第32話 道具箱の底に、木札がございました
雨の日だった。雨の日は客が少ない。客の少ない日にやることは決まっている。道具の手入れだ。
篩の枠を締め直す。貝殻を洗って乾かす。秤の皿を拭く。分銅を数える。小さいほうから七つ。揃っている。眉墨の筆を湯で洗う。穂先を指でまとめて、下向きに吊るす。上向きに乾かすと、水が根に落ちて軸が緩む。
最後に、道具箱そのものの番だった。
空にして、隅の粉を刷毛で掃き出して、革の部分に油を入れる。角の擦り切れたところは、油を吸う。吸うたびに色が濃くなる。今日も吸った。よく働く角だ。
布で内側を拭いていて、手が止まった。
深さが、合わない。
外から見た箱の深さと、内側の底までの深さ。指の幅で測って、指一本ぶん、内側が浅い。六年、毎日使ってきた箱だ。いままで気づかなかったのは、測ったことがなかったからだ。人は、毎日使うものほど測らない。
「ノエル。ちょっと来てください」
「なに。……お、手入れの日だ」
「この箱の底、嗅いでみてくれますか」
ノエルは屈み込んで、片目を閉じた。長かった。いつもより、ずっと長く嗅いでいた。
「……木の匂いが二枚ある」
「二枚」
「上の板と、下の板で、匂いの年が違う。上のは古い。下のは、もっと古い。あとね、あいだに紙の匂い。油の紙だ」
二枚の板。あいだに、油紙。
わたしは小刀の背を底板の縁に当てた。力はいらなかった。板は、外されるための板だった。片側に、爪の掛かる切り欠きが彫ってある。使う人にしか見えない場所に。
板の下に、油紙の包みがあった。
包みを開くと、木札が出てきた。掌に載る大きさ。厚みは指半分。表に、紋が彫られていた。見たことのない紋——いや、見たことはある。硬貨の裏と、王宮の門と、それから、あの召しの紙の封。王家の紋だ。
紋の下に、日付が彫られている。二十年前の、春の終わりの日付だった。
裏を返した。何も彫られていなかった。名前も、文言も、何も。
「……先生、それ、なに」
「分かりません。ただ」
ただ、アニェス様の声が耳に戻っていた。帰ってきた日、あの人は手ぶらだったんだよ。手ぶら。対価を受け取らなかった母に、それでも王宮が何かを渡したとしたら。金ではないもの。売れないもの。名前さえ彫っていない、けれど王家の紋だけは彫ってあるもの。
これは、対価ではない。しるしだ。
「雨の日にさ」
ノエルが妙に静かな声で言った。
「よく見つかったね、それ」
「あなたの鼻のおかげです」
「そうじゃなくて。……なんか、出てきたがってた気がする、いま」
迷信だ。迷信だが、分かる気もした。調べが始まって、母の三月が掘り返されようとしている、ちょうどそのときに、箱の底から出てくる。母は書かない人だった。書かない代わりに、仕舞う人だったのだ。仕舞い方に、あの人の字が見える気がした。
◇
午後、雨足が弱まった頃に、ジュリアン様がいらした。
次の調べの席の傍聴の手続きが済んだ、という報せだった。婚約者として席に入る。そのための書付を一枚、典礼へ出してこられたらしい。あの方はそういうことを言う前に済ませる。
「これを、ご覧いただけますか」
わたしは木札を台に置いた。ジュリアン様は手に取らずに紋を見て、それから日付を見て、裏を返すように目で促した。わたしが返した。
「……下賜の札です」
「ご存じでいらっしゃいますか」
「家にも一枚あります。祖父の代のものですが」
下賜の札。聞いたことだけはある。王家が、褒賞の代わりに渡すもの。
「金も、位も、受け取らなかった者に渡すものです。受け取らなかったと書くわけにいかないので代わりに札を渡す。裏に名を彫らないのは、渡した相手を王家が記録に残さないという意味だ。持っている者だけが、自分のものだと知っている」
「では、これは」
「お母上が二十年前に王宮から何かを受け取った唯一の証です。そして、王宮が記録に残さないと決めた唯一の証でもある」
両方の意味が同じ木の板に彫ってある。ベルナールが仰った沙汰の話と、同じ形だと思った。良いことと悪いことが、同じ紙に書いてある類のもの。王宮のしるしはどれもそういう作りをしているのかもしれない。
「調べの席に、出されますか」
ジュリアン様はわたしの顔を見て仰った。
「出せばお母上が王宮に上がった証になる。同時に王宮が残さなかった何かに関わった証にもなる。讒言の側にも使える札です」
「母が二十年、箱の底に仕舞っていたものです」
「ええ」
「仕舞っていたのは隠すためだと思います。でも捨てなかった。捨てなかったのは、いつか誰かが見る日のためだと思うのです。……その誰かがわたくしであるかどうかは、まだ分かりませんけれど」
ジュリアン様は、しばらく黙っていた。それから、札をこちらへ押し戻した。押し戻す指が少しだけ丁寧だった。
「決めるのはあなたです。ただ、一つだけ」
「はい」
「出すならあなたの手で出しなさい。人づてに出た札は拾われ方を選べない」
それだけ仰って、雨の上がりかけた通りへ出て行かれた。
◇
夕方、雨の上がった通りを、ベルナールが歩いてきた。外套の裾が濡れていた。馬車を使わない日のあの方は、決まって、表に出しにくい用の日だ。
「沙汰を、お持ちしました」
差し出された紙を、わたしは受け取って、開いて、読んだ。
一度目に読んだとき、目に入ったのは前半だった。〈検分は、本日をもって終いとする〉。終い。落ちたのだ、と思った。カトリーヌ様の推挙が通ったのだ、と。
驚かずに、文面を二度お読みください。
あの方の言葉を思い出して、二度目を読んだ。後半に、こう続いていた。〈大礼の任の可否は、検分によらず、典礼の調べの内にて検める。ついては次の調べの席に、亡母の遺品ならびに道具一式の持参を許す。任意である〉。
「……これは、どう読むのが正しいのでしょう」
「お読みになったとおりでございます。検分という入り口は閉じました。代わりに、調べという入り口が、大礼まで通じました」
「調べは、わたくしを疑う席では」
「疑う席は、晴らす席でもございます。両方に通じている扉は、王宮ではむしろ上等の扉でございまして」
首席は、と伺いかけてやめた。聞けば、答えにくいことを答えさせることになる。ベルナールは聞かれなかったことにだけ答えた。
「首席は、検分の打ち切りに何も仰いませんでした。反対も賛成も。——あの方が何も数えずに黙るのは珍しいことでございます」
それから、わたしの手元の木札に目を留めた。留めて、何も聞かなかった。聞かない代わりに言った。
「次の調べは、三日後でございます。……お持ちになるものは、お決めになりましたか」
わたしは木札を見た。名前のない、紋と日付だけの札。母が二十年、箱の底に仕舞っていたもの。出すなら、自分の手で。
「はい。決めました」
仕舞う、というのは、捨てると残すのあいだにある動詞です。捨てられないが、見せられもしない。そういうものだけが、箱の底に沈みます。
この木札を持って、王宮へ参ります。材料庫という場所で、ノエルの鼻がまたひとつ、あってはならないものを見つける番です。




