第33話 この箱、おれが運んでたやつだ
三日後の朝、馬車にはノエルも乗った。
道具箱を運ぶ手が要ると申し上げたら、ベルナールは少しも疑わずにうなずいた。本当は、運ぶ手ではない。鼻が要るのだ。王宮の材料庫で道具を検めると言われたとき、わたしは自分の目より先にこの子の鼻を連れて行こうと決めていた。
ノエルは馬車の中でずっと窓の外を見ていた。
「橋、渡るの初めて」
「そうでしたか」
「向こう側に用がなかったもん。……川の匂い、こっちと違う」
王宮の門を三つくぐった。ノエルは門をくぐるたびに鼻を動かして、三つ目の門で「石が古い」と言った。
◇
調べの席は、前と同じ細長い間だった。官が三人。傍聴の席にジュリアン様がすでに座っておられた。目が合った。うなずきもなさらなかった。席に入ると決めた方は、席の作法で座る。それでいい。
「持参の品があれば、机へ」
わたしは、自分の手で、木札を机の上に置いた。
置くとき指が少しだけ木を押した。二十年、箱の底で寝ていた木が、人の目の下で起きる。その瞬間に手のほうが先に何かを感じていた。
「母の道具箱の、底板の下にございました。紋と日付の他に、何も彫られておりません」
「名は」
「ございません」
「出どころは」
「存じません。母は何も書き残しておりませんので。ただ、箱にあったものを箱の主の娘がお持ちしました。それだけでございます」
真ん中の官が木札を取った。紋を見て、日付を見て、裏を返した。官たちが顔を見合わせる。見合わせる顔に、前のときとは違う色があった。驚きではない。驚きより静かで、驚きより重い色だった。
「照合に、日数を要する。下賜の記録は別の綴りにある」
ベルナールがわたしの横に立って申し上げた。
「二十年前の下賜の綴りは、典礼の奥にございます。わたくしが当たります」
それで席は一度閉じた。帰りがけに端の官が言った。
「道具一式は、材料庫で検める。王宮の材料が混じっておらぬか、庫の者が見る。——形だけのことだ」
形だけとわざわざ仰る検めが形だけで済んだことは、たぶん王宮にも無いのだろう。
◇
材料庫は王宮の裏手の、石造りの低い建物だった。
扉を開けた瞬間、ノエルの足が止まった。片目を閉じる間もなく、顔じゅうで匂いを吸っていた。
「……すご」
棚が、天井まである。壺。箱。包み。瓶。ここに王宮の顔の材料が全部ある。庫の役人は若くない方だった。鍵束を腰に下げて、こちらを見もせずに机を示した。
「道具をそこへ。ひとつずつ、中身を申告しなさい」
わたしは道具箱を開けて、並べた。篩。貝殻。眉墨。香油。白粉の包み。ひとつずつ、中身を申し上げた。役人は帳面に書きつけながら白粉の包みで手を止めた。
「この白粉。出どころは」
「南門の四の倉の粉屋から、素の粉を求めて、自分で篩っております」
「王宮の粉ではないと、どう証す」
「証しようがございません。粉は、粉でございますので」
役人は鼻で笑った。こういう笑い方をする方はどこにでもいる。王宮にも、いた。
「では、王宮の粉との違いを言ってみなさい」
言えるか、と言われたら、言える。肌に乗せれば分かる。けれどここで肌に乗せるわけにはいかない。
そのとき、横でノエルが言った。
「違いなら、言えるよ」
役人が初めてこの子を見た。
「子どもは黙っていなさい」
「黙ってるけど、鼻は黙んない。——あの棚の、右から三つ目の壺。あれ、うちの粉と同じ倉の粉だ。四の倉の。で、その隣のは違う。北の粉。目が粗い。で、いちばん上の段のは、粉じゃなくて粘土。白い粘土。焼いてないやつ」
役人の手が、止まった。
「……誰に聞いた」
「聞いてない。嗅いだ」
ノエルは片目を閉じて、棚へ向かって顔を動かした。右から左へ。上から下へ。匂いの地図を読む顔だった。
「二段目の左から、蜜蝋、蜜蝋、獣脂、蜜蝋。三つ目の獣脂、ちょっと傷んでる。壺、替えたほうがいいよ。下の段は香油。ばらの、ばらの、すみれ、ばら。すみれのは、栓が緩い」
役人は何も言わずに棚へ歩いた。三つ目の壺の蓋を開けた。しばらく嗅いで、蓋を閉めた。それから下の段のすみれの瓶の栓を、指で押し込んだ。
戻ってきたとき、役人の顔から笑いが消えていた。
「……うちの粉と、あなたの粉は、同じ倉のものだ。申告どおり」
それだけ書いて、検めは終わった。
ノエルは得意な顔をしなかった。得意な顔をする余裕が無かったのだ。この子の鼻は、まだ棚の奥を向いていた。
「先生。……奥に、変なのがある」
「変、とは」
「良い匂いで、嫌な匂い。両方いっぺんに」
◇
奥の棚の、いちばん下。
木箱が積んであった。同じ大きさの箱が、十ほど。蓋に焼き印がある。ノエルは、焼き印を見て、それから箱の角に鼻を寄せた。長く、嗅いだ。
「……これ、おれが運んでたやつだ」
声が、掠れていた。
「字は読めないけど、この焼き印の形は覚えてる。夫人の店の箱。二年、毎日これを担いで南門から店まで運んで、店の奥に置いた。奥から先は、入れてもらえなかった。中身も教えてもらえなかった。……ここに、来てたんだ」
ラウレット夫人の店の箱が、王宮の材料庫の奥にある。
役人が横から言った。今度は役人のほうが声を落としていた。
「組合からの納入品だ。首席がお使いになる白粉の元だった。……この夏で、納入が止まっている。組合の顔役が沈んでからだ」
この夏。夫人が沈んだのが、この夏だ。ノエルがあの店を出たのは、その少し前の春。二年、この子が担いだ箱は、この子がいなくなって幾月もせずに、来なくなった。つまり。
首席の白粉は、この夏から、新しい箱が来ていない。
「在庫で、もたせておられる」
役人はうなずいた。うなずいて、それ以上は言わなかった。言えば、首席の台所の話になる。
わたしは箱の蓋を開けさせていただいた。白粉だ。目の細かい、良い粉だった。良い粉の匂いがした。ノエルの言った「良い匂い」は、これだろう。そして「嫌な匂い」も、同じ粉からしていた。
指を入れて、少し取った。指の腹で擦る。
分かった。乾いている。乾きすぎている。粉が、粉を離れない。肌に乗せれば、乗るだろう。乗って、そのまま浮く。湿りが無い。湿りの無い白粉は、覆うことはできても、合わせることができない。
「先生」
ノエルが箱に鼻を寄せたまま言った。
「カトリーヌって人の匂い、これだ。売ってないのに知ってた匂い。……この箱の粉だ」
「はい。わたくしも、そう思います」
首席が使う粉と、首席が推す化粧師の粉が、同じ箱から出ている。それが何を意味するかは、この庫で考えることではない。考える場所は、橋の向こうにある。
ノエルはもう一度、長く嗅いだ。嗅いで、片目を開けた。開けた目が、わたしを見た。
「でもさ、先生。この白粉、古いだけじゃない」
「はい」
「……湿りが死んでる。古くなって死んだんじゃなくて、最初から死んでる。作ったときから、湿りを入れてない粉だ」
鼻の良い子を連れて歩くと、世界が棚のように見えてきます。どこに何があって、どれが傷んでいるか。見なくても分かってしまうのは、幸せなことばかりでもありませんけれど。
典礼の調べが、ひとつ答えを出します。讒言が届いた先は、投げた人の思わぬところでした。どなたの名前かは、まだ申しません。
二十年ものの紐は、さすがに切れかけております。ブックマークと評価をいただけますと、新しくできます。




