第48話 お姉さまと、初めて呼ばれました
「年に一度」
王妃さまは扉の内側でそう仰った。
「祭の朝だけ。あなたに顔を頼みたい。専属にはしません。王宮に住めとも店を閉めろとも言いません。……言えば、お母上と同じ答えが返ってくるのでしょう」
「店に、順番の方がおられますので」
「ほら」
十年目の顔が笑った。祭壇の間の上からの光の下で。
「年に一度。祭の朝。夜明け前に、馬車を。それ以外の日は店の椅子に座りに行きます。頭巾を被って。順番を待って」
「順番は、お待ちいただきます」
「待ちます。あの椅子は、張り替えないのでしょう」
「ご命令ですので」
それが頼みごとの中身だった。店は店のまま。王宮は年に一度。両方を手放さずに済む頼み方を、この方はひと月かけて考えたのだと思う。考えた顔で仰った。
「承りました」
わたしは膝を折った。祭壇の間の床で。
◇
支度部屋へ道具を取りに戻ると白い顔が待っていた。
「伺いたいことが、ひとつ」
ドロテ様は机の前に立っていた。乾いた穂の刷毛はもう机に無かった。片づけたのだ。自分の手で。
「どうぞ」
「……手の上に手を重ねて、と仰った。母上があなたにそうして教えたと」
「はい」
「それを——わたくしに、していただけますか」
六十三の首席が十九の化粧師に教えを乞うた。
わたしは何も言わずに貝殻を出した。紅を落とす。水を一滴。それからドロテ様の手を取って、貝殻の上に置いた。その上に自分の手を重ねた。
指の腹で、外へ。一度。二度。
重ねた手の下で、あの方の指が紅を押していた。強い。数える人の押し方だ。わたしは重ねた手で力を抜かせた。抜けたところで止めた。
「ここでございます」
「……ここ」
「指に返ってくる重さが、変わる手前。回数ではなく」
ドロテ様は自分の指を見ていた。紅のついた六十三の指を。それから白い顔で仰った。白い顔のまま、声だけが平らでなかった。
「二十年、早く、聞けばよかった」
二度目だった。二度目はわたしに向けて言われたのだと思う。
◇
式は、ひと月後だった。
花の広場に花が咲いた。マチルド様が選んだ五種類のうちの三種類。広場の花と喧嘩しない花。椅子は店から出した。張り替えていない椅子を広場の真ん中に。誰も座らない。座らない椅子がひとつ、花の中にあるだけでいい、とジュリアン様が仰った。あの方にしては飾りのある言い方だった。
顔は、リディエンヌの手だ。
夜明け前に来て、椅子の高さを合わせて、指の背で頬に触れて。紅は薄く一枚。十日見て覚えたとこの子は言った。ひと月で指は少し温かくなっていた。
広場に人が集まった。通りの人たち。粉屋のお内儀。針子さん。八百屋の娘さん。アニェス様は杖をついていちばん前に座った。女将は腕を組んで宿の戸口に立っていた。いつもの場所だ。
ノエルはリディエンヌの隣で何度も襟を直していた。フロール様が町の娘の装いで端のほうにいた。ベルナールは来なかった。代わりに王宮の糸で綴じた文が一通、朝に届いていた。中身は一行だった。〈数えております〉。
ジュリアン様は髪を右のこめかみにかけていなかった。
誓いは、短かった。この方は、飾らない。飾らない言葉は、早く届く。わたしの言葉も、短かった。長く言う必要のあることは、六年のあいだに、全部、手でやってしまった。
終わったとき、マチルド様が、いちばん前で立ち上がった。
扇を閉じて、掌に打ちつけて、それから、わたしをまっすぐに見て、仰った。広場じゅうに聞こえる声で。
「あなた、うちの甥に何をしたの」
笑いが、起きた。通りの人たちの、遠慮のない笑いだった。ジュリアン様が「叔母上」と窘めて、マチルド様は扇で払って、それからわたしの手を取った。
「——答えは、聞かないわ。見れば分かるもの」
◇
人が散ったあと、リディエンヌが、椅子の横に立っていた。
花の中の、張り替えていない椅子。この子は、その座面の擦れを、指でなぞっていた。六年、この子が座った椅子ではない。この子が座ったのは、ヴェルニエ邸の、鏡の前の椅子だ。それでも、なぞっていた。
「お姉さま」
口で、言った。
言い直さなかった。言いかけて止めもしなかった。広場の花の中で、自分の声で、一度で。
「……はい」
「六年、ありがとう」
それだけだった。それだけを言うのに、この子は、三つの季節をかけた。手紙に書いてから、秋と、冬と、春。
わたしは、帳面を開いた。一冊目。もう書く頁の無い、母の帳面。リディエンヌの頁のところに、四つ折りの紙が、挟んだままになっている。去年の夏の終わりに、この子が置いていった手紙。開けていない。
取り出して、差し出した。
「お返しいたします。開けずに、ずっと持っておりました」
この子は、受け取った。受け取って、四つの折り目を見て、それから、開けずに、自分の袖に仕舞った。
「いいの。もう、直接言ったから」
右の頬に、えくぼが出た。
何が書いてあったのか、わたしは知らない。知らなくていい。この子がいま、口で言った。手紙は、口で言えなかった日の、この子のものだ。この子が、持っていればいい。
開けなかった手紙が、ひとつ。開けなかったまま、返って、仕舞われた。それでよかった、と思った。母も、書かなかったものを、書かないまま持っていった。書かないもの、開けないものの中にだけ、残るものがある。
◇
夕方、店に戻った。
椅子を、広場から運び戻して、いつもの場所に置いた。女将が、戸口から見ていた。見ていたので、座った。一度くらい、と言われていた。座ってみると、座面の擦れが、ちょうど、わたしの形をしていなかった。長く、人が座った椅子だ。わたしの形は、これから、少しずつ、つく。
「座ったね」
「はい。一度だけ」
「……いいもんだろ、その椅子」
「はい」
女将は満足して、引っ込んだ。
ノエルが二冊目の帳面を開いて、今日の分を書いていた。自分の字で。曲がっているが、読める。〈式。花、三種。椅子、広場。紅、薄く一枚。リディエンヌ様の手〉。リディエンヌ様、と書いてある。様、をつけた。この子なりの、今日の敬意だ。
戸が、叩かれた。
◇
組合の使いだった。
名は名乗らなかった。組合の札を見せて、文を一通、台の上に置いて、返事は急がない、とだけ言って、帰っていった。ラウレット夫人の後を継いだ、新しい顔役の使いだ。夫人のときのように、戸に札を貼りには来なかった。
文を開いた。
〈組合教本、改訂第四版を編むにあたり、新たに一章を加えたく。章の題は『合わせる化粧』。執筆を、登録第四百三十一号、セラフィナ殿に乞う〉
合わせる化粧。
二十年前、母は「覆う化粧」の章を断った。十八年前、もう一度、断った。断られた章は、別の人が書いた。見えたものの、全部を。見えないものを、抜いて。
そしていま、別の名の章が、娘のところへ来た。合わせる化粧。母が断った依頼が、形を変えて、二十年かかって、戻ってきた。
わたしは、文を二度読んだ。ベルナールの言葉どおりに。良いことと悪いことが、同じ紙に書いてある類のものかどうか、まだ分からない。
「先生。それ、何」
「組合からの、依頼です」
「受けるの」
「……順番が、来てから」
ノエルは、片目を閉じて、文の匂いを嗅いだ。
「蝋と、墨と、あと、知らない紙の匂い。——前に嗅いだのと、ちょっと似てる。王宮の召しの紙と」
わたしは、文を畳んだ。畳んで、二冊目の帳面の、一頁目の裏に挟んだ。ノエルの字の、すぐ裏に。
返事は、まだしない。店には、順番の方がおられる。明日の朝、いちばんに来るのは、針子さんだ。手の香油。春が来たから、柔らかめに。
帳面を閉じた。閉じた帳面の中で、文は、開いたままだった。
第二部は、ここまでです。
帳面は二冊目に入りました。一頁目はノエルの字で、その裏に、返事をしていない文が一通、挟んであります。合わせる化粧、という章の話です。母が二度断った依頼が、名前を変えて、娘のところへ来ました。返事は、順番が来てから。
祭の朝の紅の貝殻が、来年のぶんまで揃います。ブックマークと評価を、どうかひとつ。年に一度の約束ですので。




