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領収書屋さんと霧の中の灯台 ――北町商店街、最後の一枚まで愛で保護します――  作者: 乾為天女


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第10話 領収書の取引

 再開発会社の担当者が、大輝の店へ封筒を持ってきたのは、昼食の鍋がちょうど煮立つころだった。

 扉が開く音に、大輝は菜箸を置いた。灰色のコートの男性は、前と同じ笑顔で店内を見回す。古い領収書、子どもの作戦表、緑茶の湯気。彼の視線は、そのすべてを一度に測っているようだった。

 「お忙しいところ失礼します。領収書の整理をなさっていると聞きまして」

 「町の方の分を、少し手伝っています」

 「それなら、こちらの書類整理もお願いできないかと思いまして」

 封筒から出てきた紙は、厚く、白く、手触りがよかった。大輝の店に集まる古い紙とは違う。皺も染みもなく、誰かの指の跡がまだない紙だった。

 依頼内容には、北町商店街周辺資料の分類、領収書・伝票の年代別整理、不要書類の選別補助、と書かれている。報酬欄の数字を見た瞬間、大輝の喉が小さく鳴った。

 今月、給湯器の修理代があった。正朋がこぼした味噌汁で畳を替える話も出ていた。さやの帰宅が遅い日が増え、家計の話をする時間も減っている。

 紙の上の数字は、鍋の湯気よりはっきりと大輝の目に入ってきた。

 「かなり、いい金額ですね」

 「専門性のあるお仕事ですから。古い紙の扱いに慣れている方にお願いしたいのです」

 専門性。

 大輝は、その言葉に少しだけ背筋が伸びるのを感じた。主夫の手伝い、ついでの家計簿、昼食つきの相談。そう呼ばれることが多い作業に、値段と名前がついて差し出された。

 可純なら、まず疑うだろう。涼なら、条件を読み直すだろう。珠里なら、相手の話を最後まで聞く。

 大輝は、受け取り欄に置かれたペンを見た。

 「この、不要書類というのは」

 「保存価値の低い紙です。重複した領収書、古いメモ、確認不能な記録などですね。整理後、こちらで処分を進めます」

 確認不能な記録。

 その言葉が、栗皮茶色のファイルの中で眠っていた小さな名前と重なった。誰が書いたかわからない茶葉代。日付しかない軍手代。迷子を保護した誰かのメモ。

 それらも、白い紙の上では不要にできる。

 担当者は穏やかに続けた。

 「もちろん、北町の皆さんにとって大切なお気持ちは理解しています。ただ、街全体の発展には、一定の整理が必要です」

 発展、という言葉は、店の中の古い棚を少し狭く見せた。

 そのとき、扉が勢いよく開いた。真喜子と早貴が、息を切らして入ってくる。二人は手に聞き取り表を持っていた。霧の朝に歩いた人、灯台を目印にしていた人、倉庫で休んだことのある人。紙の端は風で少し折れている。

 「大輝さん、聞いてください。魚屋さんの配達の人が、夜勤明けに灯台の下で寝ちゃったことがあるって」

 「それ、言っていい話なのかな」

 早貴が小さく突っ込み、真喜子は表を抱きしめる。

 担当者は、二人の紙を見た。

 「熱心ですね」

 その一言は褒め言葉の形をしていたが、真喜子はなぜか少し身を引いた。

 大輝はペンを持ったままだった。指先に、なめらかな軸の冷たさがある。

 「お返事は、少し待っていただけますか」

 「もちろんです。ただ、早めにお願いしたい。説明会までに整理しておきたい資料が多いので」

 担当者は名刺を置き、店を出た。

 扉が閉まると、鍋が大きく泡を立てた。大輝は慌てて火を弱める。味噌を溶きすぎる前でよかった。

 可純が奥から顔を出す。

 「今の人、何を置いていったの」

 「仕事の依頼です」

 「顔が、煮干しを見つけた猫みたいよ」

 「そんな顔してましたか」

 「うれしそうで、警戒してて、でもお腹は空いてそう」

 大輝は返事に困った。

 真喜子が聞き取り表を机に置く。早貴は、店の窓から旧灯台のほうを見た。

 「大輝さん、これも整理するんですよね。捨てないですよね」

 大輝は、白い依頼書と、二人の少し折れた紙を並べて見た。

 どちらも紙だ。けれど片方は、消すための整理を含んでいる。もう片方は、消えそうな声を残すために走ってきた紙だった。

 大輝は鍋のふたを閉じた。

 「まず、昼ごはんにしましょう。お腹が空いたまま決めると、いい数字に負けます」

 可純が笑った。

 「負けそうだったのね」

 「少し」

 認めると、胸の奥が痛んだ。けれど、痛みがあるうちは、まだ選べる。大輝はそう思いたかった。



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