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出世争いで嵌められた35歳の私を、東大卒の新入社員・律くんが全力で守ってくれました  作者: ちょこまろ


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第3話 新人だからこそ、僕は見ていました

資料の改ざんだけでは終わらなかった。


今度は、美緒が積み上げてきた企画そのものが、黒川課長の手柄として奪われようとします。


怒りたい。

悔しいと言いたい。


それでも平静を装う美緒に、律はまっすぐ告げます。


「先輩が不当に傷つけられるのは、嫌です」

 黒川の態度は、表面上は何も変わらなかった。


 朝、顔を合わせれば穏やかに挨拶をする。

 会議では美緒の意見にも一応うなずく。

 律に対しても「期待しているよ」と笑顔を向ける。


 けれど美緒には分かっていた。


 黒川の視線が、前よりも冷たくなったことを。


 そして数日後、美緒の周囲に少しずつ妙な空気が流れ始めた。


「佐伯さん、最近ちょっと大変そうだよね」


「新入社員教育もあるし、企画もあるし、抱えすぎなんじゃない?」


「黒川課長がフォローしてるらしいよ」


 給湯室で、そんな声を聞いた。


 美緒はコーヒーを入れる手を止めなかった。

 聞こえなかったふりをした。


 会社では、真正面から悪口を言われることの方が少ない。

 大抵は、心配の形をしている。


 大変そう。

 無理している。

 限界なんじゃないか。


 そういう言葉が積もると、いつの間にか評価になる。


 美緒は知っていた。


 三十五歳の女性が管理職候補として見られる時、実力だけでは測られない。

 体力は大丈夫か。

 家庭との両立はどうするのか。

 若手をうまく使えるのか。

 感情的にならないか。


 男性なら聞かれないことまで、さりげなく測られる。


 だから美緒は、弱音を吐かないようにしてきた。


 疲れていても笑う。

 悔しくても冷静に話す。

 腹が立っても、資料で返す。


 そうやって積み上げてきたものを、黒川は「新入社員教育で手一杯」という言葉で崩そうとしている。


 席に戻ると、律が画面から顔を上げた。


「先輩、大丈夫ですか」


 美緒は少し笑った。


「大丈夫。どうして?」


「顔色が悪いです」


「そう?」


「はい」


 律ははっきり言った。


 美緒は困ってしまった。


 律は、見なくていいところまで見てしまう。


「朝倉くん、今日の午後、データ整理の続きをお願いしてもいい?」


「はい。もちろんです」


「ありがとう」


 話を変えると、律はそれ以上追及しなかった。


 そういうところも、ありがたかった。


 優しい人は、時々こちらの傷を開こうとする。

 でも律は違う。


 気づく。

 でも、踏み込みすぎない。

 必要な時だけ、手を差し出す。


 その距離感が、美緒には少し怖かった。


 午後、部長から呼び出された。


 会議室に入ると、部長と黒川がいた。


「佐伯さん、新規プロジェクトの資料だけど」


 部長が少し難しい顔をしている。


「黒川くんから、別案が出てきた」


「別案、ですか」


 黒川はにこやかに資料を差し出した。


「佐伯さんの案をベースに、私の方で少し経営目線を加えたものです」


 美緒は資料を受け取った。


 目を通した瞬間、指先が冷たくなった。


 それは、美緒が作った企画書の主要部分をほぼそのまま使ったものだった。

 ただし、提案者は黒川直人になっている。


 美緒の名前は、補足資料作成者の欄に小さく入っているだけだった。


「役員会議では、私が説明した方が通りやすいと思いまして」


 黒川は穏やかに言った。


「佐伯さんは、細かいデータの補足をお願いします。朝倉くんの教育もありますし、その方が負担も少ないでしょう」


 美緒は資料を握る手に力が入るのを感じた。


 怒りが込み上げてくる。

 けれど、ここで感情的になれば負ける。


 黒川はそれを待っている。


「部長」


 美緒は慎重に口を開いた。


「こちらは、私が進めていた企画をもとにしたものです。役員会議では、私から説明させていただきたいです」


 黒川がすぐに言った。


「もちろん佐伯さんの貢献は分かっています。ただ、管理職候補として考えるなら、組織全体の見せ方も大切です。今回は課長である私が前に出た方が」


「黒川くん」


 部長が遮った。


「まだ決めたわけではない。佐伯さん、明後日までに最終案を出してくれるかな。黒川くんの案も踏まえて、どちらが役員会議にふさわしいか判断する」


「承知しました」


 美緒は頭を下げた。


 会議室を出ると、廊下で息が詰まりそうになった。


 手柄を奪われる。

 それも、堂々と。


 黒川は分かっているのだ。

 美緒が感情的に抗議できないことを。

 上司相手に「それは私の案です」と強く言えば、扱いづらい部下だと思われることを。


「佐伯先輩」


 声がして振り返ると、律が立っていた。


「朝倉くん。どうしたの?」


「部長から、午後の資料を佐伯先輩に届けるよう言われました」


 律は封筒を差し出した。

 けれど、その目は美緒の表情を見ていた。


「何かありましたか」


「……大丈夫」


 反射的にそう言ってしまう。


 律は少しだけ黙った。


「大丈夫な顔ではないです」


 美緒は苦笑した。


「朝倉くんは、本当に遠慮がないね」


「すみません。でも、嘘をつかれる方が嫌です」


 その言葉に、美緒は何も返せなかった。


 小会議室に入り、美緒は黒川の別案を律に見せた。


 律は静かに資料を読み込んだ。

 ページをめくるたび、表情が少しずつ硬くなる。


「これは」


「私の企画をベースにしてるよね」


「ベースというより、ほぼ同じです」


 律は資料の一部を指差した。


「この表現、佐伯先輩が昨日直した箇所です。営業現場の訪問件数の削減見込みも、僕たちで計算した数字が使われています」


「でも、黒川課長は『経営目線を加えた』って言ってた」


「加えたというより、提案者名を変えています」


 律の声が低くなった。


 美緒は慌てて言った。


「朝倉くん、怒らなくていいから」


「怒っています」


「だから、そういう顔しないで」


「無理です」


 律は美緒を見た。


「先輩は、どうして平気な顔をするんですか」


 その言葉は、美緒の胸に深く刺さった。


 平気なわけがない。

 悔しい。

 腹が立つ。

 泣きたいくらい情けない。


 でも、それを出したら終わりだと思ってきた。


「平気な顔をしないと、仕事にならないから」


 美緒は小さく言った。


「三十五歳にもなって、悔しいですなんて顔をしていたら、面倒くさい人になるでしょう」


「なりません」


 律は即答した。


「少なくとも、僕はそう思いません」


 美緒は律を見た。


「朝倉くんは優しいね」


「優しいわけではありません」


「じゃあ、何?」


「見てきたからです」


 律は資料に視線を落とした。


「佐伯先輩が、どれだけこの企画を考えていたか。営業現場に確認して、他部署の反発を抑えて、数字を何度も見直していたか。僕は近くで見ていました」


 胸の奥が熱くなった。


「新人だから、全部の事情は分かりません。でも、新人だからこそ見えていることもあります」


 律は静かに続けた。


「先輩が誰の仕事を支えているか。誰が先輩の仕事に乗っているか。誰が、先輩の成果を自分のものにしようとしているか」


 美緒は息を呑んだ。


 律は、見ていた。

 本当に、見ていた。


「朝倉くん、でもこれは私の問題だから」


「違います」


 律は首を横に振った。


「これは、仕事の問題です。正しく作られた企画の提案者がすり替わっているなら、組織としても問題です」


 美緒は思わず笑ってしまった。


「論理的だね」


「感情的にも嫌です」


 律は真顔で言った。


「先輩が不当に傷つけられるのは、嫌です」


 美緒の笑みが止まった。


 嫌です。


 その一言が、あまりにもまっすぐだった。


 この人は、私のために怒っている。


 そう思った瞬間、心のどこかが危うく揺れた。


 だめ。

 相手は新入社員。

 自分は教育係。

 十二歳も年下。


 美緒は必死に気持ちを押し戻した。


「ありがとう。でも、無理はしないで。朝倉くんの評価に響いたら困る」


「僕の評価より、先輩の企画を正しく通す方が大事です」


「朝倉くん」


「それに、無理はしません。証拠を集めるだけです」


 律はノートパソコンを開いた。


「まず、佐伯先輩が作成した企画書の履歴。次に、黒川課長の別案との一致箇所。さらに、メールの送受信記録と共有フォルダの更新履歴。時系列で整理します」


 美緒は目を丸くした。


「もう考えてるの?」


「はい。ただ、社内の根回しや、誰にどの順番で見せるべきかは分かりません。そこは先輩に判断してほしいです」


 律は少しだけ苦笑した。


「僕は、まだ新人なので」


 その一言に、美緒の肩の力が少し抜けた。


 有能だけれど、万能ではない。

 だからこそ、二人で補い合える。


「分かった。じゃあ、一緒にやろう」


 美緒が言うと、律の目が少しだけ明るくなった。


「はい」


 その日の夜、二人は遅くまで資料を整理した。


 美緒が企画の本筋を磨き直し、律が証拠とデータを整える。


 手柄を奪われたと感情的に訴えるのではない。

 誰が、いつ、何を作ったのか。

 どの資料がどの資料をもとにしているのか。

 どこに不自然な変更があるのか。


 淡々と、事実を積み上げる。


「先輩、この部分、黒川課長の別案ではリスク対策が削られています」


「本当だ。役員に聞かれたら弱いね」


「佐伯先輩の案では、現場対応まで入っています。ここは残した方がいいです」


「うん。ありがとう」


 気づけば、仕事の呼吸が合っていた。


 美緒が考え、律が整理する。

 律が数字を示し、美緒が現場の言葉に変える。


 不思議だった。

 こんなに仕事がしやすい相手は、初めてかもしれない。


 時計が二十一時を過ぎた頃、美緒は伸びをした。


「朝倉くん、今日はもう帰ろう」


「はい。あとは明日でも間に合います」


「初月からこんなに残業させてごめんね」


「僕が残りたかったので」


「それは教育係として聞き流せないな」


 美緒が少しだけ笑うと、律もかすかに笑った。


 その表情が、年相応に見えた。


 普段は落ち着きすぎていて忘れそうになるけれど、律はまだ二十三歳なのだ。


 その若さが、急にまぶしく見えた。


 帰り支度をしていると、律がぽつりと言った。


「先輩」


「ん?」


「先輩は、もっと大事にされていい人です」


 美緒の手が止まった。


 オフィスの照明は半分落ちていて、窓の外には夜のビル明かりが並んでいた。


「仕事でも」


 律は続けた。


「それ以外でも」


 心臓が、大きく鳴った。


 その言葉の意味を、聞いてはいけないと思った。


「……朝倉くんは、優しいね」


 美緒はまた同じ言葉で逃げた。


 律は少しだけ目を伏せた。


「優しさだけなら、こんなに見ていません」


 美緒は息を止めた。


 聞き返せなかった。


 聞き返してしまったら、何かが変わってしまう。


 その夜、美緒は電車の窓に映る自分の顔を見た。


 三十五歳。

 疲れた顔。

 恋愛なんて、もう遠いものだと思っていた女。


 それなのに。


 朝倉律の言葉が、いつまでも耳の奥に残っていた。

お読みいただき、ありがとうございます。


美緒が長い間「平気な顔」で飲み込んできた悔しさを、律だけは見逃しませんでした。


しかも彼は、ただ慰めるだけではありません。


誰が、いつ、何を作ったのか。

どこで資料が変わったのか。


証拠を積み上げ、美緒が正当に評価されるために動き始めます。


そして最後にこぼれた、


「優しさだけなら、こんなに見ていません」


という律の言葉。


次話では、仕事の戦いと同時に、二人の距離もさらに大きく動きます。

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