最終話 教育係じゃなくなった日、律くんは私を選んだ
いよいよ役員プレゼン当日。
美緒が積み上げてきた企画。
黒川課長との出世争い。
そして、ずっと彼女の後ろを守ってきた律。
仕事の決着がついたとき、
二人の「教育係」と「新入社員」という関係も終わります。
その先で律が選ぶのは――。
役員プレゼン当日。
美緒は朝から不思議なくらい落ち着いていた。
緊張はしている。
けれど、怖くはなかった。
資料は整っている。
数字も確認した。
想定質問も準備した。
黒川の工作に対する証拠も、必要なら提示できる状態にしてある。
そして何より。
「佐伯先輩」
出発前、律が美緒の席に来た。
「補足資料、すべて最新版です。更新履歴の一覧も、別ファイルでまとめています」
「ありがとう」
「先輩は、企画の説明に集中してください」
律は静かに言った。
「後ろは、僕が見ています」
胸の奥が熱くなった。
後ろは、僕が見ています。
これまで美緒は、ずっと一人で後ろも前も見てきた。
足元をすくわれないように。
誰かのミスを拾えるように。
自分の弱さが見えないように。
でも今日は、後ろを任せられる人がいる。
それだけで、こんなにも呼吸がしやすい。
「朝倉くん」
「はい」
「行ってくるね」
律は少しだけ目を細めた。
「はい。行ってらっしゃい、佐伯先輩」
役員会議室は、いつもの会議室より空気が重かった。
長いテーブル。
並ぶ役員たち。
部長、黒川、美緒、そして補助として律。
黒川は、美緒の少し斜め後ろに座っていた。
表情は穏やかだが、その目は油断なく光っている。
部長が口を開いた。
「それでは、来期営業戦略の新規施策について、佐伯さんから説明してもらいます」
黒川の眉がわずかに動いた。
美緒は立ち上がった。
「営業企画部の佐伯です。本日は、重点商品の販促費再配分と、営業現場の負担軽減を両立させる施策についてご説明いたします」
声は震えなかった。
一枚目に結論を置く。
現場負担を十五パーセント削減。
重点商品の売上を八パーセント伸ばす。
そのための販促費再配分、訪問先の優先順位付け、データ活用による営業支援。
役員たちは資料に目を落とす。
美緒は一つひとつ丁寧に説明した。
数字だけではない。
現場の声も入れる。
実行時の負担も、リスクも、改善策も話す。
途中、役員の一人が質問した。
「この訪問件数の削減見込みは、どのデータから出したものですか」
美緒が答えようとした時、黒川が口を開いた。
「そちらは、私の方で補足しますと」
その瞬間、律が静かに資料を差し出した。
「該当データはこちらです。佐伯が営業日報三年分をもとに抽出し、私が集計補助を行いました」
黒川の言葉が止まる。
律は続けた。
「訪問件数の削減見込みは、商品カテゴリ別の成約率と訪問頻度を照合した上で算出しています。詳細は補足資料三ページにございます」
役員が資料をめくる。
「なるほど。根拠は明確だね」
美緒は律を見なかった。
見たら、胸がいっぱいになってしまいそうだった。
その後も、黒川は何度か話に割って入ろうとした。
しかし律は、必要な資料を必要なタイミングで出し、美緒の説明を邪魔させなかった。
美緒は前に立ち続けた。
これは私の企画だ。
誰かの補助でも、誰かの手柄の一部でもない。
私が考え、動き、作ってきた仕事だ。
最後の質疑で、黒川がついに動いた。
「一点、よろしいでしょうか」
部長がうなずく。
「今回の企画は、たしかに佐伯さんが中心にまとめています。ただ、当初の案には数字の不整合もあり、私の方でかなり修正を加えています。役員会議に上げるにあたって、管理職として責任を持って調整したことも補足させてください」
会議室の空気が揺れた。
美緒は息を吸った。
ここで黙れば、また奪われる。
でも、感情的になってはいけない。
美緒が口を開こうとした時、律が静かに発言した。
「補足してもよろしいでしょうか」
役員の一人が律を見る。
「君は?」
「営業企画部新入社員の朝倉律です。佐伯の補助として、データ整理を担当しております」
「どうぞ」
律は立ち上がった。
「今回の企画書について、作成履歴を整理しております。初期案の作成者は佐伯です。その後、私がデータ集計を補助し、佐伯が最終構成を作成しています」
律は資料を一枚提示した。
「また、先日、共有フォルダ上の資料で一部数値が変更される事象がありました。こちらは変更前後の履歴です」
黒川の顔色が変わった。
「朝倉くん、それは今話すことでは」
「企画の正確性に関わることですので、必要な補足だと判断しました」
律は淡々と続けた。
「さらに、黒川課長より提出された別案と、佐伯作成資料の一致箇所も一覧化しています。表現、数値、構成の一致率が高く、佐伯の企画をベースにしていることは明らかです」
会議室が静まり返った。
美緒は手を握りしめた。
律は感情的に責めていない。
ただ、事実だけを並べている。
だからこそ、重い。
部長が黒川を見た。
「黒川くん、これはどういうことかな」
黒川は一瞬言葉を失った。
そして笑顔を作ろうとしたが、うまくいかなかった。
「私は、課長として資料を確認し、より良い形にしようと」
「数字を変更したのも、その一環ですか」
部長の声が低くなる。
「それは……確認作業の中で」
律がさらに一枚資料を出した。
「変更された数字は、前年版の古いデータです。最新データとは異なります。もしそのまま会議に提出されていれば、佐伯の確認不足として扱われていた可能性があります」
役員たちの視線が黒川に集まる。
黒川はもう何も言えなかった。
その時、美緒は立ち上がった。
律がほんの少しだけ驚いたように美緒を見る。
美緒は、まっすぐ黒川を見た。
「黒川課長」
声は震えなかった。
「私は、誰かの名前で通る企画を作ったつもりはありません」
黒川の顔がこわばる。
「現場の声を拾って、数字で形にして、責任を持って説明するために作りました」
会議室の全員が、美緒を見ていた。
「私は、便利な補佐役としてではなく、この企画の責任者としてここに立っています」
言葉にした瞬間、美緒の胸の奥にあった迷いが消えた。
「この企画は、私一人で作ったものではありません。現場の方々の声と、部内の協力と、朝倉くんの補助があって形になったものです。だからこそ、誰かの都合で提案者を変えたり、数字を変えたりしていいものではありません」
美緒は深く息を吸った。
「私は、この企画に責任を持ちます。だから、私の名前で説明させていただきます」
言い終えた瞬間、胸の奥にあった重いものが落ちた気がした。
誰かに守られるだけではない。
律が後ろを見てくれているから、自分は前に立てる。
それが、今はっきり分かった。
部長が静かにうなずいた。
「佐伯さん。その姿勢で進めてください」
「はい。ありがとうございます」
その場で黒川の処分が決まったわけではない。
しかし、空気は完全に変わっていた。
部長が深く息を吐き、美緒を見た。
「佐伯さん」
「はい」
「企画の説明、よく分かりました。現場理解と数字の根拠が両方ある。役員会として、前向きに進める方向で検討します」
美緒は頭を下げた。
「ありがとうございます」
胸の奥が震えていた。
勝った。
誰かを傷つけて勝ったのではない。
奪われそうになった自分の仕事を、正しく取り戻した。
会議が終わった後、黒川は部長に別室へ呼ばれた。
美緒と律は、会議室に少しだけ残った。
誰もいなくなった部屋で、美緒は椅子に座り込む。
「終わった……」
「お疲れさまでした」
律が静かに言った。
「先輩、かっこよかったです」
美緒は顔を上げた。
「そこは、企画がよかったです、じゃないの?」
「企画もよかったです。でも、先輩が前に立って説明している姿が、かっこよかったです」
そんなことを言われたら、どう返せばいいのか分からない。
美緒は少し笑った。
「朝倉くんも、すごかったよ。あんな場でよくあそこまで冷静に話せたね」
「手が震えていました」
「え?」
律は自分の手を見た。
「机の下で、ずっと」
美緒は驚いた。
律は完璧に見えた。
冷静で、怖いもの知らずで、何でもできるように見えた。
でも、本当は緊張していたのだ。
「それでも、言ってくれたんだ」
「はい」
「どうして?」
律は美緒を見た。
「先輩を守りたかったので」
その言葉に、美緒の胸が大きく揺れた。
もう逃げられない。
この人は、何度もまっすぐ伝えてくれている。
美緒が目をそらしてきただけだ。
「朝倉くん」
「はい」
「ありがとう」
それ以上は言えなかった。
まだ、今は。
数日後、黒川は管理職候補から外され、別部署へ異動となった。
表向きには通常の人事異動だった。
けれど部内では、誰もが理由を知っていた。
美緒の企画は正式に採用され、来期の重点施策として動き出すことになった。
部長からは、次の管理職候補として改めて期待していると言われた。
そして、律の新入社員研修期間が終わった。
「朝倉くんの正式配属は、営業企画部とする」
部長が発表すると、部署内に小さなどよめきが起きた。
律は美緒のいるチームに残ることになった。
ただし、もう美緒の教育係としてではない。
一人の正式なメンバーとして。
その日の夕方、美緒は律に声をかけた。
「朝倉くん、少し歩かない?」
律は驚いたように目を瞬いた。
「はい」
会社を出ると、春の風が少しだけ冷たかった。
駅までの道を、二人で並んで歩く。
仕事の話をすれば楽だった。
でも今日は、それではいけない気がした。
「正式配属、おめでとう」
「ありがとうございます」
「これからもよろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
会話が途切れる。
美緒はバッグの持ち手を握り直した。
「朝倉くん」
「はい」
「あなたには、もっと若くて可愛い子が似合うと思う」
言った瞬間、自分で傷ついた。
逃げるための言葉だ。
年齢を理由にして、自分を守ろうとしている。
律は足を止めた。
美緒も立ち止まる。
「僕が好きなのは、美緒さんです」
静かな声だった。
でも、迷いは一切なかった。
美緒は息を呑んだ。
初めて、名前で呼ばれた。
「……私、三十五歳よ」
「知っています」
「十二歳も上よ」
「知っています」
「教育係だったのよ」
「だから、研修が終わるまで待ちました」
美緒は目を伏せた。
「ずるい」
「はい」
「そんなふうに言われたら、逃げられない」
「逃げてほしくないです」
律は一歩だけ近づいた。
「仕事ができるところも、無理して笑うところも、本当は傷ついているのに前を向くところも、全部見ていました」
美緒の胸がいっぱいになる。
「僕は、新人だから何も知らなかったわけじゃありません。ずっと見ていました。美緒さんが、誰よりも誠実に仕事をしていることも、誰よりも自分を後回しにしていることも」
目の奥が熱くなった。
泣きたくない。
こんなところで泣くなんて、三十五歳にもなって情けない。
そう思うのに、涙がにじむ。
「美緒さんは、もっと大事にされていい人です」
その言葉を聞いた瞬間、美緒はもう我慢できなかった。
涙が一粒、頬を落ちた。
律が驚いたように目を見開く。
「すみません、泣かせるつもりは」
「違うの」
美緒は首を横に振った。
「嬉しいの」
律の表情が揺れた。
「誰かにそんなふうに言ってもらえるなんて、もうないと思ってた」
三十五歳。
仕事では頼られる。
でも、女として大切にされることは、どこかで諦めていた。
自分はもう恋の主役ではない。
誰かに選ばれる側ではない。
そんなふうに思っていた。
でも律は、ずっと見てくれていた。
仕事の私も。
弱い私も。
年齢で諦めようとする私も。
「美緒さん」
律の声が、少しだけ震えていた。
「美緒さんが強い人なのは知っています。でも、強い人だからって、一人で泣かなくていいと思うんです」
美緒は顔を上げた。
「僕は、美緒さんを弱くしたいんじゃありません」
律はまっすぐに言った。
「安心して強くいられる場所になりたいんです」
胸の奥で、何かがほどけた。
ずっと張り詰めていたもの。
一人で立たなければいけないと思っていたもの。
誰にも頼ってはいけないと決めていたもの。
その全部が、律の言葉で少しずつ溶けていく。
「美緒さんが前を向くなら、僕は隣にいます」
律は少しだけ近づいた。
「疲れた時は、前じゃなくて僕を見てください」
美緒は、もう涙を止められなかった。
年下なのに。
十二歳も下なのに。
どうしてこの人は、こんなにまっすぐ私を見てくれるのだろう。
「朝倉くん」
「はい」
「私、すぐには上手に甘えられないと思う」
「はい」
「仕事でも、たぶん無理する」
「知っています」
「年上だからって、変にかっこつけるかもしれない」
「それも、たぶん知っています」
「……それでも?」
律は迷わず言った。
「それでも、美緒さんがいいです」
胸の奥にあった硬いものが、ゆっくりほどけていく。
美緒は小さく笑った。
「律くん」
初めて、そう呼んだ。
律の目がわずかに揺れた。
「はい」
「私も、あなたがいい」
律はしばらく何も言わなかった。
ただ、まっすぐ美緒を見ていた。
そして、少しだけ困ったように笑った。
「今、会社の近くじゃなかったら、抱きしめていました」
美緒は思わず笑ってしまった。
「そこは我慢して」
「はい。かなり我慢しています」
「律くんって、意外と正直ね」
「美緒さんには、正直でいたいです」
また胸が熱くなる。
駅の明かりが近づいてくる。
人通りも増えてきた。
律はそっと手を差し出した。
美緒はその手を見つめた。
会社では、まだ慎重でいなければならない。
年齢差もある。
同じ部署で働く以上、周囲への配慮も必要だ。
でも。
今この手を取ることくらいは、許してもいい気がした。
美緒は少し迷ってから、律の手を取った。
温かかった。
「美緒さん」
「何?」
「これからは、僕にも頼ってください」
「努力します」
「そこは、はい、じゃないんですね」
「三十五年分の癖は、すぐには直らないの」
律が笑った。
「じゃあ、少しずつでいいです」
「うん」
「僕が、ずっと隣にいます」
美緒は手を握り返した。
三十五歳の春。
もう恋の主役ではないと思っていた。
仕事では報われても、誰かに大切にされることは、もう自分には遠いものだと思っていた。
でも、違った。
恋は、若い人だけのものではない。
誰かに選ばれることに、年齢制限なんてない。
美緒の隣で、十二歳年下の律が静かに歩いている。
東大卒で、優秀で、少し不器用で。
誰よりもまっすぐ、美緒を見てくれる人。
教育係と新入社員だった二人は、今日から少しだけ違う関係になる。
会社では、まだ佐伯さんと朝倉くん。
でも、帰り道では。
「律くん」
「はい」
「明日も、缶コーヒー買ってくれる?」
律は嬉しそうに笑った。
「もちろんです。今度は、ちゃんと休憩する時間も一緒に」
「厳しい新人ね」
「もう新人ではありません」
「あ、そうだった」
美緒が笑うと、律も笑った。
春の夜風が、二人の間をやわらかく通り抜けていく。
もう一人で前を向かなくていい。
美緒はそう思いながら、律の手をもう一度、少しだけ強く握った。
恋を諦めかけていた三十五歳の私を、恋の主役に戻したのは。
十二歳年下の、まっすぐすぎる彼だった。
― 完 ―
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
仕事ができて当たり前。
誰かを支えて当たり前。
そんなふうに、自分が大切にされることをいつの間にか諦めていた美緒。
けれど律は、最初からずっと彼女を見ていました。
仕事ができるところも。
無理をして笑うところも。
傷ついても前を向こうとするところも。
十二歳という年齢差も、
先輩と後輩という立場も乗り越えて、
美緒はもう一度、自分も誰かに選ばれていいのだと思えるようになりました。
「恋を諦めかけていた三十五歳の私を、恋の主役に戻したのは。
十二歳年下の、まっすぐすぎる彼だった。」
二人のこれからも、きっと仕事と恋の両方を支え合いながら続いていくのだと思います。
ここまで二人を見守ってくださり、ありがとうございました。




