第36話 処方はございません、と母は残しました
拝謁から三日、毎朝同じ時刻に王宮へ通った。
三日とも、王妃さまは窓の前に立ったままだった。顔は見せない。椅子にも座らない。処方は探したか、と聞かれ、探しようがございません、と答える。それだけで下がる。通いの往復に一刻。部屋にいるのは四半刻。割に合わない、とベルナールが最初に言った意味が、少しずつ身体で分かってきた。
四日目の朝は、店の仕込みから始めた。
白粉を篩う。二度。目の細かいほうで、もう一度。篩の網を指で弾く。粉が落ちる。落ちた粉に、指の腹を当てる。吸いつく。湿りがある。うちの粉は、まだ生きている。あの材料庫の箱の粉は、こうはならなかった。あれは指を弾く粉だった。
仕込みの途中で、マチルド様の馬車が停まった。
◇
「聞いて。あなた、昨夜の夜会で何が起きたと思う」
「存じません。夜会には出ておりませんので」
「だから教えに来たんじゃないの」
あの方は椅子に座って、扇を閉じたまま、掌に打ちつけた。
「マルグリット様がね、いつもの調子で始めたのよ。エレーヌの娘がどうの、王家の秘がどうの。——そしたら、誰も寄ってこないの。一人も」
「……それは」
「王妃さまのお召しよ。あの沙汰の話が、もう全部回ってる。王妃さまが直々にお名指しになった化粧師を、王家の秘がどうのと言う人間がいたら、それは王妃さまに向かって言ってることになるでしょう。そんな話に乗る人がいると思う?」
乗らないだろう。夜会は、日付を見ない代わりに、風向きを見る。
「それでね、ここからが見物だったのよ」
マチルド様は扇を開いた。
「推挙状に署名した方々が、ひとりずつ、マルグリット様の前を素通りしたの。目を合わせないで。挨拶もしないで。中には『わたくし、署名などした覚えがございませんわ』って、聞こえよがしに仰る方までいて」
「署名は、なさったのでしょう」
「したわよ。わたくし見たもの。でも、無かったことになるの。夜会ではそういうことが起きるのよ」
落とす話と上げる話は、二つで一組。その片方が消えたら、残った片方は、ただの悪口に戻る。悪口を言った人の周りから、人がいなくなる。それだけのことだった。
「カトリーヌさんは」
「来てなかったわ。来られなかったんでしょう。後ろ盾が全部、手を引いたんだもの。貴族の家に呼ばれる三人、って言い方も、近いうちに二人になるわね」
わたしは、篩の網を指で弾いた。粉が落ちた。
「マルグリット様は、最後まで」
「最後までいたわよ。ひとりで。目尻の動かない笑いのまま、壁際に。……あの人ね、帰るときに、扉の前で一度だけ振り向いたの。誰も見ていなかったけど。わたくしは見てた」
マチルド様は、扇で口元を隠した。
「あの顔は、もう夜会には来ない顔だったわ」
わたしは、何も言わなかった。言うことがなかった。六年、あの人に顔を作られたことはない。けれどあの人の顔の作り方なら、六年、毎朝、隣で見ていた。目尻の動かない笑いは、動かないように作ってある笑いだ。作り続けてきた人が、作る相手を失う。それはたぶん、負けるより静かで、負けるより長い。
「……浮かない顔ね。勝ったのよ、あなた」
「わたくしは、何もしておりません」
「そう。何もしなかったから、勝ったのよ。喋る人間が、喋らない人間に負ける。いちばん古い型よ」
◇
その日の午後、典礼から呼び出しがあった。
調べの席ではなかった。典礼の奥の、綴りを収めた間だった。初めて入る場所だ。壁じゅうが棚で、棚じゅうが綴りだった。紙の匂いがした。古い紙は、古い粉と少し似た匂いがする。
官が三人。ベルナール。そして——
ドロテ様が、いた。
白い顔は、今日も白かった。こちらを見もしなかった。見ないことが、あの方の挨拶なのかもしれない。
「第二の申し立てにつき、当時の首席の綴りを検めた。未検めの一枚が、あった」
真ん中の官が、綴りの一枚を、机の上に置いた。
「首席殿。これは、当時の首席の綴りで相違ないか」
「……相違ありません。先代の綴りです。綴じ方に、先代の癖がある」
ドロテ様の声は、平らだった。
「では、読み上げる」
官は紙を取り上げなかった。紙の横に立って、上から読んだ。読み上げる声が、途中で一度、止まった。
「〈処方は、ございません。あの方の顔は、あの方のものです。——エレーヌ〉」
母の字だった。
わたしの席からでも分かった。細くて、行の終わりが少し上がる字。急いで書いた字ほど、上がりが強い。この一行は、上がっていなかった。ゆっくり書いた字だ。書くと決めて、書いた字だ。
官が、説明を続けた。
「当時の首席が、化粧師エレーヌに、大礼の支度の処方を綴りに残すよう求めた。王宮の決まりである。化粧師はこれを断り、代わりに一筆を残した。これがその一筆である。——処方を残さなかったのは、秘を私したからではない。残す処方が、無かったからだ」
残す処方が、無かった。
秘を私した女。その娘。醜聞の第二の柱が、一枚の紙で折れた。折ったのはわたしではない。二十年前の母だ。母は、断った理由まで、いつものように書かなかった。読めば分かるからだ。
あの方の顔は、あの方のもの。
「よって、第二の申し立ても当たらない。調べは、これで終いとする。ヴェルニエ男爵夫人の申し立ては、すべて退けられた」
官が綴りを閉じた。閉じる音が、高い天井に響いた。
◇
わたしは、膝の上で指を組んでいた。組んでいないと、手が紙に伸びそうだった。母の字に触れたかった。触れてはいけない。典礼の綴りだ。王宮のものだ。そして、この一行は、たぶん母が王宮に残した、唯一のものだ。
処方はございません。
王妃さまの声が、耳に戻ってきた。処方は、あるはずです。あるはず、と伺っておりました。ずっと。
無い、と母は書いている。二十年前に、この部屋で。
では、王妃さまは、誰から伺ったのだろう。
官たちが立った。ベルナールが立った。わたしも立った。
ドロテ様だけが、立たなかった。
白い顔は、机の上の一枚を見ていた。読み上げが終わっても、綴りが閉じられても、官が片づけようと手を伸ばしても、視線がそこから動かなかった。官が気づいて、手を止めた。ドロテ様は、それでも、しばらく見ていた。
二十年前の首席の綴りだ。先代の綴り。あの方にとっては、師の手になるものだろう。懐かしいのだろう、とわたしは思った。
思ったが、それにしては、あの白い顔は——懐かしむ人の顔には、見えなかった。見えないのは、白粉のせいかもしれない。あの白は、何も見せないための白だ。
母は、誰の顔に、処方が要らなかったのか。
あの方の顔は、あの方のもの。その「あの方」が誰なのかを、この一枚は書いていない。書かない人だった。その一枚から、ドロテ様だけが、目を離さなかった。
白粉を篩にかける回数を、母は帳面に書きませんでした。書いたところで、その日の湿りで変わりますので。書かなかったことの半分は、たぶんそういう類のことです。残りの半分が、何だったのか。
次の頁からは、通いの拝謁が続きます。王妃さまは素顔をまだ見せてくださいません。代わりに、言葉が少しだけ増えます。




