第42話 王妃さまが、店の椅子にお座りになりました
その朝は、迎えの馬車が来なかった。
代わりに、夜明けに文が来た。ベルナールの字で一行。〈本日は、お越しに及びません。店をお開けください〉。
店を開けた。それだけの文だ。それだけの文をいつもより念を入れて読んでしまったのは、あの方の字がいつもより少しだけ急いでいたからだ。行の終わりが上がっていた。
仕込みをした。白粉を篩う。二度。貝殻を拭く。椅子の座面の布を手で伸ばす。擦れたところは伸ばしても擦れたままだ。何年も、人が座った布だ。
向かいの戸口から、女将が出てきた。
「今日は誰が座るの」
「今日は——」
言いかけたとき、通りの端に馬車が入ってきた。黒い、紋も飾りもない馬車。
◇
最初に降りたのはベルナールだった。次にフロール様。お仕着せではなく、町の娘の装いで。最後に頭巾を深く下ろした婦人が、フロール様の手を借りて降りた。
女将は、腕を組んだまま、それを見ていた。見て、腕をほどいて、何も言わずに自分の宿へ引っ込んだ。母を知っている人たちはみんな、聞かないでいるのが上手い。
婦人が、戸口に立った。
「——ここが、あの人の娘の店」
乾いた声ではなかった。
わたしは膝を折りかけて、やめた。ここは店だ。店で膝を折れば頭巾の意味が無くなる。代わりにいつもの言葉を言った。六年、毎朝言ってきた言葉を。
「いらっしゃいませ。順番に、お呼びしております」
頭巾の下で、口の端が動いたのが分かった。
「順番は」
「本日は、お客さまがお一人目でございます」
◇
狭い店だ。棚が三つ。椅子がひとつ。鏡がひとつ。窓から、朝の光が横に入る。
婦人は、店の中を見た。棚を見て、貝殻を見て、篩を見て、壁の認可の札を見て、それから階段の途中で固まっているノエルを見た。ノエルは戸が開いた瞬間に鼻を動かして、それきり動いていない。王宮の匂いをこの子は知っている。材料庫で覚えた匂いだ。
「あの子が、字を習っている子ね」
「はい」
「……手は、止まっているようだけれど」
「今日は、手習いを休ませます」
ノエルが、それでやっと動いた。動いて、二階へ上がった。上がり際に「油、温めとく」と小さく言った。良い子だ。何の油かは聞かなかったが、たぶん正しい油を温める。
わたしは椅子を引いた。
「どうぞ、お掛けくださいませ」
婦人は、椅子を見た。座面の擦れた布を。背もたれの、色の落ちたところを。
「その椅子は」
「店を借りたときから、あった椅子でございます。前の店の方の置き土産で、わたくしの店で最初に座ったのは、向かいの宿の女将でした。古いものですので、布が薄うございます。……座り心地だけは、王宮の椅子に負けません。人が何年も、座り込んだ椅子ですので」
婦人は、座った。
頭巾を、自分の手で下ろした。フロール様が手を出しかけて止めた。自分で下ろしたい人の頭巾に、手を出してはいけない。この方はそれが分かる方になっていた。
王妃さまが、店の椅子に座っておられた。
素顔で。王都でいちばん高いところにいる方が、この通りでいちばん狭い店の、いちばん古い椅子に。窓から横に入る朝の光が頬の内側に当たっていた。粉の跡はまだある。三日の香油で消えるものではない。けれど、三日前より、指で分かるくらいには、戻っていた。
そして正面に、鏡があった。
◇
王妃さまは、鏡を見なかった。
見ないのではなく、見られないのだ。十年、布を掛けてきた目は、布の無い鏡の前でも、鏡の手前で止まる。わたしは鏡の前に立った。鏡を背にして。この方の目に、わたしの顔だけが入るように。
「椅子の高さを、合わせます」
椅子の脚の下に、板を一枚。母の帳面の一頁目。顔に触れる前に、椅子の高さを合わせること。合わせた。
光を見る。横からの光。いい光だ。この店の朝の光は、店を借りた日から、いちばんの道具だった。
触れる。
指の背で、頬の内側。乾きは、三日前より浅い。こめかみ。耳の前。骨を読む。頬骨が高い。顎の線がまっすぐ。額が広い。北の骨だ。光を拾う骨。
粉は、出さない。
香油を指に取る。米粒の半分。掌で温める。頬の内側に、ひと撫で。湿りを足す。それだけ。眉を、指の腹でならす。眉の流れに逆らわない。眉尻に、墨をほんのひと筆。筆を寝かせて、毛の流れに沿って。目の枠だけ作る。主張させない。
紅を取る。貝殻の底で、三度練る。今日は乾いた日だから、水を一滴。唇へ、薄く置く。血の色より、一段だけ明るく。
手を止める。一歩、下がる。
下がると鏡が見える。わたしの背中の向こうに王妃さまの顔が映る。わたしはもう一歩、横へ退く。
鏡の中の顔と、椅子の上の顔が、向き合った。
王妃さまは、長いあいだ、動かなかった。
息をしていないのかと思うほどだった。それから、手が上がった。指の背で、自分の頬の内側に触れた。鏡の中の手と、椅子の上の手が、同じところに触れた。
「……これは」
「いまの、お顔でございます」
「二十年前の顔では」
「ございません」
わたしは、申し上げた。六年、言わずに済んできた言葉を。言う場所をずっと選んできた言葉を。
「わたくしは、顔を直しません。合わせるだけです」
鏡の中で、王妃さまの目がわたしを見た。
「二十年前のお顔に、戻すことは、できません。泣いておられた十八の朝には、戻れません。戻れないものを作れば、それは覆いになります。覆いは、毎朝やり直すものです。やり直すたびに、お肌が減ります。十年、減ってきた分が、いまのお肌でございます」
「……では」
「いまのお肌に、合わせました。三十八の、北の骨の、十年、覆いの下で待っておられた顔に。足したものは、湿りと、眉尻のひと筆と、紅の薄い一枚。それだけでございます。母も、それだけでした。二十年前も、今日も、処方はございません」
あの方の顔は、あの方のもの。
王妃さまは、鏡を見た。今度は、見た。十年ぶりに、布の無い鏡を、自分の目で。
「……泣いておりませんね」
「はい」
「泣いていないのに、わたくしの顔をしている」
「はい。泣いていなくても、お顔はお顔でございます」
長い間があった。店の外で、荷車の音がした。パン屋の窯の匂いがした。いつもの朝の音が、狭い店の中まで入ってきた。
「祭の顔は」
王妃さまが、鏡に向かって仰った。
「二十年前の再現では、なく。——いまの、わたくしの顔で」
ご自分で、仰った。わたしが申し上げたのではない。鏡の中の顔が、椅子の上の口で、決めた。
「承りました」
わたしは、今度は膝を折った。店の床で。折っていい場面だと思ったからだ。
◇
頭巾を戻すとき、王妃さまはご自分の手でなさった。戻す前にもう一度だけ鏡を見た。
戸口で、ふと足を止めて、仰った。
「その椅子」
「はい」
「張り替えずに、おきなさい。……しばらくは」
それだけ仰って、馬車へ戻られた。フロール様がすれ違いざまに、声を出さずに唇だけ動かした。ありがとう、と読めた。
ノエルが階段を降りてきて、椅子を見て、わたしを見て、「座ったね」とだけ言った。
向かいの戸口から、女将が顔を出した。馬車が角を曲がるまで見送って、それから、腕を組んで、わたしを見た。
「今日は、誰が座ったの」
「今日は——お客さまが、お一人」
「そう」
女将は、それで満足したらしい。引っ込む前にひとこと付け足した。
「あんたのおっかさんも、そういう言い方をしたよ」
◇
最後にベルナールが馬車の扉を押さえたまま、こちらへ戻ってきた。
いつもの慇懃な顔だった。いつもより、低い声だった。
「良い朝でございました。——ただ、ひとつ、お耳に入れておきます」
「はい」
「首席が、昨夜、典礼に申し立てを出されました。大礼当日の、お顔の検めの権について。百年の定めどおり、首席の検めを経ぬお顔は祭壇に上げぬ、と」
手袋の指が、組まれた。ほどかれなかった。
「典礼は、これを受理いたしました。審理は、祭の前に」
馬車が、角を曲がっていった。
椅子の座面の布が、朝の光の中で、いつもより薄く見えた。張り替えずに、おきなさい。しばらくは。しばらく、がどれくらいかは仰らなかった。
王都でいちばん狭い店の、いちばん古い椅子に、いちばん高い方が座った朝でした。椅子は張り替えないことになりました。命令ですので。
続けて、白粉を断つ二十日が始まります。正しくは、もう二十日ございませんけれど。




