第8話 日焼け止めとメントール
七月に入ると、陽だまり縁側堂の縁側は、午後二時を過ぎたあたりから小さな蒸し器になった。
すだれの影は畳の上でゆらゆら揺れ、扇風機は首を振るたび、古い柱へ向かってため息のような風を送っている。香織は保管棚の前で、額に貼りつく前髪を指でよけた。
「扇風機にも、もう少し意思があればいいんですけど」
「意思があったら、先に帰ると思います」
咲璃が日記の破れた端を押さえたまま、静かに答えた。机の上には和紙、糊、細い筆が並ぶ。湿気のせいで乾きが遅く、朝から窓の開け方ばかり変えていた。
そこへ、玄関の引き戸が勢いよく開いた。
「冷感、持ってきました!」
心暖が白い紙袋を抱えて飛び込んでくる。首に巻いたタオルは気合いだけは十分だったが、本人の額にはすでに汗が光っていた。
「冷感って、何を?」
「日焼け止めと、冷えるジェルと、差し入れのミント菓子です。夏の相談所には清涼感が必要だと思って」
「清涼感より、まず分類が必要ですね」
萌が奥から出てきて、黄色の付箋を日焼け止め、青の付箋を冷感ジェル、桃色の付箋を菓子に貼っていく。その几帳面な区分を、雄史が黒いマントでまたいだ。
「諸君。夏こそ伯爵の威厳が試される季節である」
「その格好で威厳を語る前に、命を守ってください」
「大丈夫。舞台俳優は、季節を超える」
「人間は超えなくていい季節があります」
香織が扇風機を雄史へ向けると、マントがふくらみ、付箋が二枚飛んだ。萌が小さく悲鳴を上げ、心暖が慌てて拾う。
「すみません! 雄史さん、外で呼び込みするなら日焼け止め塗ります」
「頼もう。伯爵の肌は町の財産だ」
「そこは相談所の財産にしないでください」
香織が止める間もなく、心暖は青い付箋のチューブを手に取った。
あ、と言うには少し遅かった。
透明なジェルが雄史の頬に伸びる。次の瞬間、雄史の表情が舞台の幕のように固まった。
「……冷たい」
「夏用ですから!」
「いや、これは、顔に北風の親戚が住み始めた」
塗られた頬の伯爵メイクが、ゆっくり溶ける。右半分だけ影のある貴族、左半分だけ昼休みの町内会員になった。
咲璃が筆を止め、萌が口を押さえ、香織は一度天井を見た。
「心暖さん。それは日焼け止めではなく、冷感ジェルです」
「えっ」
雄史は鏡をのぞき、しばらく黙った。それから杖を床に突き、片頬だけで笑う。
「よし。このまま行こう。半分だけ呪われた伯爵だ」
「行かないでください」
「子どもが泣きます」
「大人も少し不安になります」
三方向から止められ、心暖は真っ赤になって謝り続けた。
「ごめんなさい。わたし、役に立とうとして、また余計なことを」
「余計ではない」
雄史は溶けた頬を指でぬぐい、大げさに一礼した。
「おかげで、今年の宣伝文句が決まった。陽だまり縁側堂、冷えすぎる思い出も扱います」
「扱いません」
香織は即答したが、心暖の肩から力が抜けたのを見て、言葉を飲み込んだ。失敗を笑いに変えるのは、雑にごまかすことではない。誰かがその場にいられるよう、気まずさを拾う技術なのだ。
その時、玄関の外で小さな咳払いがした。
「……ここ、思い出を捨てる場所で合ってます?」
立っていたのは、細身の女性だった。薄い帽子を目深にかぶり、手にはスマートフォン。視線は部屋を一瞬でなぞり、溶けた伯爵、飛んだ付箋、棚の日記で止まった。
「はい。相談所です。捨てるかどうかは、すぐ決めなくても大丈夫です」
香織が言うと、女性は鼻で笑った。
「ぬるいですね」
縁側の空気が、冷感ジェルとは別の方向に冷えた。
「ぬるい、とは」
香織の声は、自分で思ったより低かった。
「捨てたい人を座らせて、事情を聞いて、泣いたら保留。看板も『すぐ捨てなくても可』。優しい言葉で包めば、物が減らなくてもいい雰囲気になる。感傷の倉庫って感じ」
「見学だけで、ずいぶん決めつけますね」
「見学しなくても入口でわかります。導線が悪いです。最初に目に入るのが修理途中の日記で、次が溶けた伯爵。初めて来る人は、ここが何をする場所か迷います」
「溶けた伯爵は臨時です」
「臨時の情報量が多すぎます」
香織は言い返そうとして、止まった。
腹は立つ。けれど、女性の指摘は妙に具体的だった。靴箱の横に受付札を置くこと。依頼品を見られたくない人のために、布をかけた一時置き場を作ること。修理中の紙は奥へ移すこと。笑いにしてよい物と、勝手に見せてはいけない物を分けること。
言い方は刺さる。だが、刺さる場所が間違っていない。
「あなた、何者ですか」
「のあ。ブログを書いてます」
のあはそれだけ言うと、玄関へ戻った。出ていく直前、半分だけ伯爵の雄史を見て、真顔で付け加える。
「それは入口には立たせないほうがいいです。記憶に残りすぎるので」
「褒め言葉として受け取ろう」
「違います」
引き戸が閉まる。
庭で蝉が鳴き始めた。心暖が小さく言う。
「嫌な人でしたね」
「ええ」
香織は即答した。それから、靴箱の横を見た。
「でも、受付札は要ります」
萌がぱっと顔を上げる。
「作ります。一時置き場の布も、鳩子さんに頼めばできます」
「修理中の日記は、奥の机へ移します」
咲璃も静かに言った。
雄史は溶けた頬をぬぐいながら、少し残念そうに胸に手を当てた。
「伯爵の立ち位置は」
「入口から二歩下がってください」
「二歩でよいのか」
「三歩でもいいです」
笑いが戻ったところで、もう一度引き戸が開いた。
今度は、白い麻の上着を着た女性が紙袋を抱えて立っていた。彼女は部屋を見渡し、半分だけ伯爵の雄史に一瞬目を留めたが、驚きは飲み込んだらしい。
「こんにちは。小さな出版社の真奈美と申します」
差し出された名刺は、薄い生成り色だった。
「こちらの活動を、町の記録として小冊子にできないかと思って伺いました」
香織は名刺を受け取りながら、先ほどの言葉を思い出した。
感傷の倉庫。
ただ並べるだけなら、そう見えるのかもしれない。けれど、ここに置かれた物は泣かせるための道具ではない。捨てる前に、誰かが息を整えるための椅子だ。
「冊子にするなら」
香織は言った。
「泣ける話だけにはしません」
真奈美は少し驚き、それからにこりと笑った。
「その言葉を聞けて、来た甲斐がありました」
扇風機が首を振り、雄史の半分だけ残った伯爵メイクを乾かしていく。心暖は黄色い付箋のチューブを握り直し、今度こそ間違えないよう、太い字で「日焼け止め」と書いた。
香織は靴箱の横に新しい紙を置いた。
――最初に、お名前ではなく、持ってきた物をお聞きします。
書き終えると、少しだけ縁側堂の入口が涼しくなった気がした。




