第45話 湿りだけが、どうしても分かりませんでした
首席の部屋に、首席はいなかった。
「典礼に、お呼び出しでございます。審理の席に」
ベルナールはそう言って、待つか帰るかを聞いた。わたしは待った。待つと決めた日に帰っては、待たなかったことになる。
首席の部屋は、支度部屋より広くて、支度部屋より物が少なかった。机。椅子。壁一面の棚。棚には教本が並んでいた。組合教本の改訂第三版。同じ本が十冊以上ある。版の違う古いものもある。本の背は、どれも割れていた。
待つあいだ、棚の一冊を手に取った。九の章を開く。覆う化粧。灰の下地。白粉を厚く。境目を粉でぼかす。知っている章だ。読み直して、気づいた。手順の順番が、母の順番だった。椅子。光。指の背。眉。香油。粉。母がいつもそうしていた順に、覆う化粧の章は書かれている。覆う、という言葉だけが、母のものではなかった。
本を棚に戻した。窓の外が暮れていった。フロール様が燭台をひとつ置いて、下がった。
夜になって、足音のない足音が、扉の前で止まった。
◇
白い顔は、燭台の光の中でも白かった。
ドロテ様は机の向こうに座った。わたしは手前の椅子に座っていた。向き合った。この方と向き合って座るのは初めてだった。検分の席では、あの方は立っていた。
「典礼に、取り下げを出してまいりました」
最初の言葉がそれだった。
「大礼当日の検めの権。申し立てを、わたくしの名で取り下げました。祭の朝、首席はお顔を検めません。——あなたが作ったお顔のまま、王妃陛下は祭壇にお立ちになります」
取り下げ。自分の手で。
わたしは何も言わなかった。礼を言うのは違う気がした。この方は、わたしのために取り下げたのではない。
「理由を、お聞きにならないの」
「伺ってよろしいのでしたら」
「……聞かれなくても、話します。そのために呼びました」
白い顔が、燭台のほうを向いた。光が横から当たって、初めて、顔に影ができた。影があると、人の顔になる。
「組合教本の、九の章。覆う化粧。あれを書いたのは、わたくしです」
◇
無記名の章。母が二度、断った依頼。
「二十年前、組合の夫人が、あなたの母上に章を頼みました。断られた。十八年前、もう一度頼みました。また断られた。——それで、夫人はわたくしのところへ来ました。首席付きの次席なら書けるだろう、と。書きました。名は、出しませんでした。出せませんでした。あれは、わたくしの処方ではなかったので」
燭台の火が、少し揺れた。
「二十年前の春。三月。あなたの母上は、毎朝、夜明け前に来て、姫さまのお顔を整えて、下がりました。わたくしは、次席でしたから、支度部屋の隅に控えておりました。三月、毎朝。見ておりました」
見ていた。母の手を。三月、毎朝。
「椅子の高さ。光の向き。指の背。眉をならす指。香油の量。髪の直し方。全部、数えました。数えて、書き留めました。わたくしは、なんでも数えます。……数えたものを並べて、章にしました。覆う化粧、と夫人が名をつけました。わたくしがつけたのではありません。わたくしが書いたのは、母上の手順です。見えたものの、全部」
見えたものの、全部。
「ただ、ひとつだけ、見えないものがありました」
白い顔が、わたしを見た。
「湿りです」
湿り。
「母上の粉は、指に吸いつく粉でした。母上の香油は、肌に入る油でした。同じ材料を、同じ順で、同じ量で使っても、わたくしの粉は肌の上に乗って、浮きました。何が違うのか、二十年、数え続けました。篩の回数。練りの回数。火の強さ。水の一滴。——湿りだけが、どうしても、分かりませんでした」
分からないまま、章にした。分からないまま、粉を作らせた。夫人の店に、章のとおりに作らせて、王宮に納めさせた。乾いた粉を。目の細かい、良い粉を。湿りの無い粉を。
十年。毎朝。
「あの粉が、お肌を」
「はい。わたくしの粉が、十年、王妃陛下のお肌から湿りを奪いました。奪っていることは、分かっておりました。分かっていて、止められませんでした。止めれば、あの朝の顔には二度と近づけない、と思っていたので。——あの朝の顔に、特別な処方があると、わたくしも信じていたのです。母上が、書き残さなかっただけで」
処方はございません。
あの一枚を、この方は綴りの間で見た。目を離さなかった。懐かしんでいたのではない。二十年、探していたものが無かったと、紙に書いてあったのだ。
「あの一枚を読んだとき、分かりました。特別な処方など、最初から無かった。無いものを、わたくしは二十年、数えていた。数えられないものを、数えられるものに置き換えて、章にして、粉にして、十年、王妃陛下のお顔に乗せていた」
燭台の火が、もう一度揺れた。
「カトリーヌにも、同じ粉を渡しておりました。わたくしの粉で作る顔なら、わたくしの目で検められますので。——推した理由は、それだけです。腕ではなく、粉でした」
ノエルの鼻が材料庫で嗅ぎ当てたものの答えが、これだった。考える場所は橋の向こうにある、とあのとき思った。考える前に、数える人が自分で数え上げてくださった。
声は、平らだった。最後まで平らだった。平らな声で、この方は、自分の二十年を、数え終えた。
◇
「帳面の糸」
ふと、ドロテ様が言った。
「検分の日、あなたの帳面の綴じ糸を見ました。あの糸は、王宮の綴じ糸です。二十年前、先代の首席が、母上に一束お渡しになった。帳面の糸が切れかけていたので。わたくしが、渡す役でした」
母の代からの古い糸。手入れが悪いのだと思っていた糸。
「あの糸を見て、母上の帳面だと分かりました。分かって、あなたの腕を見る前に、糸を見てしまった。……数える人間の、悪い癖です」
わたしは、帳面を膝の上で抱え直した。糸は、まだ替えていない。替えなくてよかった、と思った。
「首席様」
「なに」
「湿りは、見えません」
わたしは、申し上げた。
「見えないので、数えられません。練るときに、指に返ってくる重さで止めます。紅が指を離したがる手前。粉が指に吸いつく手前。手前、というのは回数ではなく、手の中にしかございません。母は、それを教えるとき、わたくしの手の上に自分の手を重ねました。目では、教えませんでした」
「……手の上に」
「はい。見ているだけでは、分からないように、できております。意地悪ではなく。そういう種類のものですので」
ドロテ様は、長いあいだ黙っていた。燭台の火が、短くなっていた。
「二十二度」
ぽつりと、仰った。
「あの日、あなたの練りは二十二度でした。数えて、覚えました。覚えても、作れませんでした。……二十二度で止める理由が、手の中にあったのですね」
「はい」
「二十年、早く聞けばよかった」
それは、母に向けた言葉だったのだと思う。わたしに向けた顔で、母に言った。わたしは、何も答えなかった。答える資格が、わたしにはない。
◇
ドロテ様は立ち上がった。教本の棚の前で、一度、足を止めた。背の割れた十冊を、見た。見て、触れなかった。
「祭が終わったら」
扉の前で、背を向けたまま仰った。
「伺いたいことが、ひとつだけございます。——ひとつだけ」
何を、とは仰らなかった。
扉が閉まった。足音は、しなかった。燭台の火が、最後にひとつ揺れて、細くなった。わたしは、帳面の糸に指を当てた。王宮の糸。二十年前に、この方が母に渡した糸。
見えないものを数えようとすると、見えるものだけで出来たものが出来上がります。それは嘘ではありません。ただ、足りないだけです。足りないまま二十年続けることの重さは、数えられるほうの側にしか、分かりません。
祭の前夜がまいります。母の帳面が、最後の頁まで埋まる夜です。




