第2話 差し替えられた数字と、律くんの違和感
35歳、仕事はできて当たり前。
誰かを支えることには慣れたのに、自分が誰かに見てもらうことは、いつの間にか諦めていた美緒。
そんな彼女の前に現れたのは、十二歳年下の東大卒新人・朝倉律でした。
ここから始まる、年下男子とのお仕事恋愛です。
朝倉律は、優秀だった。
それは一週間も経たないうちに、部内の誰もが認める事実になった。
資料作成が早い。
数字に強い。
話を聞く力がある。
そして何より、余計なことを言わない。
新入社員にありがちな空回りもなければ、高学歴にありがちな妙な自信もない。
淡々と仕事を覚え、分からないことは素直に聞く。
美緒にとって、それはありがたかった。
けれど、律は決して完璧な新人ではなかった。
「佐伯先輩、この販促費の配分表ですが、前年比だけでなく、売上総利益率も横に置いた方が説得力が出ると思います」
「……確かに」
「現場の負担軽減を訴えるなら、訪問件数の削減見込みも数値化できます。営業日報のデータ、過去三年分ありますか?」
「あるけど、そこまで見る?」
「役員会議に出すなら、突っ込まれると思います」
正しい。
律の言うことは、いつも的確だった。
けれど、その直後に律は少し眉を寄せた。
「ただ、僕はまだ、営業現場の空気が分かっていません」
「空気?」
「はい。数字上はこうした方がいいと分かっても、現場の方がどう受け取るかまでは読めません。そこは佐伯先輩に教えていただきたいです」
美緒は少し驚いた。
自分の強みを見せるだけではなく、自分に足りないところも認められる。
それは、新人としては珍しい素直さだった。
「朝倉くんは、そういうところがすごいね」
「そういうところ?」
「できることと、知らないことを分けて考えられるところ」
律は少し黙った。
そして、真面目な顔で言った。
「佐伯先輩にそう言われると、嬉しいです」
まっすぐすぎる返事に、美緒の方が照れてしまう。
三十五歳にもなって、新入社員の言葉に動揺するなんて。
美緒は心の中で自分に言い聞かせた。
これは教育係としての責任感。
相手は十二歳も年下の新入社員。
変な意識をしてはいけない。
「じゃあ、この資料、今日中に形にしよう」
「はい」
二人で作った企画書は、想像以上によくまとまった。
美緒の現場感覚。
律の分析力。
その二つが組み合わさることで、ただの思いつきではない、実行可能な企画になっていく。
部長も中間確認でうなずいた。
「いいね、佐伯さん。かなり説得力がある」
「ありがとうございます」
「朝倉くんも手伝っているんだって?」
「はい。データ整理を中心に、かなり助けてもらっています」
美緒がそう言うと、律は少しだけ姿勢を正した。
「佐伯先輩の企画が分かりやすくなるように、補助しただけです」
部長は楽しそうに笑った。
「いいコンビだな」
美緒は一瞬、返事に詰まった。
コンビ。
仕事上の意味だと分かっているのに、その言葉が妙に胸に残った。
その日の夕方。
黒川が美緒の席にやって来た。
「佐伯さん、企画書、部長が褒めていたよ」
「ありがとうございます」
「朝倉くんも優秀みたいだね。さすが佐伯さん、教育がうまい」
美緒は軽く会釈した。
黒川の口調は穏やかだった。
けれど目の奥は笑っていなかった。
「役員会議用の最終版、共有フォルダに入っている?」
「はい。まだ調整中ですが、現時点のものは入れています」
「確認しておくよ。私も課長として把握しておきたいから」
「承知しました」
黒川は美緒の画面を一瞥してから、自席へ戻っていった。
その背中を見ながら、美緒は小さく眉を寄せる。
嫌な予感がした。
けれど、上司が資料を確認すること自体は不自然ではない。
美緒は気のせいだと思うことにした。
翌日。
役員会議の前段階として、部内で最終確認の会議が開かれた。
美緒は少し緊張していた。
自分が中心になって進めてきた企画。
これが通れば、営業企画部の来期方針にも大きく影響する。
そして、美緒自身の評価にもつながる。
「では佐伯さん、説明をお願いします」
部長に促され、美緒は立ち上がった。
プロジェクターに資料を映す。
タイトル、目的、現状分析、課題、施策案。
そこまでは問題なかった。
しかし、販促費の配分表を映した瞬間、美緒は違和感を覚えた。
数字が違う。
昨日、律と確認した数値ではない。
一部の商品カテゴリで、古い年度の販促費が混ざっている。
心臓が嫌な音を立てた。
「佐伯さん?」
部長が怪訝そうに声をかける。
美緒は一瞬で頭を回転させた。
このまま説明すれば、矛盾を突かれる。
けれど会議中に「資料が違います」と言えば、自分の確認不足になる。
その沈黙を待っていたように、黒川が口を開いた。
「佐伯さん、数字の確認は大丈夫ですか?」
優しい声だった。
だからこそ、嫌な響きがあった。
「新入社員教育もあって忙しかったでしょうし、無理が出たのかもしれませんね。佐伯さんのためを思って言っているんだけど、抱え込みすぎはよくないよ」
会議室の空気が微妙に変わった。
美緒は唇を引き結ぶ。
やられた。
直感的にそう思った。
けれど証拠がない。
ここで黒川を疑うような発言をすれば、感情的だと思われるだけだ。
そのとき、隣に座っていた律が小さく手を挙げた。
「発言してもよろしいでしょうか」
部長が少し驚いた顔をした。
「朝倉くん? どうぞ」
律は立ち上がった。
「現在映っている資料は、昨日十九時二十六分に共有フォルダへ保存された版と、一部数値が異なっています」
会議室が静かになった。
美緒も律を見た。
「昨日、佐伯先輩と私で最終確認した版では、こちらの商品カテゴリの販促費は三千二百万円ではなく、二千六百万円でした。また、売上総利益率も現在の資料とは異なります」
律は自分のノートパソコンを操作し、別ファイルを開いた。
「確認用に、昨日の作業版をローカルにも保存してあります。更新履歴と照合すれば、どの時点で数値が変わったか確認できます」
部長の表情が変わった。
「更新履歴は見られる?」
「はい。共有フォルダの履歴から確認可能です」
黒川がすぐに口を挟んだ。
「朝倉くん、会議中にそういう話をするのはどうかな。まだ新人なんだから、もう少し慎重に」
律は黒川を見た。
声は荒げない。
表情も変えない。
「慎重に確認した結果です」
その一言で、会議室の空気がさらに張り詰めた。
美緒は胸の中が熱くなるのを感じた。
律は、ただ庇っているのではない。
証拠を持って、事実を示している。
「部長」
美緒は深く息を吸った。
「申し訳ありません。念のため、昨日の確認版と更新履歴を照合した上で、正しい資料を本日中に再提出させてください」
部長は少し考えた後、うなずいた。
「分かった。佐伯さん、朝倉くん、今日中に確認を頼む」
「はい」
会議は一旦中断となった。
部屋を出る時、黒川が美緒の横を通り過ぎながら低く言った。
「新人を盾にするのは、感心しないな」
美緒は返事をしなかった。
その代わり、少し後ろを歩いていた律が静かに言った。
「佐伯先輩は、僕を盾にしていません」
黒川が振り返る。
律はまっすぐ黒川を見ていた。
「僕が、自分で気づいて発言しました」
黒川の目がわずかに冷たくなる。
「……優秀な新人だね」
「ありがとうございます」
律は丁寧に頭を下げた。
その態度が、かえって黒川を苛立たせたようだった。
会議室を出た後、美緒は律を小会議室へ連れて行った。
「朝倉くん」
「はい」
「ありがとう。助かった」
律は首を横に振った。
「佐伯先輩がミスをしたわけではありません」
「でも、よく気づいたね」
「先輩の資料は、昨日の時点で完璧でした」
律は当然のように言った。
「だから、変わっていたら分かります」
美緒は言葉を失った。
完璧。
そんな言葉を、仕事で誰かから言われたのは初めてかもしれない。
「それに」
律は画面を見ながら続けた。
「昨日の十九時以降、共有フォルダのファイルが更新されています。更新者の履歴も残っています」
「誰?」
律は一瞬だけ迷ったように見えた。
けれど、すぐに答えた。
「黒川課長です」
美緒は目を閉じた。
予感はしていた。
でも、実際に聞くと、胃の奥が冷たくなる。
「やっぱり……」
「ただ、課長が確認のために開いただけだと言えば、それまでです。数値変更が意図的だったと示すには、もう少し証拠が必要です」
美緒は律を見た。
「朝倉くん、本当に新入社員?」
「はい」
「冷静すぎる」
「冷静に見えますか」
「うん」
「本当は、少し怖いです」
律は小さく息を吐いた。
「会議で発言する時も、手が震えていました。僕はまだ、会社の空気の読み方が分かっていません。でも、数字の違和感だけは見逃せませんでした」
美緒は胸が締めつけられた。
完璧に見えた律も、怖かったのだ。
それでも美緒を守るために、立ち上がってくれた。
「朝倉くん、でも無理に関わらなくていいよ。あなたはまだ新人なんだから」
その言葉に、律は少しだけ眉を動かした。
「新人だから、黙っていた方がいいですか」
「そういう意味じゃなくて……巻き込まれたら、あなたの評価にも関わるかもしれない」
「それなら、なおさら正しい記録を残した方がいいです」
律はきっぱりと言った。
「佐伯先輩が不当に評価を下げられるのを、見なかったことにはできません」
美緒は何も言えなくなった。
その日の午後、二人は資料の修正と履歴の確認に追われた。
律は手際よく、変更点を一覧化した。
元データ、作業版、共有フォルダの更新履歴。
どこで、何が、いつ変わったのか。
美緒は正しい資料を作り直し、部長へ提出した。
「佐伯さん、助かったよ。朝倉くんもよく気づいた」
部長はそう言った。
ただし、黒川の件についてはその場では深く追及しなかった。
まだ、決定的ではない。
美緒もそれは分かっていた。
だからこそ、胸の奥に重いものが残った。
退勤時間を過ぎた頃、美緒はようやく椅子に背を預けた。
「疲れた……」
思わず小さく漏らすと、隣から声がした。
「今日は休んだ方がいいです」
律だった。
「朝倉くんもね。初めてのトラブル対応がこれなんて、運が悪かったね」
「そうは思いません」
「え?」
「佐伯先輩の仕事を、近くで見られました」
律は静かに言った。
「トラブルの時ほど、その人の仕事の仕方が出ると思います。先輩は、誰かを責める前に、まず正しい資料を作り直した」
「それしかできなかっただけだよ」
「それができる人は、多くないと思います」
美緒は胸が詰まった。
若い。
十二歳も年下。
新入社員。
そう思って距離を置こうとするたび、律はその距離を静かに越えてくる。
恋愛のような甘さではない。
もっと深いところで、美緒の孤独に気づいてしまう。
「先輩、今日はちゃんと帰ってください」
「新人に命令される日が来るとは思わなかった」
「命令じゃありません」
律は少しだけ目を伏せた。
「お願いです。心配なので」
美緒は何も言えなくなった。
心配なので。
その言葉が、胸の奥にやわらかく落ちた。
「……分かった。帰る」
「はい」
「朝倉くんも帰るのよ」
「はい。一緒に駅まで行きます」
「それも命令?」
「お願いです」
律が真面目な顔で言うから、美緒は思わず笑ってしまった。
その笑顔を見て、律も少しだけ安心したように目元を緩める。
その時、律の表情がふっと真剣に戻った。
「先輩」
「何?」
「今日の件、これで終わりではないと思います」
美緒も同じことを思っていた。
黒川は、これで引く人間ではない。
むしろ、律が美緒の味方だと分かったことで、次はもっと慎重に動いてくるはずだ。
律はパソコンを閉じ、静かに言った。
「次に何かあっても、僕は気づけるようにしておきます」
その言葉は頼もしかった。
そして、少しだけ怖かった。
この人を、これ以上巻き込んではいけない。
そう思うのに。
美緒はもう、律が隣にいてくれることに、安心してしまっていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
誰にも気づかれなかった美緒の頑張りを、初日からまっすぐ見つけてくれた律。
まだ二人は「教育係」と「新入社員」。
けれど次話では、美緒が積み上げてきた大切な企画に、ある異変が起こります。
そして律が、彼女を守るために動き始めます。




