第34話 検分は終い、代わりにお召しです
照合には七日かかった。
七日のあいだ、店は店だった。粉屋のお内儀の眉墨。針子さんの香油。八百屋の娘さんの紅。リディエンヌが一度来て、帰りにノエルの手習いの紙を覗いて笑って帰った。笑われたノエルは、その晩、紙を三枚潰した。
噂は、市場まで降りてきていた。降りてきたが、思ったほど刺さらなかった。女将が朝から晩まで向かいの戸口で腕を組んでいたからだ。腕を組んだ女将の前で噂をする度胸のある人は、この通りにはいない。
八日目の朝、黒い馬車が来た。
◇
調べの席には、前より人が多かった。官が三人。傍聴の席にジュリアン様。壁際にベルナール。それから、見たことのない官が二人、奥の扉の脇に立っていた。奥の扉は、いつもは閉まっている扉だ。
わたしは椅子に座った。ノエルは道具箱を抱えて、扉の内側に立った。
真ん中の官が綴りを開いた。
「典礼の調べの結果を、申し渡す」
声は、前の日より低かった。
「ヴェルニエ男爵夫人の申し立て、第一。化粧師エレーヌが二十年前、王宮に出入りした記録が無いこと。——これについて。下賜の綴り、二十年前の春の終わりの頁に、記載があった」
ベルナールが進み出て、綴りの一行を読み上げた。
「〈化粧師エレーヌ・ヴェルニエ。大礼の支度の勤めにつき、金子ならびに位の下賜を申し出るも、本人これを辞す。よって札一枚を下賜す。記録は典礼の内にとどめ、外に出さず〉」
外に出さず。
記録は、無かったのではない。外に出さなかったのだ。母が辞退したから、王宮は表の褒賞録に名を書けなかった。書けない代わりに、内の綴りに一行だけ書いて、札を渡した。
「よって、第一の申し立ては当たらない。化粧師エレーヌは王宮に正しく召され、正しく勤め、正しく辞した。記録が外に無いのは、本人の辞退による」
官は頁をめくった。
「第二。同人が王家の秘に関わった疑い。——これについては、なお綴りを当たっている。当時の首席の綴りに、一枚、未検めのものがある」
未検めのものが、ある。
「第三。その娘を大礼の任に就けてよいか。——これについて」
官は、奥の扉を見た。扉の脇の二人の官が、揃って一歩、前に出た。そのうちの一人が、巻いた紙を開いた。
「王妃コンスタンス陛下の御沙汰である」
部屋の空気が、一度に変わった。傍聴の席のジュリアン様が立った。わたしも立った。ノエルが慌てて道具箱ごと頭を下げた。
「——十年祭の支度の化粧師に、エレーヌの娘を。検分によらず、これを召す。以上」
以上、で終わった。
短い沙汰だった。短いほど、重い。王宮ではそうなのだ、とこのとき知った。
座り直してから、真ん中の官が咳払いをした。
「つまり、こういうことだ。首席の検分は、終いになった。検分は、首席が任に足るかどうかを見る席である。だが王妃陛下が直々にお召しになった以上、足るかどうかを見る席は、もう要らない」
検分は終い。代わりに、召し。
わたしは、ベルナールを見た。あの方は、いつもの顔をしていた。いつもの顔で、手袋の指を一度だけ組み直した。
◇
席が閉じてから、ベルナールが廊下で言った。
「讒言というものは、届け先を選べません」
歩きながら、前を向いたままだった。
「男爵夫人の文は典礼に上がり、典礼は調べ、調べは綴りを開き、綴りは二十年前の名を起こした。そして起きた名は、夜会でも市場でも噂になった。噂は上へ上へと昇って、とうとう、いちばん上のお耳に届いたのでございます。——エレーヌの娘、という名で」
「……母の名を、讒言が届けた」
「さようで。お望みの届け方ではなかったでしょうが、届くものは届きます。誰がどう投げても」
讒言が、名を届けた。投げた側が狙った場所とは、まるで違う場所へ。
わたしは何もしていない。弁明もしなかった。手を動かして、待っただけだ。それなのに、いちばん高いところで名前が動いた。あれは、わたしの仕事ではない。二十年前の母の仕事が、二十年かかって戻ってきただけだ。戻る道に、たまたま讒言が使われた。それだけのことだった。
「推挙状の方々は」
「名を引く算段をしておいででしょう。今朝から、典礼の廊下がにぎやかでございます」
ベルナールは、ほんの少し、歩幅を変えた。笑ったのだと思う。
◇
それから、報酬の話になった。
典礼の端の官が、別の間で、紙を広げた。大礼の支度の化粧師に支払われる額が書いてある。わたしは読んだ。読んで、首を傾げた。
「多うございます」
「……は」
「材料は自分で持ち込みます。篩も貝殻も、自分のものを使います。王宮の材料庫からは、何も出していただきません。ですから、このうちの材料の分は、要りません」
「材料の分、と言われても」
「それから、ここに『日ごとの手当』とございますが、通いは店の順番の空きに合わせます。日ごとではなく、来た日だけで結構です」
官は紙とわたしの顔を見比べた。ジュリアン様が横で、額に手を当てておられた。
「先生」
ノエルが、道具箱を抱えたまま、半分呆れた声を出した。
「王宮だよ、王宮。値切るほうがある?」
「値切っておりません。正しい額を申し上げているだけです」
「それを値切るって言うんだよ。……先生って、ほんとに商売下手だよな」
「褒め言葉として承ります」
「だから褒めてないって」
官が、堪えきれずに噴き出した。王宮の官が噴き出すところを、わたしは初めて見た。噴き出してから、官は慌てて顔を作り直した。作り直し方が下手だった。白粉が浮いている。乾いた粉だ。あの箱の粉だろう。
「……額は、典礼で預かる。受け取りの形は、追って」
それで報酬の話は終わった。終わらせていただいた、というほうが正しい。
◇
帰りの馬車で、ジュリアン様が窓の外を見ながら仰った。
「あなたは、値段を付けるのが本当に下手だ」
「ノエルにも言われました」
「あの子は正しい。——ただ」
その方は、こちらを見た。
「二十年前のお母上も、同じことをなさったのでしょうね。金も位も辞して、札一枚。王宮はそれを二十年、内の綴りに仕舞っていた。仕舞われていたものが、今日、あなたの前で開いた。……値段を付けない人の仕事は、値段の代わりに、時間で返ってくるのかもしれません」
わたしは、膝の上の道具箱を見た。底板の下は、いまは空だ。木札は典礼の綴りの横に置かれている。
「時間で返ってくるのでしたら、母のほうが、わたくしより早く返してもらえましたのね」
「どうでしょう。あなたの分は、まだ始まったばかりです」
橋を渡った。川は秋の色をしていた。
店の前で馬車を降りるとき、ベルナールの言葉を思い出した。別れ際に、あの方は一言だけ付け加えたのだ。いつもの慇懃な声で、いつもより少しだけ早口で。
「三日後でございます。——お目通りが叶います。王妃陛下に」
讒言は、投げた人の手を離れた瞬間から、投げた人のものではなくなります。どこへ落ちるかは、落ちてからしか分かりません。今回は、ずいぶん高いところへ落ちました。
初めての拝謁にまいります。王妃さまの第一声は、ご挨拶ではございませんでした。二十年前の、ある顔の話になります。




