第35話 あの顔に、戻してください
拝謁の朝、店を開けてから行った。
順番の客がひとりいらしたからだ。針子さんの手の香油。硬めに練る。蜜蝋を削る。火にかざす。溶け際で下ろす。混ぜる。冷ます。瓶に移す。布を掛ける。紐で結ぶ。針子さんは「王宮に行く日に悪いね」と言い、わたしは「順番でございますので」と答えた。順番を守る手は、どこへ行っても同じ手でいられる。そう思って、店を出た。
馬車の中でベルナールは作法を三つ、また仰った。
「呼ばれるまで喋らない。触れよと言われるまで触れない。下がれと言われたら振り向かずに下がる」
「はい」
「それから、今日は四つ目がございます」
「伺います」
「——何をご覧になっても、顔に出さないこと」
化粧師に向かって言う言葉ではない。言わねばならないほどのものが、向こうにあるということだ。
◇
通されたのは、王宮の奥の、明るい部屋だった。
南に大きな窓がある。窓の外は庭で、庭の向こうに城壁がある。窓辺に、椅子がひとつ。長椅子がひとつ。小さな机。それだけだった。
鏡が、無かった。
化粧師の目は部屋に入るとまず鏡を探す。無いものは探せない。壁に、鏡を掛けていた跡だけがあった。周りより少し色の薄い、長方形の跡。掛けていたものを、外した部屋だ。
フロール様が、扉の内側に控えていた。目が合うと目だけで挨拶をされた。この部屋では、目の挨拶が声の代わりらしい。
奥の扉が開いた。
わたしは膝を折った。作法の一。呼ばれるまで、喋らない。
「顔を、お上げなさい」
声は、低くて、乾いていた。乾いた声は、長く使っていない声だ。
顔を上げた。
白かった。
ドロテ様の白とは、また違う。あの方の白は壁の白だ。こちらの白は、作品の白だった。粉の目が揃っている。境目がない。頬の高さも瞼の影も唇の形も、全部が正しい場所にある。教本の九の章の、いちばん良い頁を、そのまま顔にしたような仕上がりだった。首席の仕事だ。見れば分かる。これだけの仕事を、十年、毎朝。
そして、その顔からは、何も読めなかった。
三十八歳と伺っている。年齢が、顔に無い。疲れも、機嫌も、無い。作りが完璧すぎて、作りの下の人が見えない。——何をご覧になっても、顔に出さないこと。ベルナールの四つ目が、いま分かった。わたしはたぶん顔に出さなかったと思う。手のほうは分からない。手は膝の上で一度だけ、指を組み直していた。
「エレーヌの娘」
「セラフィナと申します」
「知っています。——座りなさいと言いたいところですが、わたくしが座りませんのであなたも立っていなさい」
王妃さまは、窓辺の椅子には掛けなかった。窓の前に立った。光を背にして。
光を背にする、ということは、顔に影を乗せるということだ。化粧師に顔を見せたくない人の立ち方だった。
「ベルナールから、聞いています。検分の課題に従わなかったとか」
「はい」
「帳面も、見せなかったとか」
「はい」
「首席の白粉を、湿りが無い、と言ったとか」
それは、言っていない。言ったのはノエルだ。けれど王宮の中で誰が言ったかはたぶん意味がない。
「……材料庫で、そのように」
「正直な方ね。お母上も、そうでした」
お母上も。
わたしは、何も言わなかった。聞かれていないからだ。聞かれていないことを言えば、作法の一に背く。背かずに済んだのは、作法のおかげではない。喉が、動かなかったのだ。
王妃さまは、しばらく窓の外を見ていた。それから、背を向けたまま仰った。
「頼みが、ひとつあります。この一つのために、あなたを召しました」
「伺います」
「二十年前の、あの顔に。——戻してください」
◇
あの顔。
どの顔か、とは聞けなかった。聞けば、知らないことがばれる。ばれて困ることではないのだが、この方はたぶん、わたしが知っていると思っておいでだ。母の娘なら、知っているはずだと。
代わりに化粧師として聞けることを聞いた。
「恐れながら。いまのお顔を、拝見してからでないと、お約束できません」
「いまの顔」
「はい。二十年前のお顔を作るにも、作るのはいまのお肌でございます。肌を拝見せずに、お約束はできません」
王妃さまは、振り向かなかった。
「見せません」
「……では」
「見せずに、作りなさい。お母上は、それができた」
できたはずがない。どんな化粧師にも、できない。けれど、できないとはこの部屋で言えない言葉だった。言えないのではなく言っても届かない言葉だった。この方は、できたと信じている。二十年、信じてきた。信じてきた顔で、立っている。
「お母上の帳面に、処方があるでしょう。あの顔の処方が」
「——ございません」
初めて、王妃さまがこちらを向いた。作られた顔の、目だけが動いた。
「無い?」
「母は、二十年前の春の三月を、一行も書き残しておりません。日付が飛んでいるだけでございます」
「……嘘でしょう」
「帳面は、お見せできません。ですから、嘘ではないと証す手立てもございません。ただ、無いものは無いのです」
長い、沈黙だった。
王妃さまは、また窓の外を向いた。背中が、先ほどより少し小さく見えた。作った顔は背中までは覆えない。化粧師は、その人の背中で顔を読むことがある。
「処方は、あるはずです」
小さな声だった。
「あるはず、と伺っておりました。ずっと。……あなたが知らないだけでしょう。お母上は、書かずに覚えておられたのでしょう。——探しなさい。祭までに」
それが、ご命令だった。
◇
下がれ、と言われて、わたしは膝を折った。
膝を折るとき王妃さまが片手を上げられた。退出の礼を受ける王都の型だ。母に教わった型と、同じ型。この方の手は、その型を正しく作った。
作ったあとで、指が一本、余った。
小指が、型より外に出ていた。ほんの少し。王都の型では、小指は薬指に添える。この方の小指は薬指から離れて、一度、宙を探した。探してから、慌てたように添えられた。
緊張なさっているのだ、と思った。
それはそうだろう。二十年前の顔を頼むと言って、処方は無いと返された朝だ。わたしも、膝が少し震えていた。震えを顔に出さなかったのは、四つ目の作法のおかげだ。
振り向かずに、下がった。
扉が閉まる寸前、フロール様の囁きが背中に届いた。
「——明日も、同じ時刻に」
◇
帰りの馬車で、ベルナールは何も聞かなかった。
橋の上で、わたしのほうから言った。
「二十年前のお顔に、と仰せでした」
「さようでございましたか」
「処方は無い、と申し上げました」
「……さようでございましたか」
手袋の指が、組まれて、ほどかれて、また組まれた。二度は、珍しい。
「ひとつだけ、申し上げておきます。あの方が人を呼んで頼みごとをなさるのは、この十年で初めてでございます」
「十年」
「はい。戴冠のあとから、ずっと。あの部屋の鏡を外されたのも、その頃でございます」
窓の外を、秋の川が流れていた。二十年前、母はこの川を渡って、あの部屋へ通った。三月。毎朝。そして、一行も書かなかった。
書かなかった処方を、探せ、と言われた。
探しようがない。探しようがないことを、わたしは知っている。知っているが、あの小さな声も聞いてしまった。あるはず、と仰った声。二十年、あるはずだと思って生きてきた人の声だ。
無いと証すことと、あるはずと信じることのあいだに、あの方は立っている。光を背にして。
鏡の無い部屋、というのは、鏡を見たくない人の部屋です。見たくないのに、毎朝、誰かに顔を作らせている。それがどういう朝なのか、まだわたくしには分かりません。
典礼の綴りから、一枚だけ残っていた紙が出てまいります。母の字です。それが次の一話です。




