第37話 素顔を、まだ見せていただけません
冬に入った。
通いは続いていた。朝、店を開ける。順番の客をひとりかふたり。それから馬車。橋。門を三つ。窓辺の部屋。四半刻。下がる。橋。店。午後の客。夜の仕込み。その繰り返しが、ひと月になった。
道具箱は、一度も開いていない。
開けよと言われないからだ。触れよと言われるまで触れない。作法の二。毎朝、箱を膝に乗せて座り、膝に乗せたまま下がる。箱の革は王宮の往復で少し硬くなった。冬の空気のせいだ。夜に店に戻ってから油を入れる。それがいまのところ、わたしの王宮の仕事のすべてだった。
王妃さまは相変わらず窓の前に立つ。相変わらず光を背にする。相変わらず、素顔を見せない。
帰ってから、箱の手入れをする。革に油を入れる。角から、縁へ。布で余りを拭う。蓋を開けて、中を見る。篩も貝殻も、朝に詰めたままの場所にある。動いていない道具を、毎晩、動かしたように拭く。そうしておかないと、道具は使われなかった顔になる。使われなかった顔の道具は、いざ使うときに手に馴染まない。
変わったのは、言葉の数だった。
◇
「店は、今日も開けてきたの」
「はい。お一人、眉墨を」
「毎朝、開けてから来るのね」
「順番の方がおられますので」
最初の頃はそれで終わった。いまは続く。
「順番の方というのは、どういう方」
「今日は、向かいの宿の女将でございました。右の頬に古い火傷のある方で、店の最初のお客さまでございます。毎朝、店の前で今日は誰が座るのかと聞いてまいります」
「……毎朝」
「はい。答えても答えなくても、聞いてまいります」
王妃さまの背中が、少し動いた。笑ったのかどうかは、背中では分からない。
「見習いの子が、いるそうね」
「ノエルと申します。十四で、鼻が利きます。字を習っております」
「字を」
「読めないのです。帳面を読みたくて、習っております。先生役が生真面目すぎて、毎日喧嘩をしております」
そこで王妃さまは振り向かれた。作られた顔。読めない顔。けれど振り向いたのは、この部屋に通い始めて三度目のことだった。
「あなたは、そういう話をよくするのね」
「お尋ねくださいますので」
「……わたくしが、尋ねるから」
そう仰って、また窓を向かれた。尋ねている、という自覚が無かったのかもしれない。十年、人に尋ねることをしてこなかった方なら、そういうこともあるだろう。
◇
別の朝には、北の話が出た。
わたしから伺ったのではない。窓の外の庭に、初めて雪が積もった朝だった。王妃さまがその雪を見て仰ったのだ。
「これを、雪と言うのね。王都では」
「はい。……北では、違うのでございますか」
「北では、これは雪のうちに入りません。これは、霜の親戚です」
乾いた声が、ほんの少しだけ乾いていなかった。
「北の冬は、長いのです。雪が窓の高さまで来ます。窓の高さまで来たら、もう外は見ません。春まで。だから北の人間は冬のあいだ、顔を見合って暮らします。家の中で、ずっと」
「お顔を、見合って」
「ええ。化粧など、する人はいません。誰の顔も、そのままでした。そのままでも、誰も何も言わない。……王都に来て初めて、顔を見られるということを知りました」
その先は仰らなかった。
王都に来て、二十年。言葉には、もう北は無い。訛りは、ひとつも聞こえない。挨拶の型も、あの小指の一度きりのほかは正しい。二十年かけて、王都の型を身体に入れた方だ。入れてなお、雪を見れば北の言葉で数える。窓の高さまで来る雪。顔を見合って暮らす冬。
母はこの方の顔を、二十年前の春に作った。婚礼の朝に。——そこまでは、もう分かっている。分かっていないのは、そのとき母が何をしたのかだ。処方はございません、と母は書いた。処方の無い化粧を、この方は「あの顔」と呼んでいる。そして、あの顔に戻してほしいと言う。戻すために、処方を探せと言う。
無い処方を探す仕事を、わたしはいまひと月している。
その朝の終わりに、王妃さまは珍しく、わたしの膝を見て仰った。
「その箱は、毎朝、持ってくるのね」
「はい」
「開けないのに」
「開けよと仰せになる日のために、持ってまいります。その日に箱が無ければ、その日は来なかったことになりますので」
窓の前の背中が、しばらく動かなかった。雪の積もった庭を見ているのか、見ていないのか、背中では分からない。分からないまま、いつもの言葉が落ちてきた。
「今日は、ここまで」
ここまで、という言い方もこの頃のものだ。最初は「下がりなさい」だった。
◇
店に戻ると、ジュリアン様がいらしていた。
帳場の椅子でノエルの手習いを見ておられた。見ながら赤い墨で直しを入れておられた。直しのほうが、ノエルの字より多い紙だった。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました。……その紙、直しが本文より多うございます」
「本文が少ないからです」
「うるさいなあ」
ノエルが二階へ逃げて、ジュリアン様はわたしに椅子を勧めた。自分の店で勧められるのは妙な気分だが、座った。
「日取りが、決まりました」
「はい」
「祭の月の、次の月。花の広場に花が咲く頃。叔母上が、これ以上は延ばさないと」
「……祭の、あとでございますね」
「あなたが、そう言ったのでしょう。祭が終わってから、と」
言った。秋の初めに言った。あのとき、この方は少し黙った。その黙った間を、わたしは聞かなかったことにした。
「順番が逆だ、と叔母上は言います。式が先で、王宮の仕事があとだろうと」
「マチルド様の仰ることは、たいてい正しゅうございます」
「ええ。ただ、わたしは順番が逆でも待てます。あなたが順番を守る人だと、知っていて求婚しましたので」
素っ気ない言い方だった。素っ気ないのに、胸の奥の普段は使わないところが温まった。この方は、いつもそういう言い方をする。飾りのない言葉は、飾りを剥がす手間がないぶん、早く届く。
「……王宮の仕事は、まだ道具箱も開けておりません」
「知っています」
「ご存じでしたか」
「箱の革を見れば分かります。開けていない箱の革は、乾き方が違う」
この方は本当に、人の疲れと道具の乾きを見つけるのが早い。
「ひと月、何をしておいでなのですか」
「お話を、伺っております。北の雪の話。窓の高さまで来るそうです」
「……それは、化粧師の仕事ですか」
「はい。顔に触れる前に、椅子の高さを合わせる仕事でございます。母の帳面の、一頁目に書いてあります」
ジュリアン様は少し黙って、それからうなずかれた。
「では、まだ椅子の高さを合わせているところだ」
「はい。お客さまが、まだ椅子にお座りになりませんので」
◇
翌朝、下がり際にフロール様が扉の内側で囁いた。
いつもより、長い囁きだった。
「明朝。——湯浴みのあとでございましたら。お支度の前の、四半刻だけ」
お支度の前。首席が、顔を作る前。
わたしは、振り向かずに下がった。振り向かなかったが、膝の上の道具箱をいつもより少しだけ強く抱えた。
椅子の高さを合わせる、というのは、ほんとうに時間のかかる仕事です。合わせているあいだ、はたから見れば、何もしていないのと同じに見えますので。
お支度の前の四半刻。十年ぶんの覆いの下を、初めて拝見いたします。
首席の白い顔に何か言いたくなった方は、どうか一押しを。式の花が一束増えます。広場の花と喧嘩しないものを、叔母上様が選定中です。




