第47話 十年目の顔は、あなたさまのものです
夜明け前、店の椅子に、わたしが座った。
六年で初めてのことだった。椅子の高さは、リディエンヌが合わせた。板を一枚、脚の下に。母の帳面の一頁目を、この子は知らない。知らないのに、同じことをした。十日、見ていたからだ。
「動かないで」
「動いておりません」
「目が動いてる。わたしの手を見てる」
「……見ないようにいたします」
指の背が、頬に触れた。冷たい。この子の指は、まだ冷たい。冷たい指で、頬の内側から、こめかみへ。骨を読もうとしている。読めているかどうかは、分からない。読もうとしている指だということは、分かった。
香油。米粒の半分。眉を、指でならす。紅。貝殻の底で、三度。この子は数えていた。声に出さずに、唇で。三度で止めた。唇に、薄く一枚。
「……できた」
「薄く、できましたか」
「薄く。言ったとおりに。……お姉さまの顔に、負けてない」
鏡は、見なかった。見なくていい。この子の顔を見れば、分かる。右の頬にえくぼが出ている。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。——行ってらっしゃい、お姉さま」
言い直さなかった。
◇
馬車の中で、ベルナールは長いあいだ何も言わなかった。橋を渡るとき、窓の布を少し開けた。川は、白かった。二十年前の春、母はこの橋を歩いて渡った。三月、毎朝。今日で、娘が渡るのは、何度目になるのだろう。
「数えておいででしたか」
「いいえ」
「わたくしは数えておりました。今日で、四十一度目でございます」
「……数える方がおそばにおられますと、助かります」
「数えるだけの役でございます。渡るのは、あなたさまで」
数えない人間に、育ったらしい。そのぶん、数える人に囲まれている。
門を三つ。回廊。白い光。支度部屋。
鏡に、布は無かった。
王妃さまは、支度の椅子に座っておられた。湯上がりの、素顔で。フロール様が、東の窓の布を、半分だけ開けた。横からの光。いい光だ。
「おはようございます」
「おはよう。——椅子の高さは」
「合っております。十八日、毎朝、同じ高さですので」
「怖くは、ないの」
「はい」
「わたくしは、少し」
「それで、よろしゅうございます。怖いまま、座っていてくださいませ。お顔は、怖くても作れます」
道具箱を開ける。
◇
布を襟に掛ける。湯に浸した布を、固く絞る。押し当てる。擦らない。頬の内側。こめかみ。額。顎の線。布を外す。肌が、光を返す。十八日前には、返さなかった光だ。
指の背で、読む。頬の内側。乾きは、無い。粉の跡は、無い。目の下。冷えていない。血が、ここまで来ている。北の骨の上に、北の肌が戻っている。
香油を指に取る。米粒の半分。掌で温める。頬の内側に、ひと撫で。こめかみに、ひと撫で。目の下に、指の背でひと撫で。湿りを足す。それだけ。
眉。指の腹でならす。毛の流れに沿って。十八日、墨を置かずに慣らした眉は、自分の流れを思い出している。眉尻に、筆を取る。墨を含ませる。寝かせる。毛の流れに沿って、ひと筆。終わり。目の枠ができる。主張させない。
紅。貝殻の底に落とす。今日は、乾いた朝だ。水を一滴。指の腹で、外へ。一度。二度。三度。指に返ってくる重さが変わる手前で止める。唇へ。薄く、一枚。血の色より、一段だけ明るく。
粉は、出さない。包みは、箱の右に入ったままだ。
手を止める。一歩、下がる。
光の中に、顔があった。
三十八の、北の顔。泣いていない。覆われていない。盛られていない。足したものは、湿りと、眉尻のひと筆と、紅の薄い一枚。それだけの顔が、そこにあった。
「できあがりでございます」
王妃さまは、鏡を見た。
自分の目で。布の無い鏡を。長いあいだ。それから、指の背で、自分の頬の内側に触れた。鏡の中の手と、椅子の上の手が、同じところに触れた。
「……これが、十年目の顔」
「はい。あなたさまの、お顔でございます」
「粉は」
「置きません」
「……本当に、置かないのね」
「はい。箱の右に、入ったままでございます。お持ちはしましたが」
「なぜ、持ってきたの」
「使わないと決めて持ってくるのと、持ってこないのとは、違いますので」
王妃さまは、もう一度、鏡を見た。今度は、笑って。
◇
祭壇の間には、入れないはずだった。
化粧師は、支度部屋までだ。それが決まりだと、ベルナールは言った。言ってから、付け加えた。典礼の官が一人、末席に供を連れて立つことは、決まりに反しない、と。あの方の供として、わたしは扉の内側に立った。いちばん後ろ。いちばん端。
広い間だった。高い窓。上からの光。化粧に向かない光だ。この光の下に、覆った顔で立てば、粉の縁が浮く。十年、この方はその光の下に、覆った顔で立ってきたのだ。
廷臣が並んでいた。数え切れない。みんな、前を向いていた。誰も後ろを見ない。見ないことが礼儀で、見ないことが保身の場所。その前の、高いところに、陛下がおられた。遠い。顔は、はっきりとは見えなかった。見えなくていい。今日、わたしが見るのは、あの方ではない。
扉が開いた。
王妃さまが、入ってこられた。
一歩目で、間の空気が変わった。
ざわめきが、起きた。小さく。前のほうから。それが、波のように後ろへ来た。後ろへ来て、わたしの立っている扉のところまで来て、そこで——止まった。止まったのではない。静まったのだ。誰かが止めたのではなく、見た人が、順に、黙っていった。
覆いの無い顔が、上からの光の中を、歩いていく。
粉の縁は、浮かない。浮くものが無いからだ。光は、頬骨の高さと、顎の線と、額の広さに当たって、そのまま返る。北の骨が、王都の光を、返している。
祭壇の前で、王妃さまは立ち止まられた。
陛下が、その顔を、ご覧になった。
長い間だった。二十年前の朝も、こうだったのだろうか。泣き腫らした顔を、長いあいだご覧になったという。あのときは、北の顔だ、と仰った。
今日、陛下は、ひとことだけ仰った。広い間の、いちばん後ろまで届く声で。
「——十年、隣にあった顔だ」
それだけだった。
それだけで、間の中の誰もが、理解した。二十年前の顔ではない。あの朝の顔ではない。この十年、隣にあった顔。覆いの下に、ずっとあった顔。その顔を、陛下は、知っておられた。覆いの上からでも。
王妃さまは、動かなかった。動かないまま、目だけが、少し潤んだ。泣かなかった。泣かずに、十年目の顔のまま、祭壇の前に立っておられた。
隣で、ベルナールが、声にならない声で言った。
「——静まりましたな」
「はい」
「二十年前の朝も、こうでございました。廊下の端で、桶を提げて、聞いておりました」
「……同じ静まり方で」
「同じでございます。数えるまでもなく」
◇
末席の、わたしの斜め前に、白い顔があった。
ドロテ様は、首席の席に立っておられた。末席だが、首席の席だ。今日の支度に、あの方の刷毛は一本も使われていない。それでも、首席は首席の席に立つ。決まりだからだ。
陛下の一言が落ちたとき、あの方は、深く頭を下げた。
誰よりも深く。誰よりも長く。教本の絵のとおりの、正しい礼で。白い顔が見えなくなるまで。
わたしは、その背中を見ていた。
あの方は、二十年、あの朝の顔を探した。探して、数えて、章にして、粉にして、十年、覆った。そして今日、覆いの無い顔の前で、頭を下げている。誰に命じられたのでもない。自分の意思で、いちばん深く。
上からの光が、あの方の背中に落ちていた。白粉の縁が、その光の中で、少しだけ浮いていた。自分の顔だけは、あの方はまだ、覆っている。
◇
母の一筆が、耳の奥で鳴っていた。
処方はございません。あの方の顔は、あの方のものです。
二十年前に、母はそう書いた。処方が無いから、と。無いものは、渡せない。渡せないから、帳面にも書かなかった。書かないことが、母の処方だった。あの方の顔は、あの方のもの。盛っても、覆っても、足しても、最後に残るのは、その人の顔だ。母はそれを、二十年前の春に、泣いている十八の姫の顔で知っていた。
わたしは、今日、知った。
知ったというより、見た。上からの光の中で。
祭が終わって、廷臣が引いて、陛下が退かれて、王妃さまが、ゆっくりと扉のほうへ歩いてこられた。わたしの前で、足が止まった。
作られていない顔が、わたしを見た。十年目の顔。
「あなたに、もうひとつ、頼みがあります」
顔は毎日、少しずつ違います。それでも同じ人だと分かるのは、見ている側が覚えているからです。化粧師の腕ではございません。ですから、いちばん良い顔をご存じなのは、たいてい、作った者ではないほうでございます。
頼みごとの中身と、それから、店の前の広場で小さな式を。第二部の、最後の一話です。




