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陽だまり縁側堂の、思い出の捨て方 ――嘘の実話祭りと危険な伯爵――  作者: 乾為天女


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8/25

第8話 日焼け止めとメントール

 七月に入ると、陽だまり縁側堂の縁側は、午後二時を過ぎたあたりから小さな蒸し器になった。

 すだれの影は畳の上でゆらゆら揺れ、扇風機は首を振るたび、古い柱へ向かってため息のような風を送っている。香織は保管棚の前で、額に貼りつく前髪を指でよけた。

 「扇風機にも、もう少し意思があればいいんですけど」

 「意思があったら、先に帰ると思います」

 咲璃が日記の破れた端を押さえたまま、静かに答えた。机の上には和紙、糊、細い筆が並ぶ。湿気のせいで乾きが遅く、朝から窓の開け方ばかり変えていた。

 そこへ、玄関の引き戸が勢いよく開いた。

 「冷感、持ってきました!」

 心暖が白い紙袋を抱えて飛び込んでくる。首に巻いたタオルは気合いだけは十分だったが、本人の額にはすでに汗が光っていた。

 「冷感って、何を?」

 「日焼け止めと、冷えるジェルと、差し入れのミント菓子です。夏の相談所には清涼感が必要だと思って」

 「清涼感より、まず分類が必要ですね」

 萌が奥から出てきて、黄色の付箋を日焼け止め、青の付箋を冷感ジェル、桃色の付箋を菓子に貼っていく。その几帳面な区分を、雄史が黒いマントでまたいだ。

 「諸君。夏こそ伯爵の威厳が試される季節である」

 「その格好で威厳を語る前に、命を守ってください」

 「大丈夫。舞台俳優は、季節を超える」

 「人間は超えなくていい季節があります」

 香織が扇風機を雄史へ向けると、マントがふくらみ、付箋が二枚飛んだ。萌が小さく悲鳴を上げ、心暖が慌てて拾う。

 「すみません! 雄史さん、外で呼び込みするなら日焼け止め塗ります」

 「頼もう。伯爵の肌は町の財産だ」

 「そこは相談所の財産にしないでください」

 香織が止める間もなく、心暖は青い付箋のチューブを手に取った。

 あ、と言うには少し遅かった。

 透明なジェルが雄史の頬に伸びる。次の瞬間、雄史の表情が舞台の幕のように固まった。

 「……冷たい」

 「夏用ですから!」

 「いや、これは、顔に北風の親戚が住み始めた」

 塗られた頬の伯爵メイクが、ゆっくり溶ける。右半分だけ影のある貴族、左半分だけ昼休みの町内会員になった。

 咲璃が筆を止め、萌が口を押さえ、香織は一度天井を見た。

 「心暖さん。それは日焼け止めではなく、冷感ジェルです」

 「えっ」

 雄史は鏡をのぞき、しばらく黙った。それから杖を床に突き、片頬だけで笑う。

 「よし。このまま行こう。半分だけ呪われた伯爵だ」

 「行かないでください」

 「子どもが泣きます」

 「大人も少し不安になります」

 三方向から止められ、心暖は真っ赤になって謝り続けた。

 「ごめんなさい。わたし、役に立とうとして、また余計なことを」

 「余計ではない」

 雄史は溶けた頬を指でぬぐい、大げさに一礼した。

 「おかげで、今年の宣伝文句が決まった。陽だまり縁側堂、冷えすぎる思い出も扱います」

 「扱いません」

 香織は即答したが、心暖の肩から力が抜けたのを見て、言葉を飲み込んだ。失敗を笑いに変えるのは、雑にごまかすことではない。誰かがその場にいられるよう、気まずさを拾う技術なのだ。

 その時、玄関の外で小さな咳払いがした。

 「……ここ、思い出を捨てる場所で合ってます?」

 立っていたのは、細身の女性だった。薄い帽子を目深にかぶり、手にはスマートフォン。視線は部屋を一瞬でなぞり、溶けた伯爵、飛んだ付箋、棚の日記で止まった。

 「はい。相談所です。捨てるかどうかは、すぐ決めなくても大丈夫です」

 香織が言うと、女性は鼻で笑った。

 「ぬるいですね」

 縁側の空気が、冷感ジェルとは別の方向に冷えた。

 「ぬるい、とは」

 香織の声は、自分で思ったより低かった。

 「捨てたい人を座らせて、事情を聞いて、泣いたら保留。看板も『すぐ捨てなくても可』。優しい言葉で包めば、物が減らなくてもいい雰囲気になる。感傷の倉庫って感じ」

 「見学だけで、ずいぶん決めつけますね」

 「見学しなくても入口でわかります。導線が悪いです。最初に目に入るのが修理途中の日記で、次が溶けた伯爵。初めて来る人は、ここが何をする場所か迷います」

 「溶けた伯爵は臨時です」

 「臨時の情報量が多すぎます」

 香織は言い返そうとして、止まった。

 腹は立つ。けれど、女性の指摘は妙に具体的だった。靴箱の横に受付札を置くこと。依頼品を見られたくない人のために、布をかけた一時置き場を作ること。修理中の紙は奥へ移すこと。笑いにしてよい物と、勝手に見せてはいけない物を分けること。

 言い方は刺さる。だが、刺さる場所が間違っていない。

 「あなた、何者ですか」

 「のあ。ブログを書いてます」

 のあはそれだけ言うと、玄関へ戻った。出ていく直前、半分だけ伯爵の雄史を見て、真顔で付け加える。

 「それは入口には立たせないほうがいいです。記憶に残りすぎるので」

 「褒め言葉として受け取ろう」

 「違います」

 引き戸が閉まる。

 庭で蝉が鳴き始めた。心暖が小さく言う。

 「嫌な人でしたね」

 「ええ」

 香織は即答した。それから、靴箱の横を見た。

 「でも、受付札は要ります」

 萌がぱっと顔を上げる。

 「作ります。一時置き場の布も、鳩子さんに頼めばできます」

 「修理中の日記は、奥の机へ移します」

 咲璃も静かに言った。

 雄史は溶けた頬をぬぐいながら、少し残念そうに胸に手を当てた。

 「伯爵の立ち位置は」

 「入口から二歩下がってください」

 「二歩でよいのか」

 「三歩でもいいです」

 笑いが戻ったところで、もう一度引き戸が開いた。

 今度は、白い麻の上着を着た女性が紙袋を抱えて立っていた。彼女は部屋を見渡し、半分だけ伯爵の雄史に一瞬目を留めたが、驚きは飲み込んだらしい。

 「こんにちは。小さな出版社の真奈美と申します」

 差し出された名刺は、薄い生成り色だった。

 「こちらの活動を、町の記録として小冊子にできないかと思って伺いました」

 香織は名刺を受け取りながら、先ほどの言葉を思い出した。

 感傷の倉庫。

 ただ並べるだけなら、そう見えるのかもしれない。けれど、ここに置かれた物は泣かせるための道具ではない。捨てる前に、誰かが息を整えるための椅子だ。

 「冊子にするなら」

 香織は言った。

 「泣ける話だけにはしません」

 真奈美は少し驚き、それからにこりと笑った。

 「その言葉を聞けて、来た甲斐がありました」

 扇風機が首を振り、雄史の半分だけ残った伯爵メイクを乾かしていく。心暖は黄色い付箋のチューブを握り直し、今度こそ間違えないよう、太い字で「日焼け止め」と書いた。

 香織は靴箱の横に新しい紙を置いた。

 ――最初に、お名前ではなく、持ってきた物をお聞きします。

 書き終えると、少しだけ縁側堂の入口が涼しくなった気がした。



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― 新着の感想 ―
更新ありがとうございます♪最初に。伯爵ごめんなさい!端的に添え物とか思ってました。あなたは主人公wさて香織さん。冷めた敵意は滲んでましたが、よく堪えましたね。暑い7月の部屋の中。多少なりともイライラも…
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