第4話 私を守ると言った、年下の彼
役員プレゼンを目前にしても、黒川課長は美緒の企画を諦めません。
「女性管理職候補」
「無理をしない方がいい」
もっともらしい言葉で、美緒を前から退かせようとする黒川。
そんな彼女のそばに、今度も律が立ちます。
新人だから。
十二歳も年下だから。
それでも彼は、もう黙って見ているつもりはありません。
役員プレゼンまで、残り二日。
営業企画部の空気は、目に見えない糸で張り詰めているようだった。
美緒の企画が通るか。
黒川の別案が採用されるか。
表向きには、どちらも会社のための提案ということになっている。
けれど実際には、美緒と黒川の評価を大きく分ける分岐点だった。
美緒は朝から資料の最終調整に入っていた。
律が整理したデータは分かりやすかった。
数字の根拠、前提条件、リスク、改善効果。
美緒はそこに現場の言葉を加えていく。
机上の空論にしない。
役員だけに響くきれいな資料にもしない。
現場の人たちが実際に動ける企画にする。
それが美緒のこだわりだった。
「先輩、このページですが」
律が画面を指差した。
「役員向けなら、最初に結論を出した方がいいと思います。現場負担を十五パーセント削減しながら、重点商品の売上を八パーセント伸ばす。そこを一枚目に」
「そうだね。背景説明から入るより、その方が刺さる」
「その後に、現場ヒアリングの結果を置くと、数字だけではない説得力が出ます」
「朝倉くん、本当に分かってるね」
美緒がそう言うと、律は少しだけ嬉しそうな顔をした。
「佐伯先輩に教わったので」
「私、そんなに教えた?」
「はい。会議で誰が何を気にするか、他部署がどこで反発するか、営業現場が何を負担に感じているか。全部、先輩が教えてくれました」
美緒は少し照れた。
自分が当たり前のようにやってきたことを、律はちゃんと言葉にしてくれる。
それが、嬉しい。
嬉しいと思ってしまうことが、少し怖い。
「朝倉くんは、どこに行ってもやっていけるよ」
美緒は画面を見たまま言った。
「私なんかが教育係じゃなくても、きっと大丈夫」
律の手が止まった。
「私なんか、って言わないでください」
静かな声だった。
美緒は驚いて律を見る。
「ごめん。そんなつもりじゃ」
「分かっています。でも、嫌です」
律はまっすぐ美緒を見た。
「僕は、佐伯先輩の下につけてよかったと思っています」
その言い方があまりにも真剣で、美緒は返す言葉を失った。
「先輩が教育係だから、僕はこの部署の仕事を好きになれました」
「朝倉くん……」
「だから、私なんかって言わないでください」
胸の奥がじんとした。
これ以上、この人の言葉をまともに受け取ってはいけない。
美緒はそう思った。
でも、受け取らずにはいられなかった。
「ありがとう」
小さく答えると、律は少しだけ表情を緩めた。
その日の夕方。
黒川からメールが来た。
「役員プレゼン前に、最終確認をしたい。十八時半に小会議室へ」
宛先は美緒だけだった。
律には共有されていない。
美緒は画面を見つめた。
嫌な予感がする。
けれど、上司からの呼び出しを無視するわけにはいかない。
「朝倉くん、今日は先に帰っていいよ」
美緒がそう言うと、律はすぐに顔を上げた。
「何かありますか」
「黒川課長と少し打ち合わせ」
「僕も同席します」
「だめ。朝倉くん宛には来ていないから」
律は黙った。
納得していない顔だった。
「大丈夫。すぐ終わるから」
美緒はそう言って、席を立った。
小会議室に入ると、黒川がすでに座っていた。
「お疲れさま、佐伯さん」
「お疲れさまです」
「忙しいところ悪いね。明日のプレゼンの件で、少し話しておきたくて」
黒川は穏やかに笑っていた。
美緒は向かいの席に座る。
「率直に言うと、今回は私が前に出るべきだと思う」
「それは、先日も伺いました」
「佐伯さんの案が悪いと言っているわけじゃない。むしろよくできている。ただ、君はまだ主任だ。役員への説明となると、管理職である私が話した方が通りやすい」
美緒は黙って黒川を見た。
「それに、君は新入社員教育も抱えている。最近、少し無理が出ているようにも見える」
「無理はしていません」
「自分ではそう思っていても、周りはそう見ていないかもしれない」
黒川の声は、あくまで穏やかだった。
「佐伯さんのためを思って言っているんだよ。女性管理職候補として、ここは無理をしない判断も大事だ」
美緒の胸に、静かな怒りが広がっていく。
若い子の教育。
無理をしない判断。
女性管理職候補。
言葉は違っても、意味は同じだった。
前に出るな。
「私は、自分の企画を自分で説明したいです」
美緒ははっきりと言った。
黒川の笑みが薄くなる。
「佐伯さん、そういう頑固さが、女性管理職候補として少し危ういんだよ」
その言葉に、美緒の指先が冷たくなった。
女性管理職候補。
また、それだ。
仕事の話をしているはずなのに、いつの間にか性別や年齢の話にすり替えられる。
「感情的になっていると思われたら、損をするのは君だ」
黒川は低い声で言った。
「今回のプレゼン、私に任せなさい。君の名前も補足資料には残す。それで十分だろう」
十分。
何が十分なのだろう。
自分が考え、動き、積み上げてきたものを横取りされ、それで十分だと言われる。
美緒は唇を噛んだ。
その時、小会議室の扉がノックされた。
「失礼します」
扉が開き、律が入ってきた。
美緒は目を見開いた。
「朝倉くん」
「申し訳ありません。佐伯先輩、部長が資料の最新版を確認したいとのことです」
律はそう言って、美緒の方へ歩いてきた。
けれど、その目は一瞬だけ黒川を見ていた。
偶然ではない。
美緒はすぐに分かった。
律は、近くにいてくれたのだ。
「朝倉くん」
黒川の声が低くなる。
「今は佐伯さんと話しているところだ。新人が入ってくる場面ではないよ」
「申し訳ありません」
律は丁寧に頭を下げた。
「ただ、明日のプレゼン資料に関して、必要であれば更新履歴と作成履歴もすぐ提示できます」
黒川の表情がわずかに変わった。
「何の話かな」
「佐伯先輩の企画書と、黒川課長の別案の一致箇所についてです」
美緒は息を呑んだ。
律は冷静だった。
声も表情も乱れていない。
「また、先日の資料差し替えについても、共有フォルダの更新履歴を保存しています。明日の会議で混乱が起きないよう、補足資料として準備しました」
「朝倉くん」
黒川の声に怒りがにじむ。
「新人が余計なことをすると、自分の評価を落とすよ」
律は少しも怯まなかった。
「評価は、仕事で判断していただければと思います」
美緒は律を止めようとした。
「朝倉くん、もういいから」
けれど律は美緒を見て、静かに言った。
「よくありません」
その声は、柔らかかった。
でも、譲らない強さがあった。
「先輩が不当に傷つけられるのを、黙って見ているほど子どもじゃありません」
美緒の胸が大きく揺れた。
黒川はしばらく律を睨んでいたが、やがて薄く笑った。
「最近の新人は頼もしいね」
「ありがとうございます」
「佐伯さん、今日はここまでにしよう。明日は、冷静に頼むよ」
「はい」
小会議室を出ると、美緒はすぐに律を見た。
「朝倉くん、どうして来たの」
「心配だったので」
「心配って」
「黒川課長からのメール、先輩だけが呼ばれていました。内容もプレゼン前の最終確認。嫌な予感がしました」
「だからって、入ってきたら朝倉くんが睨まれるでしょう」
「もう睨まれています」
「そういう問題じゃない」
美緒の声が少し強くなった。
「あなたはまだ新人なの。私のことで評価を下げたらどうするの」
律は黙って美緒を見た。
そして、ゆっくり言った。
「先輩は、どうして自分が傷つけられることには怒らないのに、僕のことになると怒るんですか」
美緒は言葉に詰まった。
「それは……教育係だから」
「本当にそれだけですか」
心臓が跳ねた。
廊下には誰もいない。
夕方のオフィスのざわめきだけが遠くに聞こえる。
律は一歩だけ近づいた。
「僕は、先輩に守られるだけの新人でいたいわけではありません」
「朝倉くん」
「僕は、先輩を支えたいです」
まっすぐな言葉だった。
仕事の話だと、まだ言える。
支える。守る。味方でいる。
どれも仕事上の言葉として受け取れる。
でも、美緒には分かってしまった。
律の目は、ただの後輩の目ではなかった。
「教育係と新人じゃなかったら」
律が静かに言った。
「今すぐ言っていました」
美緒は息を止めた。
聞いてはいけない。
でも、分かってしまう。
言っていました。
何を。
それを聞いてしまったら、もう戻れない。
「……明日の資料、確認しよう」
美緒は視線をそらした。
律は少しだけ黙り、それからうなずいた。
「はい」
その夜、二人は最後の資料確認をした。
仕事の話だけをした。
数字、構成、想定質問、補足資料。
けれど美緒の耳には、律の言葉が残り続けていた。
教育係と新人じゃなかったら。
今すぐ言っていました。
三十五歳の自分が、二十三歳の新入社員の言葉にこんなにも揺れている。
だめだと思う。
許されないと思う。
立場を考えなければと思う。
それでも。
美緒は、明日のプレゼンが終わることを怖いと思った。
仕事の結果が出るからではない。
律との関係が、今のままではいられなくなる気がしたから。
お読みいただき、ありがとうございます。
美緒を守りたい律と、
自分のせいで律の評価を下げたくない美緒。
互いを守ろうとする気持ちがぶつかった先で、律はついに一歩踏み込みました。
「教育係と新人じゃなかったら、今すぐ言っていました」
まだ、肝心な言葉そのものは口にしていません。
けれど、美緒にはもう分かってしまっています。
そして次話はいよいよ役員プレゼン当日。
仕事の決着とともに、
二人の「教育係と新人」という関係も、大きく動きます。




