第39話 輿入れの朝の顔でございました
翌朝も、支度部屋だった。
鏡には布が掛かっていた。昨日のままだ。誰も外していない。首席の刷毛と筆は、昨日と同じ順に並んでいる。並んでいるが、刷毛の穂が乾いていた。昨日、使われなかった穂だ。
王妃さまは、支度の椅子に座っておられた。素顔で。今朝は、わたしが膝を折る前に、声が来た。
「座りなさい」
部屋の隅の小さな腰掛けを、フロール様が運んできた。わたしは座った。王妃さまの顔が、座ると、わたしの目の高さに来た。椅子の高さが合った。ひと月と少しかかった。
「今日は、話をします。——わたくしから」
◇
「北の公領に、雪が窓まで来る話はしましたね」
「はい」
「その窓の中で、十八まで育ちました。顔を見合って暮らす冬を十八回。それから王都へ来ました。輿入れの行列は二十日かかりました。二十日のあいだに雪が消えて、土が出て、花が咲きました。花を見たのは、それが初めてでした」
乾いた声だった。乾いたまま、途切れなかった。
「王都に入った日から、毎日、人に会いました。会うたびに顔を見られました。北では顔を見合うのです。王都では顔を見られるのです。その違いが最初は分かりませんでした。分かったときには、もう、どこへ出ても顔が固まるようになっていました」
型が違う。挨拶の型も、装いの型も。マチルド様の声が、遠くで聞こえた。社交の席で散々に言われてね。
「婚礼までの三月、毎朝、お披露目がありました。あちらの家、こちらの家。王都の化粧師が呼ばれました。七人。七人とも、一度だけ来て、二度目は来ませんでした」
「……お断りに、なった」
「断ったのです。北の姫の顔は王都の型に合わない、と。合わないものを合わせるのは、しくじったときに名が傷む、と。正直な人たちでした。いまなら分かります」
七人が断った。二十年前も、とベルナールは言った。割に合いませんので。
「八人目が、あなたのお母上でした」
◇
「最初の朝のことを、覚えています」
王妃さまは、布の掛かった鏡のほうを見た。見たのではない。その方向に、顔を向けた。
「わたくしは泣いておりました。前の夜からずっと。鏡の前に座らされて、動けませんでした。鏡の中に知らない顔がいて。——北の顔でも王都の顔でもない、泣き腫らした、誰の顔でもないものが」
わたしは、何も言わなかった。言うべき言葉が、この部屋には無い。
「お母上は部屋に入って、わたくしを見て、何も仰いませんでした。泣いていることにも、触れませんでした。最初にしたのは、椅子の高さを変えることでした」
手が、膝の上で止まった。
「それから窓の布を少し開けて、光の向きを変えました。わたくしの顔に横から光が当たるように。そして手で、わたくしの顔に触れました。指の背で。頬から目の下へ。こめかみへ。骨を読むように」
昨日の、わたしの手と、同じ順だった。
「何かを塗られた覚えがないのです。粉の匂いも紅の匂いも。あったのかもしれません。泣いていたので分かりません。ただ、髪を少し直されて、眉の流れを指でならされて、それだけでお母上は一歩下がって仰いました。——整えるだけでございます、と」
整えるだけでございます。
「鏡を見なさいと言われました。見ました。……泣き腫らした顔がそこにいました。泣き腫らしたまま。なのにそれは、わたくしの顔でした。北の顔でも王都の顔でもなく、わたくしの」
声が、そこで初めて、乾いていなかった。
「三月、毎朝、同じでした。お母上は夜明け前に来て、椅子の高さを合わせて、光を動かして、指の背で顔を読んで、整えて、下がりました。何も足さずに。毎朝。何を足さないかを毎朝決めているような手でした」
毎朝。三月。夜明け前の橋。手ぶらで帰った母。一行も書かなかった帳面。
全部が、この椅子の高さで、繋がった。
「そして、婚礼の朝」
王妃さまは、息を一つ、吸った。
「その朝も、わたくしは泣きました。最後の朝だと分かっていたので。お母上はやはり何も足しませんでした。泣いた目のまま整えて、下がりました。——その顔で、陛下の前に立ちました」
わたしは、待った。
「陛下はわたくしの顔を長いあいだご覧になりました。それから一つだけ仰いました。北の顔だ、と。……それだけです。でもそれが、王都に来て初めて、わたくしの顔をわたくしの顔として見てくださった言葉でした」
北の顔だ。
あの朝だけは別人のようだった、とマチルド様は言った。別人ではなかったのだ。あの朝だけ、本人だったのだ。盛られず、覆われず、王都の型に合わせられもせず、泣き腫らしたまま整えられただけの。
「以来、あの朝の顔だけが本物だと思って生きてきました。二十年。あの朝の顔で陛下に見ていただいた。あの顔を失ってはいけない。そう思って」
◇
「お母上は、婚礼の翌日、王宮を去りました」
王妃さまは、続けた。
「留まるように、と申しました。何でも差し上げる、と。……お母上は、店に順番の方がおられますので、と仰って、辞されました。金も、位も。札一枚だけ、お受け取りになって」
店に順番の方が。二十年前のあの人も、同じことを言いました。ドロテ様の声が、耳の奥で鳴った。
「その後は当時の首席が、わたくしの顔を作りました。次席だったいまの首席と二人で。——あの朝の顔に、とわたくしは毎朝言いました。毎朝。あの方たちは教本のとおりに作ってくださいました。けれど、あの朝の顔にはなりませんでした。なるはずがないのです。わたくしはもう泣いておりませんでしたから」
笑ったのだと思う。素顔の、ほんの少しだけ、口の端が動いた。
「戴冠のあと、いまの首席が首席になりました。そして毎朝、覆うようになりました。覆えば覆うほど、あの朝から遠くなる。遠くなるほど覆う。十年、そうでした。……鏡を外したのは、遠くなった顔を見たくなかったからです」
東の窓から、朝の光が入ってきた。低い、冬の光。鏡の布が、光を受けて白くなった。
王妃さまは、わたしを見た。
「だから、あなたに頼むのです。お母上があの三月、わたくしの顔に何をしたのか。何も足さなかったように見えて、何かをしていたはずです。それが処方です。探しなさい、と言ったのはそのことです。——あの朝の処方を、あなたに」
◇
処方は、ない。
母が、そう書き残している。処方はございません。あの方の顔は、あの方のものです。典礼の綴りの、一枚の紙に。二十年前に、書くと決めて、ゆっくり書いた字で。
王妃さまは、それを知らない。
調べの結果は典礼に留まって、この部屋までは来ていない。来ていたら、この方はいま、こういう顔をしていない。あるはず、と二十年信じてきた顔。あるはずの処方を、母の娘が持ってきてくれると、信じている顔。
わたしは、膝の上の帳面に手を置いた。
処方はございません。あの一行を、この方に見せたら、どうなるのか。二十年、支えにしてきたものが、紙一枚で折れる。折れたあとに、何が残るのか。わたしには、まだ分からなかった。
分からないまま、四半刻が過ぎた。
「——今日は、ここまで」
わたしは膝を折った。折りながら、王妃さまの素顔を、もう一度見た。泣いていなかった。泣いていない顔は、あの朝の顔ではない。この方は、そう思っている。
そう思っている顔を、わたしは、美しいと思った。
整えるだけでございます、と母が言ったかどうか、わたくしには確かめようがありません。ただ、母ならそう言う、とは思います。それ以上のことを言う人ではなかったので。
次回、一枚の紙を、王妃さまにお見せするかどうか。答えを出す前に、もう一つ、分かってしまうことがあります。




