第38話 十年ぶんの覆いを、外していただきました
夜明け前に、店を出た。
順番の客はいない。この時刻に眉墨を求める人はいないからだ。代わりに、女将が戸口に立っていた。寝間着の上に外套を羽織って、腕を組んで。
「今日は誰が座るの」
「今日は、まだ分かりません」
「そう。……分かる日に、なるといいね」
女将は母の娘を見る顔で、それだけ言った。
◇
通されたのは、いつもの窓辺の部屋ではなかった。
その隣の、小さな部屋だった。支度部屋だ。化粧師なら、入った瞬間に分かる。窓が東に向いている。朝の光を顔に当てるための窓。壁に棚。棚に壺と瓶。机に刷毛と筆が、教本の順に並べてある。首席の部屋だ。一分の隙もない並べ方だった。
そして、鏡。
大きな鏡に、布が掛けてあった。あの検分の部屋と同じ掛け方。同じ畳み目。
フロール様が、扉の内側で、声を出さずに唇だけを動かした。四半刻、と。
奥の扉が開いた。
わたしは膝を折った。折りながら、目の端で、床を見ていた。床に、裾が見えた。薄い部屋着の裾だ。礼装ではない。
「顔を、お上げなさい」
上げた。
◇
化粧のない顔が、そこにあった。
目を逸らさなかった。化粧師が、客の顔から目を逸らすことはない。逸らせば、客はその一瞬を一生覚えている。わたしは見た。ちゃんと見た。そして、見ながら、胸のどこかが痛んだ。その痛みを顔に出さなかったのは、ベルナールの四つ目のおかげではない。六年、義妹の顔を作った朝のおかげだ。
頬の内側に、粉の跡があった。毎朝、厚く乗せて、毎晩、落としきれなかった粉が、肌の目の中に残って、色になっている。目の下が、くぼんでいた。眠れていない人のくぼみ方だ。肌は、乾いている。乾いて、張りを失って、それでも毎朝、その上に完璧な白が乗せられてきた。
十年、毎朝。
リディエンヌの顔を思い出した。この夏、素顔で店に来た日の、あの子の顔を。二月の盛りで荒れた頬の内側。目の下のくぼみ。あれの、十年版だった。二月で、あの子はあれほど傷んだ。十年なら、どうなるか。答えが、目の前に座っていた。
座っていた。
王妃さまは、支度の椅子に座っておられた。初めて見る、座った姿だった。窓辺の部屋では一度も座らなかった方が、この部屋では座っている。首席の椅子だからだ。毎朝、十年、座らされてきた椅子。座ることに、この方は慣れている。この椅子にだけは。
「——よく、見なさい」
声は、いつもより乾いていた。
「これが、いまの顔です。首席が作る前の。……あなたが、見たがっていた顔です」
「はい。拝見いたしました」
「何も、言わないのね」
「何も、申し上げることがございません。お肌は、お肌でございます。良いも悪いも、ございません」
王妃さまは、鏡を見なかった。布が掛かっているから見ようもないのだが、見ようとする動きもなかった。鏡のある方向に、目がいかない。十年、そうしてきた目だ。
「触れて、よろしゅうございますか」
「……触れよ、と言うまで触れないのが作法では」
「はい。ですから、伺っております」
長い間があった。
「少しだけ」
触れる。
指の腹ではなく、指の背で。頬の内側に、乾いた粉の残りがある。爪で掻けば落ちる。落とせば、下の肌がむける。湿りが、無い。あの材料庫の箱の粉だ。湿りの無い粉を十年乗せ続けると、肌は粉から湿りを奪われる。奪われた肌は、翌朝の粉を受け付けなくなる。受け付けない肌に、さらに厚く乗せる。さらに奪われる。その繰り返しの、十年目の朝。
目の下に、指の背を当てる。熱はない。冷えている。血の巡りが、ここまで来ていない。こめかみへ、耳の前へ。骨のかたちを読む。骨は、良い。頬骨が高くて、顎の線がまっすぐで、額が広い。北の骨だ。この骨なら、何も乗せなくても光を拾う。
拾うはずの骨の上に、十年ぶんの覆いが、まだ少し残っている。
指を離した。
「お肌が、乾いておられます。それだけでございます。乾きは、戻ります」
「戻る」
「はい。戻す処方なら、ございます。母のものではなく、わたくしのものですが」
王妃さまは、初めて、わたしの顔を正面から見た。作られていない顔で。
その目が、ふと、わたしの膝の上に落ちた。道具箱の横に、布に包んで、帳面を置いていた。持ってきた理由はない。持たずにいられなかっただけだ。
「それが、お母上の帳面」
「はい」
「見せては、くれないのでしょう」
「処方は、お見せできません。……ただ、日付の飛んでいる頁だけなら」
わたしは布を解いて、帳面を開いた。二十年前の春の手前の頁。母の字。そして、次の頁は夏。
開いた拍子に、挟んでいた紙が、少しだけ覗いた。四つ折りの、端の乾いた紙。リディエンヌの手紙だ。リディエンヌの頁に挟んだつもりが、帳面を持ち歩くうちにずれたらしい。わたしは指で押し戻した。王妃さまは、それを見ていたかもしれないし、見ていなかったかもしれない。何も仰らなかった。
「……ここから、ここまで」
王妃さまの指が、飛んだ日付の上をなぞった。触れずに、宙で。
「この三月の中に、わたくしが、おります」
「はい」
「一行も、無い」
「はい」
その方はしばらく頁を見ていた。それから低く仰った。
「この顔は、あなたの母上が作った顔では、ないでしょう」
いまの顔のことだ。十年、首席が作ってきた顔。
「——はい。母の顔ではございません」
「では、あの朝の顔は、どこへ行ったのかしら」
答えられなかった。答えを、まだ持っていない。処方はございません、と母は書いた。処方の無い顔が、どこへ行ったのか。消えたのではない。消えた顔は、戻せない。けれどこの方の骨は、まだ光を拾う骨だ。拾う骨の上に、何が乗っているのか。それを外せば、何が出てくるのか。
「乾きは、戻ると言ったわね」
「はい」
「祭までに、戻るの」
「粉をお休みいただけるなら、二十日で」
「……首席が、許さないでしょう」
「許しは、わたくしがいただくものではございません」
王妃さまは何も言わなかった。言わないまま、指で、自分の頬の内側に触れた。わたしが触れた、同じ場所に。
四半刻が、過ぎた。
◇
下がれ、と言われて、わたしは膝を折った。
折りながら見えた。フロール様が鏡の布に手を伸ばしていた。首席の支度が始まる前に、布を外す。それが毎朝の順なのだろう。
「——そのままに」
王妃さまの声だった。
フロール様の手が止まった。
「今朝は、掛けたままで。首席には、そう伝えなさい」
東の窓から、朝日が差し込み始めていた。鏡に当たれば、眩しいだろう。布を掛けたままにしたいのは、そのせいだと思った。冬の朝日は低いところから来る。鏡に当たると、顔を作る手元が見えなくなる。化粧師なら誰でも知っていることだ。
振り向かずに、下がった。
廊下で白い顔とすれ違った。会釈はされなかった。こちらもしなかった。すれ違いざま、あの方の目が、わたしの膝の上の帳面を見た。見て、通り過ぎた。足音はやはりしなかった。
肌は、良いも悪いもございません。乾いているか、湿っているか。それだけです。それだけのことを、人はなかなか、それだけとして見てくれません。
ここから先は、王妃さまご自身のお話になります。二十年前の朝の、北から来た十八の姫と、母の話です。




