第46話 帳面の一頁目は、ノエルの字です
祭の前夜、店を早く閉めた。
閉めてから、帳面を開いた。母の帳面。百四十頁のうち、最後の七頁は破られている。書ける最後の頁は、百三十三頁目だ。そこが、まだ白かった。
今日の分を書く。明日の分は、明日書く。それが帳面の決まりだ。けれど今日は、明日の支度を書いておく日だった。書いておかないと、明日の朝、手が迷う。迷った手は顔に出る。
筆を取る。
〈コンスタンス様。春の、戴冠の月の朝。肌は戻った。十八日、粉を断ち、夜の香油のみ。頬の内側の色、肌に戻る。目の下、血の巡り戻る。当日は、湯と指の背。香油は米粒の半分。眉尻にひと筆。紅は薄く一枚。粉は置かない〉
そこまで書いて、一行あけた。
最後の一行を、どう書くか。母なら、何と書くか。考えるまでもなかった。
〈処方はございません。あの方の顔は、あの方のものです〉
百三十三頁目が、埋まった。
母の帳面は、母の字で始まって、母の言葉で終わった。あいだの六年分が、わたしの字だ。それでいい。この帳面は、最初から最後まで、母のものだった。わたしはそれを、借りていたのだ。六年。
◇
二冊目を、綴じる。
紙は昼のうちに揃えてある。百四十枚。母と同じ数にした。表紙は革。角を革で包む。一冊目の角が擦り切れたから、二冊目は最初から包んでおく。母はそうしなかった。わたしはする。母と違うところが、一つくらいあっていい。
糸は、道具箱の底から出した。
油紙の包みに、木札と一緒に入っていた。一束の糸。王宮の綴じ糸。二十年前、先代の首席が母に渡した糸の、残りだ。母は一冊目を綴じ直すのに半分使って、残りを札と一緒に仕舞った。二冊目のために、だろう。二冊目があることを、母は知っていた。
針に糸を通す。紙の背に穴を開ける。七つ。糸を通す。引く。緩めない。きつくしすぎない。指に返ってくる重さで止める。綴じ糸も、紅と同じだ。
綴じ終えて、表紙を閉じた。開いた。一頁目が白い。
「ノエル」
二階から降りてきた。手に筆を持っていた。呼ばれると分かっていた顔だ。
「一頁目に、書いてください」
「……おれが?」
「この帳面は、今日からのものです。今日の店には、あなたがいます。いる人が、書きます」
ノエルは筆を噛みかけて、やめた。噛み癖は、ジュリアン様に半年叱られて、だいぶ直った。
「何を書くの」
「店の名と、日付を」
「店の名って、看板のやつ?」
「はい」
ノエルは、帳面の前に座った。座って、しばらく一頁目を見ていた。読めなかった頃と、同じ見方で。それから、書いた。
線は、まだ曲がっている。でも、形になっている。読める。
〈化粧 セラフィナ〉
その下に、日付。春の、戴冠の月の、祭の前日。
「……汚いな」
「読めます」
「読めりゃいいんだよ、字なんて」
言いながら、ノエルは自分の字を、指でなぞっていた。なぞる指が、少しだけ震えていた。
「先生」
「はい」
「おれ、これが書きたかったんだ。最初から」
帳面を読みたい、とこの子は言った。読みたいのだと、わたしは思っていた。ジュリアン様もそう思っておられた。違った。読みたかったのではない。書きたかったのだ。自分の字で。この店の帳面の、どこかに。
「一頁目です。どこか、ではなく」
「……うん」
右の目から先に、涙が落ちた。紙に落ちる前に、この子は袖で受けた。帳面を汚さないためだ。良い見習いだ。
◇
向かいの戸口から、女将が来た。
店が閉まっているのに、戸を開けて入ってきて、椅子に座った。張り替えていない椅子に。女将は座面の擦れを、掌で撫でた。
「明日は、誰が座るの」
「明日は、王宮の椅子に、王妃さまが」
「あんたは」
「立っております。いつもどおり」
女将は、ふん、と鼻を鳴らした。それから、帳場の二冊目を覗いて、一頁目の字を見て、何も言わずに、ノエルの頭を一度だけ叩いた。軽く。褒めるときの叩き方だ。
「あんたがその帳面に、店の客で最初に書いた頁はね、あたしの顔だよ。右の頬。覚えてる?」
「……覚えております。店を開けて、三日目の頁です」
「言ってなかったからね。二冊目の一頁目が、この子の字なら、釣り合いが取れてる」
女将は立ち上がって、戸口で振り向いた。
「明日、帰ってきたら、座んなさい。あんたがその椅子に。一度くらい」
返事をする前に、戸が閉まった。
◇
戸が叩かれた。二度。それから、少し間があって、もう一度。
リディエンヌだった。
「明日の朝、何時」
「夜明け前に、馬車が来ます」
「じゃあ、その前に来る。お姉さまの顔、作るから」
六年、妹の顔を作ってきた朝と、同じ時刻に。今度は、妹が来る。
「……こんな時刻に、一人で」
「平気。もう慣れた。家にいるより、ここの通りのほうが安全だし」
家の話を、この子はさらりと言う。ヴェルニエの家は、いま、静かだという。継母は夜会に出ない。父は相変わらず何も言わない。この子は十日に一度、店に来て、代金を払って、帰る。帰る場所が、まだ家であることを、わたしは聞かない。
「紅は、薄くしてね。お姉さまの顔、派手にすると負ける」
「負ける、とは」
「お姉さまの顔に、紅が」
右の頬にえくぼが出た。この子は、わたしの顔を見ている。六年、わたしがこの子の顔を見てきたのと同じ目で。いつの間に、そういう目になったのだろう。
「では、薄く」
「うん。任せて。……十日、見てたから」
そう言って、夜道を帰っていった。ノエルが途中まで送った。帰ってきて「あいつ、道、覚えてる」と妙に感心していた。
◇
最後に、ジュリアン様が来た。
短かった。馬車も降りず、戸口まで。
「明日は、店の側で待ちます」
「王宮へは」
「行きません。あなたの仕事を、見に行く場所ではない。終わって帰ってくる場所に、いるほうがいい」
この方は、いつもそうだ。いる場所を、先に決めてしまう。
「……終わったら、式の話を」
「ええ。祭が先で、式があと。順番どおりに」
ジュリアン様は、わたしの手を見た。爪のふちの染み。それから、帳場の二冊目の帳面を見た。一頁目の、曲がった字を。
「読める」
「はい」
「汚いが、読める。——良い一頁目だ」
それだけ仰って、帰られた。
◇
灯りをひとつ残して、明日の道具を詰めた。
蓋の裏に篩を二枚。左に紅の貝殻。右に白粉の包み——明日は使わない。それでも入れる。使わないと決めて持っていくのと、持っていかないのとは、違う。香油。眉墨。布。木札は、典礼に預けたままだ。底板の下は空だった。空のまま、底板を戻した。
二冊目の帳面は、一冊目の横に置いた。持っていくのは一冊目だ。最後の頁に、明日の処方が書いてある。処方はございません、と。
片手で提げて、重さを確かめた。半刻歩ける重さ。母の詰め方だ。
窓の外は、まだ暗い。暗いが、東の端だけ、色が変わり始めている。夜明け前に、王宮の馬車が来る。その前に、妹が来る。
一頁目というのは、書いた人のものです。二冊目の帳面は、だから、もうわたくしのものではありません。店のものです。それでよいのだと思います。
次回、十年祭の朝です。夜明け前の支度から、祭壇の間まで。
二冊目の帳面の表紙の革が、もう少し良いものになります。角は、もう包んでありますけれど。よろしければ、ブックマークと評価を。




