第41話 その染みは、落ちるのですか
朝、店で二人お通しした。
一人目は粉屋のお内儀。眉墨を練る。煤に香油を三滴。右の眉が薄い。薄いほうに合わせて柔らかく。手の甲に引く。東の壁に映す。よし。二人目は針子さん。手の香油。今日は硬めにしない。冬の終わりが近い。肌が先に春を知っている。
二人とも、いつもどおりの顔で帰った。いつもどおりの顔を作るのが、店の仕事だ。王宮の仕事も、本当は同じはずだった。
◇
支度部屋の机に、紙はもう無かった。
典礼へ戻ったのだろう。机の上には、首席の刷毛と筆が、教本の順に並んでいる。穂は今日も乾いていた。三日、使われていない穂だ。
王妃さまは椅子に座っておられた。素顔で。昨日、人払いをしたときの顔ではなかった。泣いた跡もない。眠れていない跡は少しあった。
「座りなさい」
わたしは腰掛けに座った。膝に道具箱。箱の横に、香油の瓶を一本。
王妃さまは、しばらく何も仰らなかった。それから、わたしの膝を見た。道具箱でも瓶でもなく、箱の上に置いたわたしの手を。
「その手」
「はい」
「爪のふちに、色がありますね」
紅の染みだ。爪のふちにもう何年もある。石鹸では落ちない。落とす気もない。
「その染みは、落ちるのですか」
「落ちません」
わたしは手を少しだけ前へ出した。見えるように。
「六年、毎朝、紅を練っておりますと、爪のふちに溜まります。石鹸では落ちませんし、落とせば爪が傷みますので、そのままにしております。仕事の分だけ、残ります。母の爪も、同じ色でした」
「……仕事の分だけ」
「はい。減ることは、ございません。増えるだけでございます」
王妃さまの口の端が、動いた。
動いて、そのまま笑いになった。声は無かった。けれど笑いだった。この部屋に通い始めて、ふた月。作られた顔でも、作られていない顔でも、この方が笑ったのは初めてだった。
「あなたは、ほんとうに、お母上に似ているのね」
「顔は、似ておりません」
「顔の話ではありません。……聞かれたくないことを聞かれたときの、顔の話です」
アニェス様と同じことを仰った。八十三の客と、三十八の王妃が、同じ顔を見つける。母の娘はどうやら隠し事が下手らしい。
◇
「その瓶は」
「夜の香油でございます」
わたしは瓶を机に置いた。
「粉を断っていただく前に、これだけ先に。湯浴みのあと、お顔が乾く前に、指の背で。頬の内側から、こめかみへ。粉は明日の朝もいつもどおりで構いません。夜のあいだだけ、お肌に湿りを返します」
「それだけで、何か変わるの」
「二日で、指で分かります。目では分かりません。指の背で頬に触れてみてくださいませ。今朝より指が止まらなくなります」
王妃さまは瓶を手に取った。栓を抜いて、匂いを嗅いだ。
「……軽いのね」
「夜の油は、軽くないと朝に残りますので」
瓶を置く手が置きかけて止まった。止まって、瓶を机の奥へ——首席の刷毛と筆の列より、向こう側へ置いた。自分の側へ。
受け取っていただけた。二十本のうちの一本目。
そのとき、扉が開いた。
◇
白い顔が、入ってきた。
足音はしなかった。ドロテ様は机の上の瓶を見て、わたしを見て、それから王妃さまに向かって膝を折った。深く、正しく、教本の絵のとおりに。
「お支度の時刻でございます」
「……今日は、まだよい」
「恐れながら」
白い顔は上がらなかった。膝を折ったまま声だけが上がった。
「祭まで、二十日。大礼のお顔は、典礼の定めにより、首席の検めを受けます。検めを受けぬお顔で祭壇に立たれた例しは、この百年、ございません。——どなたがお作りになるにせよ」
どなたがお作りになるにせよ。
それはわたしに向けた言葉だった。王妃さまに向けて膝を折りながら、わたしに向けて言った。首席の検めを受けなければ、祭壇には立てない。検めるのは首席。つまり当日、わたしが何を作っても最後にこの方の目が通る。通らなければ、通らない。
壁だ。最後の壁。教本と、決まりと、百年と、首席の名でできた壁。六年前、継母の前で、似た壁を見た。あのときは、帳面を抱えて、壁の外へ出た。今度は、抱えたまま、壁の前に立つ。
王妃さまは何も仰らなかった。瓶を見て、白い顔を見て、また瓶を見た。
「下がりなさい。今日は、まだよい」
「——御意」
ドロテ様は立ち上がって振り向かずに下がった。下がり際、あの方の目がもう一度、机の奥の瓶を見た。見て、それから、わたしの膝の上の道具箱を見た。いや、箱の横の布に包んだ帳面を。
何も言われなかった。足音もしなかった。
◇
店に戻ると、ノエルが椅子の座面を撫でていた。
「ここ、擦れてる。布が薄い」
「この店を借りたときから、あった椅子ですから」
「誰が座っても平気?」
「誰が座っても、平気です」
ノエルはもう一度撫でて、それから帳場のほうを顎で示した。
ジュリアン様がいらしていた。
帳場の椅子に座って、ノエルの手習いでも見ず帳面でも読まず、ただ座っておられた。窓の外の通りを見て。
「お待ちでしたか」
「ええ」
「何か、ご用が」
「ありません。待っていただけです」
待っていただけ。この方はそういうことをそのまま言う。
「順番の方はおられませんでしたので、待ちました。待つのは、わたしの番のようですから」
「……番、でございますか」
「王宮にいるあいだ、あなたは向こうの順番の中にいる。店に戻れば、こちらの順番に戻る。わたしはこちらの順番のいちばん後ろでいい。後ろにいるあいだは、待つ。それだけです」
素っ気ない。素っ気なくて、胸の奥の普段使わないところがまた温まる。この方はこのごろそこばかり温める。
「今日、王妃さまが笑われました」
「それは」
「手の染みを、ご覧になって」
わたしは手を出した。ジュリアン様はその手を見た。触れはしなかった。見ただけだ。六年、見てきた染みだ。
「落ちるのか、と聞かれました。落ちません、と申し上げました」
「……その染みを、隠そうと思ったことは」
「一度も」
「そうでしょうね」
その方は少しだけ笑った。口の端だけで。髪はこのごろ、右のこめかみを隠していない。
「隠さない人の手を見て笑えたなら、王妃さまは、もう大丈夫だ」
「まだ、壁がございます」
「壁は、あなたが崩すものではないでしょう。あなたは、壁の前で、合わせるだけだ」
合わせるだけ。わたしの言葉をこの方が言った。言われて初めて、その言葉が壁の前でも使える言葉だと分かった。
◇
翌朝の下がり際に、フロール様が扉の内側で囁いた。
「王妃さまが、今朝——布を、外させました」
鏡の布。支度部屋の、大きな鏡の。十年、掛けたままだった、あの布。
東の窓の日差しのことだと思った。今朝は曇っていたから鏡に当たっても眩しくない。眩しくないなら布は要らない。化粧師なら誰でもそうする。
振り向かずに、下がった。
隠しているものを見つけられるのと、隠していないものを見られるのとでは、どちらが恥ずかしいものでしょうか。答えは人によります。ただ、後者で笑われた方は、たいてい、二度目からは笑われません。
店の椅子に、思いがけない方がお座りになります。女将が毎朝なさっている問いのほうも、そろそろ動きます。
店の椅子の張り替えができます。ブックマークと評価で、座面の布が一枚。近いうちに、ぜひ。




