第43話 白粉を、二十日だけお断ちください
二十日、と申し上げた。正しくは、もう十八日だった。
「白粉をお断ちください。祭の朝まで。夜は香油だけ。朝は湯と、指の背だけ」
「……十八日」
「はい。数え直しますと」
「あなたも、数える人なのね」
「母の帳面が、数える帳面でしたので」
王妃さまは、支度の椅子でほんの少し笑った。笑う回数が、増えている。増えるたびに、頬の内側の色が少しずつ肌の色に戻っていく。
朝の支度は、四半刻で終わる。
湯で顔を拭う。布は押し当てるだけ。擦らない。乾く前に、香油を指に取る。米粒の半分。掌で温める。頬の内側から、こめかみへ。指の背で。目の下に、ひと撫で。眉を指の腹でならす。眉尻に墨はまだ置かない。置くのは祭の朝だ。いまは置かずに慣らす。眉が自分の流れを思い出すまで。
粉は、出さない。一度も。
机の端に、首席の刷毛と筆が、教本の順に並んだままだった。穂は乾いている。もう、十日。誰も片づけない。片づけるのは首席の仕事で、首席はこの部屋に来ない。来ないことが、あの方の申し立てだった。
◇
四日目に、フロール様が廊下で囁いた。
「城の中が、ざわついております」
「何か、ございましたか」
「王妃さまが、昨日、粉のないお顔で、朝の謁見にお出ましに」
謁見。廷臣の前に、粉のない顔で。
「最初は誰も何も言いませんでした。言えなかったのだと思います。それから古い侍従が一人、小さな声で……北の顔だ、と」
北の顔だ。二十年前に、陛下が仰ったという、あの一言。
「それが廊下じゅうに回りまして。いまでは、お顔が変わられた、いえ戻られた、と。……わたくしは何も申しておりません。申さなくても回るものは回ります」
回るものは回る。讒言も噂も北の顔も。投げた人の手を離れれば、落ちる場所は選べない。今度は良い場所に落ちている。
「首席は」
「お部屋からお出になりません。典礼の審理をお待ちだそうです」
待っている。百年の定めを盾に。検めの権が認められれば、祭の朝、あの方の目がこの顔を通る。通らなければ、粉が乗る。十八日の湿りの上に、乾いた粉が。
それは、わたしが考えることではない。考えても、香油は一滴も増えない。
◇
店に戻ると、客が三人並んでいた。
三人目の椅子に座ったのは、リディエンヌだった。
「お姉さ——セラフィナさん」
言い直した。この子は、まだ言い直す。言い直すのを、わたしは咎めない。言い直したあとの名前のほうが、いまはこの子の言いたい名前に近いからだ。
「今日は、どうなさいます」
「今日は、わたしの顔じゃなくて。……聞いて」
鏡の中で、この子は言った。
「式の支度、手伝わせて」
手が、止まった。紅を練る手が。練りに動揺を混ぜてはいけないのに、混ぜた。
「式の」
「うん。祭が終わったらすぐなんでしょう。お姉さまは祭の支度で手いっぱいで、自分の式のことなんか一つも考えてないってノエルが言ってた」
ノエルが階段の上で、聞こえないふりをしている。
「花はマチルド様が決めるんでしょ。でもお姉さまの当日の顔は、誰が作るの」
「……自分で」
「自分の顔を、自分で? 鏡を見ながら?」
六年、一度も自分の顔を作ったことがない。鏡は客の顔にだけ使ってきた。自分の顔は毎朝水で拭いて、それきりだ。
「わたしがやる」
この子は、鏡の中から、まっすぐに言った。
「六年、お姉さまがわたしの顔を作ったんだから、一日くらいわたしがお姉さまの顔を作ったっていいでしょう。……下手だけど。毎朝自分で白粉やめて香油だけで、お姉さまのやり方、十日見てれば覚える。覚えるから」
右の頬に、えくぼが出ていた。
六年、姉が妹の顔を作ってきた家で。今度は、妹が姉を支度する。
「……お願いします」
わたしは、そう申し上げた。客に対する言い方で。この子はそれで、少し泣いた。泣いて、鏡を見て、「泣いたら顔が崩れる」と言って自分で目元を指で押さえた。指の背で。わたしのやり方だ。
その日の午後から、この子は毎日来た。
座らない。立って、手元を見る。香油を量る。蜜蝋を削る。火にかざす。溶け際で下ろす。混ぜる。冷ます。とろみが筋を引く。瓶に移す。栓をする。ひとつずつ、声に出して教えた。教えながら、気づいた。わたしは母に、こうして教わった。声に出して。一動作ずつ。母の声の代わりに、いまは自分の声がしている。
◇
夕方、ジュリアン様がいらした。
店の中を見て、少し立ち止まった。いつもと、様子が違ったからだ。
帳場には、ノエルの手習いの紙。その横に、マチルド様から届いた花の見本の束。机の上には王宮用の香油の瓶が五本。奥の棚には式のための、まだ手をつけていない紅の貝殻。そして椅子にはリディエンヌが座って、わたしの香油の練り方を手元を覗き込んで見ている。
「……忙しそうだ」
「祭の支度と、式の支度が、同じ机の上にございます」
「順番は」
「祭が先、式があと。机の上では、混ざっておりますが」
ジュリアン様は、花の見本を一枚取って、眺めて、戻した。
「叔母上が、これを三十種類送ってきました」
「三十」
「あなたに選ばせろ、と。ただし叔母上の推す五種類以外を選んだら式には来ない、と」
「……それは、選ばせておりませんのでは」
「叔母上の選ばせ方です」
リディエンヌが、小さく噴き出した。ジュリアン様はそれを見て、ほんの少しだけ、口の端を動かされた。この方は妹が店にいることを何も聞かない。聞かないことが、この方の受け入れ方だった。
「王宮のほうは」
「十八日、白粉を断っていただいております。今日で四日目。城の中が、北の顔だ、と」
「北の顔」
「二十年前に陛下が仰ったのと同じ言葉だそうです。……わたくしは何も申しておりません」
「でしょうね。あなたはいつも何も言わない」
その方は、窓の外を見た。冬の終わりの、薄い夕方の光。
「首席の申し立ては」
「審理中でございます。祭の前に、沙汰が」
「……通ったら」
「通ったら、祭の朝、首席の目がお顔を通ります。通らなければ粉が乗ります」
「あなたは、どうするのですか」
「合わせます。どちらに転んでも」
ジュリアン様は、しばらく黙って、それから仰った。
「あなたの『合わせる』はこのごろ、壁にも使う言葉になった」
「はい。ジュリアン様が、そう教えてくださいました」
◇
五日目の朝、王宮の門のところで、ベルナールが待っていた。
いつもの慇懃な顔だった。いつもより、手袋の指が固かった。
「本日、お支度のあとに、ひとつ」
「はい」
「首席が——あなたさまと、二人で話したい、と」
二人で。
白い顔と、二人で。あの方が検分の席と綴りの間と支度部屋の扉の他で、わたしに向かって口を開いたことは一度もない。
「場所は、お部屋で」
「……承りました」
承った。承ったが、何を話すのかは、見当がつかなかった。申し立てのことか。百年の定めのことか。それとも——帳面の綴じ糸のことか。
白粉を断つ、というのは、何かをする処方ではなく、何かをしない処方です。しない処方がいちばん難しいのは、している人に、しないでくださいと言わねばならないからです。
次回、手袋の下を拝見します。二十年、記録に残らなかった仕事の話です。




