第40話 特別な処方など、なかったのです
その夜、紅を練った。
練る用はなかった。在庫は春までもつ。それでも練った。貝殻の底に顔料を落とす。蜜蝋を削る。香油を合わせる。掌の熱で、外へ、外へ。指に返ってくる重さを数える。十。十一。重さが変わる手前で止める。布を掛ける。眠らせる。
手を動かしているあいだに、決めた。
見せる。母の一行を、あの方に。
折れるかもしれない。二十年の支えだ。けれど、折れるものの上に顔を作ることは、わたしにはできない。折れるものの上に作った顔は、折れたときに一緒に崩れる。それは、この夏にもう見た。盛った家の上の、盛った顔。崩れ方なら、知っている。
◇
翌朝、馬車の中でベルナールに申し上げた。
「典礼の調べの結果を、王妃さまにお目にかけることは、できますか」
「……結果は、典礼に留めるのが決まりでございます。ただし」
「ただし」
「王妃陛下のお求めがあれば、お目にかけます。お求めがあるように、お取り計らいする役は、ございます」
手袋の指が、一度、組み直された。
「その役は、わたくしでございます。——お望みで」
「はい。お願いいたします」
ベルナールは、窓の外を見た。冬の川は、白かった。
「二十年、あの一枚は奥で眠っておりました。起こす日が来るとは思っておりませんでした。起こす人が娘御だとも」
◇
支度部屋に、今日は人が多かった。
王妃さま。フロール様。ベルナール。それから典礼の官が一人、綴りを抱えて。首席は、いなかった。呼ばれていないのだろう。呼ぶ役はベルナールで、あの方は呼ばなかった。
「典礼より、調べの結果をお目にかけます」
官が綴りを開いた。母の一枚が、王妃さまの前の机に置かれた。
「二十年前、先代の首席が、化粧師エレーヌに処方を残すよう求めた折の、本人の返し書きでございます」
王妃さまは、紙を見た。
長いあいだ、見ていた。細くて、行の終わりが上がらない字。ゆっくり書いた字だ。
「……読みなさい」
「〈処方は、ございません。あの方の顔は、あの方のものです。——エレーヌ〉」
読み上げたのはベルナールだった。慇懃な声で、いつもどおりの速さで。いつもどおりでないのは、読み終えたあとの長い間だけだった。
「処方は、ございません」
王妃さまが、繰り返した。
「ございません、と」
「はい。お母上が、ご自身の字で」
「……特別な処方は、あった、と」
声が、途中で途切れた。
「あったと、伺っておりました。ずっと。エレーヌには特別な処方があった。陛下が愛されたのは、その処方で作られた顔だ。教本の外の処方ゆえ、誰にも再現はできぬ。ただ、教本のとおりに覆い続ければ、近づけることだけはできる。——そう、伺って」
伺って。誰に。
聞かなかった。聞かなくても、この部屋には、その名を言う人がいなかった。いなかったから、王妃さま自身の口が言った。
「首席が。毎朝。十年」
毎朝、十年。覆いながら。あの朝の顔に、と頼む人に、あの朝の顔は特別な処方でできていた、と答えながら。
「では、わたくしの顔は——」
王妃さまは、紙から目を上げた。作られていない顔に、作られていない表情があった。読める顔だった。読めて、わたしは読んだことを悔やんだ。
「——わたくしの顔は、最初から、わたくしの顔だった、と」
あの方の顔は、あの方のもの。
母は、そう書いた。二十年前に。この方が、まだ泣いていた頃に。泣き腫らした顔を整えて、何も足さなかった手で。書いて、店へ帰った。金も位も辞して、札一枚だけ持って。書いたことが二十年、この部屋まで届かなかった。届かない代わりに、別の言葉が毎朝届いた。
わたしは、何も言わなかった。
言うべきことは、母の一行が全部言っている。足すことは、ない。足さないことが、母の処方だった。娘の処方も、同じだ。
「……人払いを」
王妃さまの声は、小さかった。
「みな、下がりなさい。——あなたも」
◇
フロール様が、真っ先に動いた。官が綴りを閉じかけて、ベルナールが目で止めた。紙は、机の上に残された。王妃さまの前に。
わたしは膝を折った。
折りながら一度だけ申し上げた。聞かれていないことを言うのは、作法に背く。背いた。
「お肌は、戻ります。それだけは、処方がございます。わたくしのものですが」
返事は、なかった。
振り向かずに、下がった。
◇
廊下に出てから、ベルナールが低く仰った。
「首席のことを、何も仰いませんでしたな」
「申し上げることが、ございません」
「十年、偽りを」
「偽りかどうかは、わたくしには分かりません。首席は、特別な処方があったと、本当に思っておいでだったのかもしれません。母の手を見て、教本に無いものを見て、教本に無いなら特別なのだと。……そう思う人は、多うございます」
多い。母を手妻のように言う人は昔からいた。手妻ではない。椅子の高さと、光の向きと、指の背と、何を足さないかを決める手だ。決めるのに、二十年かかる。それを手妻と呼ぶほうが、楽なのだ。
「あなたさまは、お優しい」
「優しいのではございません。責めても、お肌は戻りませんので」
ベルナールは、少しだけ歩幅を変えた。
門まで来て、あの方は馬車の扉を押さえて仰った。
「本日の沙汰は、これで仕舞いでございます。——ただ、ひとつだけ、数えておいていただきたいことが」
「はい」
「十年祭まで、二十日と少しでございます」
二十日と少し。
粉を休ませて肌を戻すのに、二十日。わたしはそう申し上げた。二十日あれば、と。あれば、だ。今日から数えて、もう「あれば」ではない。「今日から」でなければ、間に合わない。
王妃さまは、いま、紙の前にひとりで座っておられる。人払いをして。二十年の支えが折れた机の前に。
折れたあとに、何が残るのか。残るものがあるなら、それがこの方の顔だ。
わたしは馬車に乗った。橋を渡った。店に着いたら、香油を仕込む。二十日ぶん。夜にだけ使う、粉を断った肌のための香油を。使うかどうかは、あの方が決める。用意するかどうかは、わたしが決める。順番の話だ。
◇
店に戻って、すぐに取りかかった。
瓶を二十本並べる。香油を量る。蜜蝋は入れない。夜の肌に蝋は重い。代わりに水を一滴。湿りを足す。粉に奪われた分を、夜のあいだに返す油だ。混ぜる。布で漉す。瓶に移す。栓をする。一本目。二本目。
ノエルが横に来て、片目を閉じた。
「軽いね、これ」
「夜に使う油です。軽くないと、朝に残ります」
「誰の」
「まだ、決まっておりません」
ノエルは瓶を数えた。数えるのは覚えた。二十本。
「二十本って、二十日ぶんだろ。決まってないのに、二十日ぶん作るんだ」
「決まった日に作り始めたのでは、遅いのです」
「……先生のそういうとこ、おっかさん譲りなんだろうな」
十本目。十一本目。手は止めなかった。止めると、あの机の前の顔を思い出す。思い出しても、油は一滴も増えない。
特別な処方、という言い方は、便利です。分からないものを分からないまま、棚に上げられますので。棚に上げたものは、二十年経っても降りてきません。誰かが脚立を持ってくるまで。
爪のふちの古い染みを、人はどこまで見るものでしょうか。翌朝の拝謁で、王妃さまがわたくしの手をご覧になります。




