第7話 エレベーターで止まる本音
市役所分室のエレベーターは、上へ行く前に必ず一度ため息をついた。
六月の終わり、香織は利用記録の入った封筒を抱え、薄い灰色の扉の前で眉をひそめていた。壁には「定員六名」と書かれた札がある。けれど扉の隙間から聞こえる機械音は、六名どころか一名でも励ましが必要そうだった。
「階段で行きませんか」
「三階です。書類を持って階段で上がって、あなたが途中で『古民家より市役所を査定したい』と言い出す未来が見えます」
理香はそう言って、迷わずボタンを押した。
香織は封筒を抱え直す。中には、相談所を開いてからの来訪者数、預かった品物の一覧、学生たちの放課後利用の記録、夏未のパンの差し入れ回数まで萌が丁寧に表にしたものが入っている。最後の項目は理香が見たら削るだろうと思ったが、萌は「支援の継続性です」と真顔で書き足した。
扉が開くと、すでに中にひとり乗っていた。
青い作業着の男性が、工具箱を足元に置き、天井を見上げている。背が高く、表情は穏やかで、今にも「だいたい大丈夫です」と言いそうな顔だった。
「あ、どうも。点検で来てます。志龍です」
「点検中なら乗っていいんですか」
香織が聞くと、志龍は少し考えた。
「今のところは」
「今のところ、という言葉は、乗る前に聞きたくありませんでした」
理香はすでに乗っていた。香織も仕方なく入る。扉が閉まり、箱はまた小さくため息をついた。
上昇が始まった。と思った瞬間、足元がふっと軽くなり、箱全体がぎしりと鳴った。
照明が一度またたく。
次に聞こえたのは、ぴん、と間の抜けた音だった。
エレベーターは止まった。
「……今のところが終わりましたね」
香織は低い声で言った。
志龍は落ち着いた様子で操作盤を確認し、非常ボタンを押した。
「大丈夫です。よくあることではありませんが、起きた時の手順は決まっています」
「よくあっても困ります」
理香はスマートフォンを取り出し、電波を確認した。一本だけ立っている。彼女はすぐに市役所の設備担当へ連絡し、状況を短く伝えた。香織は壁に背をつける。箱の中は狭く、古い油と金属の匂いがした。
志龍は外の作業員と通話を始めた。
「はい、二階と三階の間です。ブレーキは効いてます。乗客二名、僕も中です。いや、僕が中です。笑うところではないです」
電話の向こうで誰かが何か言ったらしく、志龍は少し困った顔をした。
「はい、指示は出せます。工具は中にあります。僕も中にあります」
香織は思わず吹き出しそうになったが、すぐに封筒を抱え直した。笑っている場合ではない。三月末の期限、安全改修、利用実績。理香が毎回口にする言葉が、閉じた箱の中では急に重さを持った。
「これ、外から開けるのにどれくらいかかりますか」
「確認してからです。急いで無理に開けると危ないので」
志龍の答えは穏やかだった。穏やかすぎて、香織は少し腹が立った。
「危ない、ですか」
「はい。止まっているものを、焦って動かすのが一番危ないです」
その言葉に、理香がちらりと香織を見た。
香織は気づかないふりをした。
数分が過ぎた。箱の中の空気がぬるくなる。香織は自分の呼吸が少し浅くなっていることに気づいた。古い家の奥で日記の棚を見た時と似ている。開けたくないものの前に立つと、胸の奥が細くなる。
理香は封筒に目を落とした。
「利用者数は増えています」
「はい」
「でも、増えたから安全になるわけではありません」
「わかってます」
「本当に?」
香織は返事に詰まった。
理香の声は責めるようでいて、いつものように冷たくはなかった。狭い箱の中では、書類の言葉も逃げ場を失う。
「縁側堂に来る人が増えました。学生も、商店街の人も、日記を預ける人も。香織さんは、ひとりずつ話を聞こうとする。それは悪いことではありません。でも、階段が古いまま、雨樋も割れたまま、保管棚の鍵も曖昧なままなら、何かあった時に全部終わります」
「だから、数字を出せって言うんですか」
「数字だけでは残せません。けれど、数字がないと残す話し合いの席にも上がれません」
理香はそこで一度息を吸った。
「残すなら、数字も人も両方見てください」
香織は封筒の角を指で押さえた。萌の表。鳩子の旗。夏未のパン。心暖の読み間違い。咲璃が直した日記の端。どれも数字にすると薄くなる気がしていた。けれど、数えなければ、そこにあったことさえ誰かに渡せないのかもしれない。
ふいに、志龍が胸ポケットを探った。
「こういう時は、落ち着くものを口に入れるといいです」
差し出されたのは、銀色の包みに入った小さな菓子だった。
香織は反射的に受け取って、口に入れた。
次の瞬間、喉の奥に冷たい風が突き抜けた。
「っ、からい!」
「あ、メントール強めでした」
「先に言ってください!」
香織はむせ、理香が慌てて背中をさすった。志龍は水を探して工具箱を開けかけ、当然そこには水ではなくスパナしか入っていなかった。
「工具でどうにかする気ですか」
「気持ちだけでも」
「気持ちで喉は直りません」
理香が真顔で言い、三人の間に少しだけ笑いが落ちた。
その笑いが、箱の中の空気をほんのわずかに動かした。
やがて外から作業音が聞こえた。志龍は扉に耳を近づけ、電話の向こうへ静かに指示を出す。どのネジを緩めるか、どの順で確認するか、声は穏やかなままだったが、言葉には迷いがなかった。
扉が少しずつ開く。細い光が差し込んだ瞬間、香織は自分が思っていたより強く息を止めていたことに気づいた。
外に出ると、廊下の空気は湿っていた。それでも広いだけでありがたかった。
理香は乱れた髪を整え、何事もなかった顔で封筒を受け取った。
「三階の会議室で確認します」
「まだやるんですか」
「止まったのはエレベーターです。話し合いではありません」
香織は少しだけ笑った。
志龍は工具箱を持ち直し、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました。あと、次から普通の飴にします」
「次がある前提で言わないでください」
香織はそう言いながら、銀色の包みを捨てずに手の中へ残した。
古いものは、止まる。止まったものを焦って動かせば、もっと危ない。
けれど、外から手順を知る人が声をかけ、中にいる人が息を合わせれば、また扉は開く。
縁側堂も、そうでなければならないのだろう。
香織は三階へ続く階段を見上げた。今度は自分から足を上げる。
隣で理香が、封筒の中の表を軽く叩いた。
「パンの差し入れ回数、削りませんよ」
「削ると思ってました」
「支援の継続性です」
萌と同じ言い方をされ、香織は階段の途中で笑ってしまった。
メントールの冷たさが、まだ少しだけ喉に残っていた。




