第1話 35歳の私に、新入社員の教育係が回ってきました
35歳、仕事はできて当たり前。
誰かを支えることには慣れたのに、自分が誰かに見てもらうことは、いつの間にか諦めていた美緒。
そんな彼女の前に現れたのは、十二歳年下の東大卒新人・朝倉律でした。
ここから始まる、年下男子とのお仕事恋愛です。
三十五歳になってから、誰かに真正面から褒められた記憶がない。
仕事ができて当たり前。
頼まれたことを片づけて当たり前。
急な資料修正にも対応して当たり前。
会議で上司の言葉足らずを補って、他部署の機嫌を取り、後輩のミスをさりげなく直しても、それは全部「佐伯さんならできるよね」の一言で終わる。
最後に誰かから、仕事以外の私を見てもらえたのは、いつだっただろう。
仕事では名前を呼ばれる。
資料を頼まれる。
調整を任される。
困った時だけ、真っ先に思い出される。
でも、女として見られることは、いつの間にかなくなっていた。
大手生活用品メーカー、桜和ホールディングス営業企画部。
佐伯美緒は、そこで主任として働いている。
肩書きだけなら、そこそこ聞こえはいい。
けれど実際は、課長と若手の間に挟まれ、他部署との調整に追われ、誰かの失敗を自分の責任のように処理する毎日だった。
後輩には「頼れる先輩」として見られる。
上司には「便利な中堅」として使われる。
男性社員には、いつの間にか恋愛対象ではなく「仕事の人」として扱われる。
それがいつから普通になったのか、美緒にも分からなかった。
「佐伯さん、これ今日中に見てもらえますか?」
午前九時十五分。
出社して十五分で、隣の席の後輩が申し訳なさそうに資料を差し出してきた。
「今日中?」
「はい……。部長に出すやつなんですけど、数字の見せ方が分からなくて」
美緒はパソコンの画面に目を戻した。
自分の仕事は、すでに山のように積まれている。
午後には部内会議。
夕方には新規プロジェクトの打ち合わせ。
その合間に、来週の役員会議へ出す企画書のたたき台を作らなければならない。
それでも、美緒は小さく息を吐いてから言った。
「置いておいて。午前中に一度見る」
「ありがとうございます! 佐伯さん、本当に助かります」
後輩は明るく笑って自席へ戻っていく。
助かります。
その言葉を聞くたび、美緒は少しだけ思う。
助かっているなら、少しは自分でできるようになってほしい。
もちろん、そんなことは口に出さない。
三十五歳にもなると、言っていいことと、飲み込んだ方がいいことの区別くらいはつく。
「佐伯さん」
今度は背後から声をかけられた。
振り返ると、営業企画部課長の黒川直人が立っていた。
四十歳。清潔感のあるスーツに、柔らかい笑顔。社内では人当たりのいい管理職として通っている。
けれど美緒は、その笑顔の奥にあるものを知っている。
「はい、黒川課長」
「今日から新入社員の配属だよね。朝倉くんの教育係、よろしくお願いします」
「あ、はい。承知しています」
「彼、かなり優秀らしいよ。東大卒で、学生時代からデータ分析のコンテストで賞も取っているとか」
「そうなんですね」
「佐伯さんも、やりにくいかもしれないけど」
黒川はそこで、少しだけ笑みを深めた。
「若い子の感性に負けないように、頑張ってください」
悪意があると言い切れるほど、はっきりした言葉ではない。
けれど、胸のあたりに小さな棘が刺さった。
若い子。
三十五歳。
負けないように。
いちいち気にしていたら仕事にならない。
美緒はいつものように、淡々と頭を下げた。
「はい。しっかり指導します」
「頼りにしてますよ」
黒川は満足そうにうなずき、自分の席へ戻っていった。
その後ろ姿を見ながら、美緒は心の中でため息をつく。
新入社員の教育係。
それ自体は嫌ではない。
若手を育てるのも仕事の一部だし、教えることは嫌いではない。
ただ、今の美緒には余裕がなかった。
次期管理職候補として名前が挙がっている。
新規プロジェクトの中心メンバーにも選ばれた。
けれど同じ部内では、黒川も次の部長候補だと言われている。
つまり、表面上は上司と部下でも、実際には出世争いの相手でもある。
黒川は、それを隠していない。
少なくとも、美緒にだけは。
午前十時。
部長に連れられて、新入社員が営業企画部へやって来た。
「今日からうちに配属になった朝倉律くんだ」
部長の横に立っていた青年が、丁寧に頭を下げる。
「朝倉律です。本日からよろしくお願いいたします」
すっと通る声だった。
背は高い。
濃紺のスーツはまだ少し新しく、ネクタイもきっちり結ばれている。
顔立ちは端正だけれど、派手ではない。むしろ落ち着いていて、目元に知性がある。
東大卒。
データ分析が得意。
新入社員の中でも期待株。
事前に聞いていた情報が、美緒の頭の中に並ぶ。
正直、少し身構えていた。
東大卒で優秀な若い男性。
自信満々で、教えにくいタイプだったらどうしよう。
現場の泥臭い調整を軽く見られたら、少し面倒だ。
「朝倉くんの教育係は、佐伯さんにお願いしている」
部長がそう言うと、律は美緒の方を向いた。
「佐伯さん、本日からご指導よろしくお願いいたします」
深く、丁寧なお辞儀だった。
「あ、こちらこそ。佐伯美緒です。分からないことがあったら、何でも聞いてください」
「はい。ありがとうございます」
律はまっすぐに美緒を見た。
その目には、値踏みするような色がなかった。
若さ特有の軽さも、変な自信もない。
ただ、真剣だった。
美緒は少しだけ拍子抜けした。
「じゃあ、まずは席に案内するね」
「はい」
律の席は、美緒の斜め前になった。
パソコンの初期設定、社内システムの説明、共有フォルダの場所、部内ルール、会議資料の保存方法。
美緒は順番に説明していく。
律は一つひとつメモを取った。
分かったふりをせず、疑問点があればその場で確認する。
「この資料は、最新年度の売上実績と販促費を連動させて見るんですね」
「そう。単に売上だけ見ると、販促費をかけた結果なのか、自然に伸びたのか分かりにくいから」
「なるほど。では、商品別だけでなく、チャネル別にも分けた方が見やすそうですね」
美緒は思わず律を見た。
「……よく気づいたね」
「いえ。佐伯さんの説明が分かりやすかったので」
律は当然のようにそう言った。
美緒は返事に困った。
分かりやすい。
そんなふうに言われたのは、いつ以来だろう。
午前中の説明が終わる頃には、美緒の中にあった警戒心は少し薄れていた。
律は優秀だった。
けれど、優秀さをひけらかさない。
むしろ、現場の知識を持つ美緒に敬意を払っているのが伝わってきた。
昼休み前。
美緒は後輩から預かった資料を確認しながら、律に言った。
「ごめんね。少しだけ待ってて。これ、午前中に見ておかないといけなくて」
「はい。大丈夫です」
美緒は資料の数字を見直し、表の順番を変え、コメント欄を書き足した。
十五分ほどで、部長に出せる形に整える。
律はその様子を黙って見ていた。
「お待たせ」
「いえ」
律は静かに言った。
「佐伯さんって、すごいですね」
美緒は手を止めた。
「え?」
「資料のどこが弱いか、すぐに分かるんですね。それに、相手が何を知りたいかを先に考えて直している」
「……慣れだよ」
「慣れだけではできないと思います」
まっすぐな声だった。
美緒は、なぜか胸の奥が少しだけ熱くなった。
褒められたからではない。
自分の仕事を、ちゃんと見てくれたからだ。
仕事が早い。
便利。
頼みやすい。
そんな評価は何度も受けてきた。
けれど、どう考えて、どこを見て、何を守っているのか。
そこまで見てくれた人は、あまりいなかった。
「ありがとう」
美緒は小さく答えた。
律は少しだけ表情をやわらげた。
午後の会議でも、律は静かに美緒の横に座っていた。
まだ発言はしない。ただ、資料を見ながら、要点を丁寧にメモしている。
会議では、新規プロジェクトの話が出た。
来期に向けた主力商品の販売戦略。
販促費の再配分。
営業現場の負担軽減。
データを使った施策の見直し。
美緒が中心になって進めている企画だった。
「この企画は、来週の役員会議にかける予定です」
部長が言うと、黒川がにこやかに続けた。
「佐伯さんが中心になってまとめています。ただ、新入社員教育もありますし、負担が大きいようなら、私の方で一部引き取りますよ」
一見、親切な言葉だった。
でも美緒には分かる。
一部引き取る。
それは、企画の主導権を奪うという意味でもある。
「ありがとうございます。ただ、現時点では私の方で進められます」
美緒は落ち着いて答えた。
黒川の目がわずかに細くなる。
「そうですか。無理はしないでくださいね。君が潰れたら、部署としても困るから」
「はい」
心配しているような言葉。
でも、本当に心配しているわけではない。
美緒は、それも分かっていた。
会議が終わると、律が隣で小さく言った。
「佐伯さんの企画なんですね」
「うん。まだ途中だけど」
「面白いです。現場の負担を減らしながら、売上も伸ばす設計になっている」
「よく分かったね」
「会議を聞いていて、佐伯さんが一番現場のことを考えているのが分かりました」
また、胸の奥が小さく揺れた。
若い子に励まされてどうするの。
美緒はそう思い、軽く笑って流そうとした。
「朝倉くんは、褒め上手だね」
「思ったことを言っているだけです」
律は真面目な顔で言った。
美緒はそれ以上、何も言えなかった。
その日の夜。
気づけば、フロアにはほとんど人がいなくなっていた。
時計は二十時を過ぎている。
美緒は役員会議用の企画書に向き合っていた。
明日までに骨子を仕上げなければならない。
画面を見つめていると、目の奥がじんと痛む。
若い頃は、多少無理をしても平気だった。
徹夜明けでも笑って出社できたし、仕事が評価されるだけで疲れを忘れられた。
でも、三十五歳になった今は違う。
無理をした分だけ、体に残る。
誰かに褒められないことにも慣れたはずなのに、ふとした瞬間、空しくなる。
私、何をしているんだろう。
そんな言葉が頭に浮かんだ時だった。
「佐伯さん」
顔を上げると、律が立っていた。
「朝倉くん? まだいたの?」
「はい。議事録の整理をしていました」
「初日から無理しなくていいよ」
「佐伯さんもです」
律はそう言って、美緒の机に缶コーヒーを置いた。
温かいブラックコーヒーだった。
「先輩、今日まだ一度も休んでませんよね」
美緒は瞬きをした。
「え……」
「昼休みも、後輩の方の資料を見ていました。午後も会議続きで、戻ってからずっと企画書を作っています」
「よく見てるね」
「見ていました」
律は静かに言った。
「佐伯さんが、ずっと誰かのために動いていたので」
心臓が、不意に変な音を立てた気がした。
誰かのために動いていた。
そんなふうに言ってもらえるだけで、胸の奥に溜まっていた疲れが少しだけほどけていく。
「ありがとう。いただくね」
美緒は缶コーヒーに手を伸ばした。
指先に温かさが伝わる。
それだけで、泣きそうになる自分に驚いた。
「朝倉くん」
「はい」
「明日からも、よろしくね」
律は少しだけ表情をやわらげた。
「はい。よろしくお願いします、佐伯先輩」
先輩。
ただの呼び方なのに、なぜか胸に残った。
その頃、少し離れた課長席で、黒川が二人の様子を見ていた。
薄い笑みを浮かべながら。
お読みいただき、ありがとうございます。
誰にも気づかれなかった美緒の頑張りを、初日からまっすぐ見つけてくれた律。
まだ二人は「教育係」と「新入社員」。
けれど次話では、美緒が積み上げてきた大切な企画に、ある異変が起こります。
そして律が、彼女を守るために動き始めます。




