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陽だまり縁側堂の、思い出の捨て方 ――嘘の実話祭りと危険な伯爵――  作者: 乾為天女


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9/25

第9話 残酷な笑顔の写真

 八月の午後、陽だまり縁側堂に、古い写真の匂いが持ち込まれた。

 湿気た紙箱を開けた瞬間だけ、押し入れの奥と昔の夏休みを混ぜたような匂いがした。

 持ってきたのは雅道だった。

 美容室兼写真館の店主である彼は、今日は顔パックではなく白いシャツ姿で、茶色の紙箱を抱えていた。

 「香織さん、これは捨てる相談ではありません」

 「では、何の相談ですか」

 「見て、腹が立つ相談です」

 「市役所の分類に載っていなさそうですね」

 横で記録用紙を整えていた萌が、真顔で付箋を一枚ちぎった。

 「『見て腹が立つもの』……分類を増やします?」

 「増やさなくていいです」

 畳に置かれた箱の蓋には、黒いインクで「昭和四十九年 夏」と書かれていた。紐は何度も結び直された跡があり、角は少しつぶれている。

 「古いアルバムを整理していたお客様が、これだけは処分できないとおっしゃって。けれど見るたびに嫌な気持ちになるそうです」

 「嫌な気持ちになるのに、捨てられない」

 香織は記録用紙へそう書いた。

 最近、その言葉ばかり書いている。ここへ来る品はどれも、捨てる直前で持ち主の手をつかんで離さない。

 咲璃が白い手袋を用意し、みづきが湿度計を取ってきた。心暖は「お茶、緊張しない味にします」と言い、自分が一番緊張した顔で台所へ消えた。

 箱から出てきたのは、黒い台紙のアルバムだった。

 祭りの提灯、川辺で並ぶ子どもたち、商店街の古い看板。どれも色あせていたが、一枚だけ空気の違う写真があった。

 白い縁の中に、四人の若者が写っている。

 場所は、陽だまり縁側堂の庭先らしい。中央には淡い色のワンピースを着た若い女性。右に背の高い青年。左に細身で眼鏡をかけた青年。少し離れて、年配の女性が立っている。

 全員、笑っていた。

 なのに、見ていると胸の奥がざらついた。

 「……楽しそうでは、ないですね」

 香織の口から、思ったままの言葉がこぼれた。

 「でしょう」

 雅道は待っていたようにうなずいた。

 「笑顔なのに、嫌なんです。口角は上がっている。でも、写真全体が無理に畳まれた布みたいに苦しい」

 中央の女性は、どこかで見たことがある顔立ちだった。頬の形、手の重ね方、湯飲みを両手で包むような指先。

 「彬子さん……ですか」

 咲璃が小さく言った。

 若い女性は、たしかに彬子に似ていた。今の柔らかな皺を取り、背筋に昔の張りを戻したら、きっとこうなる。けれど写真の中の彼女の目は笑っていない。目尻に光があり、涙の跡にも、強い日差しの反射にも見えた。

 雅道が透明な薄いシートを置き、赤いペンで目元と口元を示す。

 「笑顔を見る時、人はたいてい口を見ます。でも本当に笑っているかは、目元に出る。ここ、力が入っているでしょう。泣いたあとに、急いで写真用の顔を作った形です」

 「写真用の顔」

 「店でもあります。泣いたあとに『せっかくだから一枚だけ』と言われる方が。撮る側は、顔が整うのではなく、その人が写ってもいいと思えるところまで戻るのを待つんです」

 香織は雅道の横顔を見た。美しさにうるさいだけの人ではなかったらしい。

 その時、玄関の引き戸が開いた。

 「あら、にぎやかね」

 彬子だった。

 薄紫のブラウスに白い日傘。手には小さな紙袋。

 「近くまで来たから、差し入れを――」

 言いかけた声が、写真の上で止まった。

 香織は写真を隠すべきか迷った。けれど、もう彬子の目はそれを見ている。

 「……懐かしいものを」

 彬子はゆっくり縁側に上がり、畳に正座した。

 「それ、どちらから?」

 「雅道さんのお客様が、整理中に見つけたそうです。見ると腹が立つ写真だと」

 香織が正直に言うと、雅道が小さく咳払いをした。

 「言い方が少しだけ私の品位を落としています」

 「だいたいそのままでしょう」

 「否定はしません」

 彬子はほんの少し笑った。その笑いは写真の中の彼女に似ていて、香織の胸が冷えた。

 「この人は、私の夫です」

 彬子は右側の背の高い青年を指した。

 「こちらは、春井さん。春井伯仁さん。今よりずっと、危険ではなさそうでしょう」

 細身で眼鏡をかけた青年は、伯爵というより、図書館の片隅で本を直していそうな人に見えた。けれど、その目はカメラではなく、中央の彬子を見ているようにも思えた。

 「撮ったのは、夏祭りの翌日でした。みんなで片づけをして、疲れて、でも若かったから楽しかった。そう言えたら、きれいな話になるのだけれど」

 彬子の手は、湯飲みがないのに何かを包む形になっていた。

 「この写真が嫌いだったんですか」

 聞いてから、香織は少し後悔した。まっすぐすぎる。査定士の頃の刃が、まだ言葉の先に残っている。

 けれど彬子は怒らなかった。

 「嫌いでした。ずっと。だって、みんな笑っているでしょう」

 「笑っているのが、嫌だったんですか」

 「ええ。泣いたあとだったから」

 畳の上に、扇風機の首振りの音だけが残った。

 「何を泣いたのかは、今日は話せないわ。まだ、自分でもきちんと名前をつけられないから。ただ、私はこの写真を見るたびに、自分がとても上手に嘘をついたことを思い出します」

 「嘘……」

 「幸せです、平気です、何もありません。そういう顔をしたの」

 雅道は赤いペンを置き、もう何も説明しなかった。心暖は麦茶の盆を抱えたまま唇を結んでいる。

 香織は記録用紙を裏返した。

 「彬子さん。この写真を、どうしたいですか」

 処分しますか、とは聞かなかった。残しますか、とも聞かなかった。

 彬子は目を閉じた。夏の光がすだれを通り、彼女の頬に細い縞を落としている。

 「今は、見たくない。でも捨てたら、あの日の私が、最初からいなかったことになりそうで」

 「では、今日ここで決めない形にしましょう」

 咲璃が中性紙の封筒を出し、みづきが保管箱を選び、萌が日付を書いた。雅道は写真の向きを整えた。

 彬子が、小さく息を吸った。

 「春井さんは、いつもそうだったわ」

 全員の手が止まった。

 「そう、とは」

 香織が尋ねると、彬子は首を横に振った。

 「ごめんなさい。今日はそこまで」

 その声は優しかったが、閉じた扉の音がした。

 香織は追いかけなかった。本人がまだ出す準備のできていない箱を、こちらの都合で開けることになる。

 「わかりました」

 香織は写真を封筒へ入れた。表には、こう書いた。

 ――残酷な笑顔の写真。本人確認済み。今は語らせない。

 彬子は紙袋を畳の上に置いた。

 「琥珀糖、冷やして食べてね。昔、春井さんが好きだったの。甘すぎるものを、真面目な顔で食べる人だったから、少しおかしくて」

 玄関へ向かう背中は、写真の中の若い彼女より小さかった。それでも日傘を持つ手はまっすぐだった。

 引き戸が閉まったあと、心暖が小さく言った。

 「緊張しない味のお茶、冷めちゃいました」

 「冷めた麦茶は、最初から冷たいものです」

 雅道が真顔で答える。

 「今のは、気を遣っただけです」

 香織が言うと、心暖はようやく笑った。

 その笑い声の横で、香織は封筒を保管箱へ入れた。鍵をかける前に、写真の重みが指先に残った。

 笑っているのに苦しい顔。

 捨てたいのに捨てられない一枚。

 陽だまり縁側堂には、またひとつ、急いで答えを出してはいけないものが増えた。



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― 新着の感想 ―
更新ありがとうございます!雅道さん何だか軽くて重たい品を持ち込まれましたね。笑っているのに笑っていない写真。紐解いて語り出してくれると有り難いのですが。彬子さん穏やかにして芯のある方に見受けられますの…
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