星のような君という曲名。聞きたいことはあるのに、航貴の横顔には、疑いをぶつける隙がなかった。彼はただ、古い紙を傷つけないように、片手で透明な袋を押さえ、もう片方の手で文字を拾っている。

 「これ、見てください」

 航貴が一枚の領収書を指した。

 昭和の日付が入った紙だった。金額は小さく、但し書きは「電球 二個」。ただし、下の余白に、別の筆跡で「帰れた」とだけ書かれている。

 「何のことだろう」

 「店名を見ると、昔、駅前にあった雑貨屋ですね。優空さんなら覚えてるかも」

 「よく気づきますね」

 「入力って、ただ打つだけなら眠くなるんです。でも、紙の癖を見始めると、急に起きます。折り目がある。濡れた跡がある。金額を二重線で直してある。人がそこで迷ったり、急いだり、悩んだりしてる」

 航貴は、薄くなった印字を少し斜めから見た。

 「町の自伝みたいです」

 その言葉に、大輝は鍋の蓋を持ったまま動きを止めた。

 自伝。

 それなら、誰が書いたのだろう。町という大きな人がいて、自分のことを語ったわけではない。お茶を買った人、床板を直した人、毛布を持って走った人、名前を残さなかった人。みんなが一行ずつ書いた結果、ここに一冊の厚いものが残っている。

 「入力の欄に、気づいたことも入れますか」

 「はい。金額だけではもったいないので。たとえば、この紙は右端が焦げています。でも焦げ方が、小火の日のものか、昔のものかはまだわかりません。理彩子さんに見てもらうため、印を付けています」

 「航貴くん、仕事が丁寧ですね」

 「丁寧というより、怖いんです。打ち間違えたら、その人がしたことまで間違えたみたいになるので」

 大輝は笑おうとして、笑えなかった。

 自分は昨夜、さやの領収書を一枚だけ見て、そこから勝手に物語を作りかけた。紙は人の跡を残す。けれど、読む側が焦れば、跡は別の形に歪む。

 引き戸が開き、真喜子と早貴が顔を出した。学校へ行く前なのに、二人とも手袋のままノートを抱えている。

 「昨日の聞き取り、追加で清書しました」

 「地図も、朝の道と夕方の道で色を分けました」

 航貴は二人に椅子を勧める。大輝は味噌汁をよそった。

 「朝から食べますか」

 「いただきます」

 真喜子は遠慮がちに答え、早貴はすでに箸を探していた。

 湯気の中で、パソコンの画面に次々と文字が入っていく。子どもの通学路。昔の電球。迷子保護用の毛布。緑茶。床板補修材。古い店名。

 どれも大事件ではない。新聞の一面に載ることもない。けれど、誰かがその日、財布を開いた。

 大輝はふと、航貴の横に置かれた小さな譜面に気づいた。表紙には手書きで「星のような君」とある。

 胸がまたざわついた。

 航貴はその視線に気づき、譜面を手に取った。

 「これ、さやさんにも確認してもらっている曲です。灯台の再点灯に合わせて、子どもたちが歌えるように」

 大輝は、そこで続きを聞けばよかった。

 けれど、早貴が味噌汁の椀を倒しかけ、真喜子が慌てて支え、航貴がキーボードを守り、大輝も雑巾を取りに走った。

 たったそれだけの騒ぎで、聞くべき言葉は流れてしまった。

 航貴は笑いながら、濡れなかったパソコンを撫でた。

 「よかった。町の自伝が味噌汁風味になるところでした」

 「風味ならまだいいです。具が入ったら困ります」

 大輝がそう言うと、早貴が小さく手を挙げた。

 「豆腐一個、入りました」

 全員が画面をのぞき込み、確かにキーボードの端に豆腐が乗っているのを見つけた。

 笑いが起きた。航貴は豆腐を箸でつまみ、真剣な顔で言った。

 「入力欄に、豆腐事故、と記録しておきます」

 「しなくていいです」

 大輝は笑いながら、雑巾を絞った。

 紙を守ることは、厳かなことばかりではない。汚れそうになって慌てる手も、失敗して笑う声も、そこにいる人の生活そのものだ。

 それでも、彼は譜面の表紙から目を離せなかった。

 星のような君。

 名前の理由を聞くには、まだ少し勇気が足りなかった。



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