第44話 手袋の下を、母だけが知っておりました
支度が終わったあと、ベルナールはわたしを首席の部屋ではなく、小さな控えの間へ通した。
窓がひとつ。椅子がふたつ。それだけの部屋だった。
「首席のお部屋へ上がる前に、四半刻だけ、いただきます」
「はい」
「——わたくしの話でございます」
あの方は椅子に掛けた。わたしも掛けた。それからあの方は手袋の指先を一本ずつ引いた。
右。それから、左。
◇
両手の甲から指の背にかけて、古い傷が広がっていた。
火傷ではない。火傷なら、縁がもっと滑らかだ。これは、縁がぎざぎざで、皮膚の色がまだらに抜けている。薬傷だ。強い薬に長く触れた手の、二十年経った姿。指の関節のところだけ、皮が厚く盛り上がっている。曲げるたびに引き攣れるのだろう。それで、指を組み直す癖がついたのだ。痛みを、逃がすために。
わたしは、目を逸らさなかった。
「……二十年前、わたくしは二十五で、材料庫の下働きでございました」
声は、いつもの慇懃な声だった。いつもより、ゆっくりだった。
「首席の白粉の元を、水で晒す役でした。鉛の白を灰汁で洗って、晒して、乾かす。当時の首席は鉛をお使いでした。組合の教本が鉛を止める前でございます。晒す者の手がどうなるかは誰も気にしない時代でした。下働きの手は記録に残りませんので」
鉛。ラウレット夫人の手の甲の染み。十七から二十二まで使って五年で歯が抜ける、と教本に書き足された粉。
「春の初め、手の皮が剥けました。剥けて、血が出て、塞がらなくなりました。それでも晒す役はわたくし一人でした。休めば首席の粉が切れます。首席の粉が切れれば、北からおいでになった姫さまの毎朝のお顔が作れません」
二十年前の春。三月。
「夜明け前の廊下でお母上とすれ違いました。わたくしは桶を提げて、お母上は道具箱を提げて。すれ違いざま、お母上がわたくしの手をご覧になりました」
ベルナールは、自分の両手を見下ろした。
「何も仰いませんでした。次の朝、また廊下ですれ違いました。そのときお母上は桶を置かせて、わたくしの手を取って、香油を塗られました。指の背で。傷の縁から内へ。——それだけして、何も仰らずに姫さまの部屋へ入っていかれました」
指の背で。
「毎朝でございます。三月。夜明け前の廊下で桶を置かせて、香油を塗って、何も仰らずに。……三月目の終わりに血が止まりました。傷は残りましたが手は動くようになりました。動くようになったのでわたくしは材料庫を出て、典礼の末席に回していただけました。字が書けたからでございます」
手が動くようになったから、字が書けた。字が書けたから、典礼に上がれた。典礼に上がったから、二十年後に母の娘の戸を叩く役になった。
「お母上が王宮を去られる朝、わたくしは門まで走りました。お礼を、と。お母上は手を出しなさいと仰って、最後の香油を塗って、それからこう仰いました」
あの方は、母の言い方を真似なかった。真似ずに、そのまま言った。
「——これは記録に残らない仕事ですから、あなたも、残さないでください」
◇
記録に残らない仕事。
処方はございません、と母は書いた。残す処方が無かったからだ。けれど、残さないと決めた仕事も、あったのだ。典礼の綴りにも、帳面にも、下賜の札にも乗らない仕事が。夜明け前の廊下で、桶を置かせて、三月。
「あの方は、記録に残ることがお嫌いでした」
ベルナールは、手袋を膝に置いたまま仰った。
「だからわたくしは、記録に残らないものを覚えている役でございます。二十年、そのつもりで典礼におりました。……娘御の戸を叩く役が回ってきたとき、わたくしが手を挙げたのはそれが理由でございます。二十年前にお選びした方の、娘御でいらっしゃいますので、と申し上げましたが——あれは、典礼の言い方でございます。わたくしの言い方は、別にございます」
「……伺ってもよろしいですか」
「わたくしの手を、最初に見た方の、娘御でいらっしゃいますので」
わたしは、何も言えなかった。
言えない代わりに、手を出した。自分の手を。爪のふちに紅の染みのある手を。ベルナールは、その手を見て、それから自分の手を見て、口の端だけで笑った。歩幅ではなく、顔で笑ったのを、初めて見た。
「似ておいででございます。仕事の分だけ残る手が」
わたしは道具箱を開けた。香油の瓶を取る。栓を抜く。指に取る。掌で温める。
「塗らせていただいても」
「……もう、二十年前の傷でございます」
「傷は二十年前でも、手は今日の手でございます」
あの方は、手を出した。
指の背で塗る。傷の縁から内へ。関節の盛り上がりは、押さない。撫でるだけ。右の甲。左の甲。指を一本ずつ。油が入ると、引き攣れた皮が少しだけ緩む。緩んだ分だけ、指が伸びる。
塗り終えるまで、あの方は何も言わなかった。言わない代わりに、指を組み直さなかった。
◇
「もうひとつ、お話ししておくことがございます」
あの方は、手袋を取り上げた。まだ、嵌めなかった。
「首席のことでございます。——ドロテ様は、二度、代わりでいらした」
「代わり」
「二十年前、姫さまのお顔の化粧師を選ぶとき、当時の首席は次席のドロテ様を推されました。けれど姫さまがお母上を、とお望みになった。八人目の外の化粧師を。ドロテ様はそのとき四十をいくつか過ぎておられて、教本の全部を諳んじておられて、それでも選ばれませんでした」
二十年前のあの人も、同じことを言いました。ドロテ様の声。置いてあった言葉。
「十年前、戴冠の朝。大礼の化粧師に典礼はまたお母上を召そうとしました。お母上は辞退されました。店に順番の方がおられますので、と。——それでドロテ様が代わりに立たれました。代わりに立って、その朝から首席になられました」
二度、代わり。
一度目は、選ばれなかった代わり。二度目は、辞退された席の代わり。どちらも、母が理由だった。母は、何もしていない。選ばれて、辞退しただけだ。それでも、あの白い顔の下で、二十年、何かが数えられてきた。
「……首席は、母を」
「お恨みかどうかはわたくしには分かりません。あの方の顔はわたくしにも読めませんので。ただ」
ベルナールは、手袋を嵌め始めた。右。それから左。一本ずつ、丁寧に。
「ただ、ひとつだけ。検分の日、あなたさまが帳面を机に置かれたとき。首席は帳面の綴じ糸をご覧になった。あの方があなたさまの腕より先に見たのは、糸でございました」
綴じ糸。
母の代からの、古い糸。そろそろ替えねば、とあの日も思った。替えていない。替えていない糸を、検分の席で見られた。道具の手入れを見られたのだ。首席は、道具を見る方だ。篩の目の細かさまで数える方だ。古い糸の帳面を、手入れの悪い道具と見たのだろう。あのとき指が止まったのは、そのためだ。
「手入れが行き届いておりませんでしたので」
「……さようでございますか」
手袋を嵌め終えた手が、一度、組まれた。ほどかれた。
「では、参りましょう。首席が、お待ちでございます」
手袋は、手を守るためだけのものではありません。手を見せないためにも使います。どちらのつもりで嵌めておられるのかは、外れるまで分かりません。たいていは、両方でございます。
この次は、首席のお部屋で二人きりの話です。覆う化粧の章を書いた方の、二十年ぶんの話になります。




