第9話 残酷な笑顔の写真
八月の午後、陽だまり縁側堂に、古い写真の匂いが持ち込まれた。
湿気た紙箱を開けた瞬間だけ、押し入れの奥と昔の夏休みを混ぜたような匂いがした。
持ってきたのは雅道だった。
美容室兼写真館の店主である彼は、今日は顔パックではなく白いシャツ姿で、茶色の紙箱を抱えていた。
「香織さん、これは捨てる相談ではありません」
「では、何の相談ですか」
「見て、腹が立つ相談です」
「市役所の分類に載っていなさそうですね」
横で記録用紙を整えていた萌が、真顔で付箋を一枚ちぎった。
「『見て腹が立つもの』……分類を増やします?」
「増やさなくていいです」
畳に置かれた箱の蓋には、黒いインクで「昭和四十九年 夏」と書かれていた。紐は何度も結び直された跡があり、角は少しつぶれている。
「古いアルバムを整理していたお客様が、これだけは処分できないとおっしゃって。けれど見るたびに嫌な気持ちになるそうです」
「嫌な気持ちになるのに、捨てられない」
香織は記録用紙へそう書いた。
最近、その言葉ばかり書いている。ここへ来る品はどれも、捨てる直前で持ち主の手をつかんで離さない。
咲璃が白い手袋を用意し、みづきが湿度計を取ってきた。心暖は「お茶、緊張しない味にします」と言い、自分が一番緊張した顔で台所へ消えた。
箱から出てきたのは、黒い台紙のアルバムだった。
祭りの提灯、川辺で並ぶ子どもたち、商店街の古い看板。どれも色あせていたが、一枚だけ空気の違う写真があった。
白い縁の中に、四人の若者が写っている。
場所は、陽だまり縁側堂の庭先らしい。中央には淡い色のワンピースを着た若い女性。右に背の高い青年。左に細身で眼鏡をかけた青年。少し離れて、年配の女性が立っている。
全員、笑っていた。
なのに、見ていると胸の奥がざらついた。
「……楽しそうでは、ないですね」
香織の口から、思ったままの言葉がこぼれた。
「でしょう」
雅道は待っていたようにうなずいた。
「笑顔なのに、嫌なんです。口角は上がっている。でも、写真全体が無理に畳まれた布みたいに苦しい」
中央の女性は、どこかで見たことがある顔立ちだった。頬の形、手の重ね方、湯飲みを両手で包むような指先。
「彬子さん……ですか」
咲璃が小さく言った。
若い女性は、たしかに彬子に似ていた。今の柔らかな皺を取り、背筋に昔の張りを戻したら、きっとこうなる。けれど写真の中の彼女の目は笑っていない。目尻に光があり、涙の跡にも、強い日差しの反射にも見えた。
雅道が透明な薄いシートを置き、赤いペンで目元と口元を示す。
「笑顔を見る時、人はたいてい口を見ます。でも本当に笑っているかは、目元に出る。ここ、力が入っているでしょう。泣いたあとに、急いで写真用の顔を作った形です」
「写真用の顔」
「店でもあります。泣いたあとに『せっかくだから一枚だけ』と言われる方が。撮る側は、顔が整うのではなく、その人が写ってもいいと思えるところまで戻るのを待つんです」
香織は雅道の横顔を見た。美しさにうるさいだけの人ではなかったらしい。
その時、玄関の引き戸が開いた。
「あら、にぎやかね」
彬子だった。
薄紫のブラウスに白い日傘。手には小さな紙袋。
「近くまで来たから、差し入れを――」
言いかけた声が、写真の上で止まった。
香織は写真を隠すべきか迷った。けれど、もう彬子の目はそれを見ている。
「……懐かしいものを」
彬子はゆっくり縁側に上がり、畳に正座した。
「それ、どちらから?」
「雅道さんのお客様が、整理中に見つけたそうです。見ると腹が立つ写真だと」
香織が正直に言うと、雅道が小さく咳払いをした。
「言い方が少しだけ私の品位を落としています」
「だいたいそのままでしょう」
「否定はしません」
彬子はほんの少し笑った。その笑いは写真の中の彼女に似ていて、香織の胸が冷えた。
「この人は、私の夫です」
彬子は右側の背の高い青年を指した。
「こちらは、春井さん。春井伯仁さん。今よりずっと、危険ではなさそうでしょう」
細身で眼鏡をかけた青年は、伯爵というより、図書館の片隅で本を直していそうな人に見えた。けれど、その目はカメラではなく、中央の彬子を見ているようにも思えた。
「撮ったのは、夏祭りの翌日でした。みんなで片づけをして、疲れて、でも若かったから楽しかった。そう言えたら、きれいな話になるのだけれど」
彬子の手は、湯飲みがないのに何かを包む形になっていた。
「この写真が嫌いだったんですか」
聞いてから、香織は少し後悔した。まっすぐすぎる。査定士の頃の刃が、まだ言葉の先に残っている。
けれど彬子は怒らなかった。
「嫌いでした。ずっと。だって、みんな笑っているでしょう」
「笑っているのが、嫌だったんですか」
「ええ。泣いたあとだったから」
畳の上に、扇風機の首振りの音だけが残った。
「何を泣いたのかは、今日は話せないわ。まだ、自分でもきちんと名前をつけられないから。ただ、私はこの写真を見るたびに、自分がとても上手に嘘をついたことを思い出します」
「嘘……」
「幸せです、平気です、何もありません。そういう顔をしたの」
雅道は赤いペンを置き、もう何も説明しなかった。心暖は麦茶の盆を抱えたまま唇を結んでいる。
香織は記録用紙を裏返した。
「彬子さん。この写真を、どうしたいですか」
処分しますか、とは聞かなかった。残しますか、とも聞かなかった。
彬子は目を閉じた。夏の光がすだれを通り、彼女の頬に細い縞を落としている。
「今は、見たくない。でも捨てたら、あの日の私が、最初からいなかったことになりそうで」
「では、今日ここで決めない形にしましょう」
咲璃が中性紙の封筒を出し、みづきが保管箱を選び、萌が日付を書いた。雅道は写真の向きを整えた。
彬子が、小さく息を吸った。
「春井さんは、いつもそうだったわ」
全員の手が止まった。
「そう、とは」
香織が尋ねると、彬子は首を横に振った。
「ごめんなさい。今日はそこまで」
その声は優しかったが、閉じた扉の音がした。
香織は追いかけなかった。本人がまだ出す準備のできていない箱を、こちらの都合で開けることになる。
「わかりました」
香織は写真を封筒へ入れた。表には、こう書いた。
――残酷な笑顔の写真。本人確認済み。今は語らせない。
彬子は紙袋を畳の上に置いた。
「琥珀糖、冷やして食べてね。昔、春井さんが好きだったの。甘すぎるものを、真面目な顔で食べる人だったから、少しおかしくて」
玄関へ向かう背中は、写真の中の若い彼女より小さかった。それでも日傘を持つ手はまっすぐだった。
引き戸が閉まったあと、心暖が小さく言った。
「緊張しない味のお茶、冷めちゃいました」
「冷めた麦茶は、最初から冷たいものです」
雅道が真顔で答える。
「今のは、気を遣っただけです」
香織が言うと、心暖はようやく笑った。
その笑い声の横で、香織は封筒を保管箱へ入れた。鍵をかける前に、写真の重みが指先に残った。
笑っているのに苦しい顔。
捨てたいのに捨てられない一枚。
陽だまり縁側堂には、またひとつ、急いで答えを出してはいけないものが増えた。




