第12話 浮気の心配と栗ごはん
大輝は、その夜も栗ごはんを炊きすぎた。
米びつを開けたときは、二合で止めるつもりだった。けれど、さやの帰宅時間がまた遅くなると連絡が入り、手が勝手に三合へ動いた。栗も少しだけのはずが、剥き始めると止まらない。鍋の中は、秋の名残を全部閉じ込めたように黄色くなった。
正朋なら、栗だけを先に探す。紗那なら、領収書に「くり」と書く。可純なら、余った分を会議に持っていくと言う。
大輝は炊飯器の蓋を閉じ、台所の椅子に座った。
食卓の端には、さやの財布から落ちた領収書が置いてある。もちろん勝手に見たわけではない。洗濯機の上に落ちていたものを拾っただけだ。拾っただけなのに、文字は読めてしまった。
星のような君。
曲名らしい。店名ではない。金額は高くない。だが、支払い先の横に、航貴の名前を思わせる略字がある。確かめれば済むことだ。けれど、確かめるためには、自分の中に疑いがあると認めなければならない。
炊飯器が鳴るより先に、玄関の鍵が開いた。
「ただいま」
さやの声は疲れていた。コートの肩に、外の霧が小さな水滴になってついている。大輝は立ち上がり、湯を沸かした。
「おかえり。栗ごはん、あります」
「いい匂い。多くない?」
「少し」
嘘だった。少しではない。
さやは笑い、鞄を置いた。そのとき、携帯電話が震えた。画面に出た名前を、大輝は見ないようにした。見ないようにしたのに、耳が勝手に声を拾う。
「はい。……うん、今日の録音は確認できた。子どもたち、キーは少し下げたほうがいいかも。……大輝には、まだちゃんと話せてない」
航貴の声が、電話の向こうからわずかに漏れた。歌の練習で聞いた、柔らかい声だった。
大輝は味噌汁の火を弱めすぎて、ほとんど消えかけていることに気づかなかった。
さやは電話を切り、台所に戻った。
「ごめん、仕事の続きみたいなもので」
「仕事?」
声が少し硬くなった。
さやは大輝の顔を見た。何かに気づいたように、言葉を選ぶ間ができる。
「うん。北町のことで、少し」
「北町のことを、僕には話せないんだ」
言った瞬間、自分の声が思ったより小さいことに、大輝は驚いた。怒鳴るより情けない声だった。
さやは椅子に座らなかった。立ったまま、テーブルの領収書を見つける。
「あ、それ」
「洗濯機の上に落ちてた」
「うん。ごめん」
「謝るものなの?」
さやが答える前に、インターホンが鳴った。
大輝はほとんど逃げるように玄関へ向かった。扉の外には、可純と珠里が立っていた。可純は小鍋を持ち、珠里は困ったように笑っている。
「大輝くん、栗ごはん余ってるでしょ」
「なぜわかるんですか」
「顔に三合って書いてある」
可純は勝手に上がりかけ、珠里が止めた。
「夜分にごめんなさい。明日の聞き取りのことで少し相談があって」
大輝は断るべきだった。夫婦で話すべき時間だった。けれど、断る言葉を探している間に、可純は食卓の空気を読んでしまったらしい。
「あら。栗ごはんだけじゃなくて、何か炊けすぎてるわね」
「可純さん」
珠里がたしなめるが、可純は小鍋を抱えたまま椅子に座った。
「夫婦相談なら、私が聞くわ」
「聞かないでください」
「じゃあ、珠里さんが公平に聞く」
「もっと大ごとになります」
さやが、疲れた顔のまま少し笑った。その笑いを見て、大輝の胸がまた痛くなる。疑っている自分が、ひどく小さく見えた。
珠里は、テーブルの領収書には触れず、静かに言った。
「話したいことがあるなら、温かいうちがいいわ。栗ごはんも、気持ちも」
可純がうなずく。
「冷めたら、おにぎりにすればいいけどね」
「それは栗ごはんの話です」
大輝は思わず突っ込み、さやが今度は少しはっきり笑った。
その笑いで、張りつめていたものがほんの少しゆるむ。けれど、領収書の文字はまだテーブルの上にある。
星のような君。
大輝は茶碗に栗ごはんをよそった。さやの分、自分の分、なぜか可純と珠里の分まで。
聞かなければならない。疑うためではなく、同じ食卓に置くために。
しかし、その夜の大輝は、茶碗を並べるところまでしかできなかった。
さやもまた、何かを言おうとして、湯気の向こうで言葉を飲み込んだ。




