第6話 帰宅部の長い放課後
古い学生服は、陽だまり縁側堂の奥で一晩を越した。
翌朝、香織が戸を開けると、布に包んだはずのそれは、なぜか縁側の真ん中に堂々と置かれていた。しかも、袖口から細いメジャーが一本、蛇の舌みたいにはみ出している。
「……鳩子さん」
「はい、呼ばれて飛び出て布の妖精です」
障子の陰から、鳩子が顔を出した。頭には赤い端切れを鉢巻きのように巻き、腕には糸切りばさみを引っかけている。本人は完全に作業服のつもりらしいが、香織には夜逃げ前の仕立屋にしか見えなかった。
「勝手にほどかない約束でしたよね」
「ほどいてないよ。測っただけ。布は触ると機嫌がわかるから」
「機嫌で同意を取らないでください」
香織が学生服を持ち上げると、濃紺の布は思ったより重かった。昨日の依頼人――鳩子の知り合いの高校生は、名前を出さない条件で、この制服を預けていったという。学校へ行けないわけではない。けれど、教室の椅子に座ると息苦しくなる。だから放課後になると、家にも帰れず、商店街の端から端まで歩いていた。
帰宅部なのに、帰る場所を探している。
香織はその言葉を、昨夜から何度も頭の中で転がしていた。
「本人には、旗にする案を伝えましたか」
「伝えた。『目立つのは嫌です』って」
「じゃあ却下です」
「でもね、そのあとに『でも、誰にも気づかれないのも、少し嫌です』って言ったの」
鳩子は学生服の袖をそっと撫でた。
「だから、大きな旗じゃなくて、小さな目印。見つけたい人だけが見つけられるくらいの」
香織は返事を急がなかった。以前なら、目立つ物はやめましょう、匿名性が守れません、と即座に言っていたと思う。正しい。けれど、正しさだけで布を畳むと、そこに残っていた声まで折れてしまう気がした。
そこへ、玄関が元気よく開いた。
「香織さん! 荷物運びの新時代が来ました!」
碧輝だった。
彼は古いオフィスチェアを押して入ってきた。座面は黒い合皮で、端が破れてスポンジがのぞいている。脚には小さなキャスターが五つ。背もたれには、なぜか竹の棒がくくりつけられていた。
「帰ってください」
「まだ説明してない!」
「説明前に危険です」
「危険じゃないです。これは、縁側堂と商店街をつなぐ移動式宣伝台。名づけて、ひだまり号」
香織は額を押さえた。
後から来た萌が、手帳を開いたまま固まった。
「碧輝さん、それ、ブレーキは?」
「足です」
「却下です」
「でも見てください。ここに旗を立てれば、商店街の端まで宣伝できるんですよ。帰宅部の長い放課後、って」
鳩子の目が輝いた。
「いいじゃん」
「よくありません」
香織と萌の声が重なった。
しかし、止める間もなく、碧輝は学生服の端切れで作った仮の小旗を竹の棒に結びつけた。鳩子が昨夜のうちに縫っていたらしい。布には、まだ文字は入っていない。ただ、濃紺の上に黄色い糸で小さな家の形が刺してある。
帰れない子のための、家の印。
香織がそれに見入った一瞬を、碧輝は完全に許可と勘違いした。
「では、試走します!」
「しません!」
香織が叫ぶより早く、碧輝は椅子に片膝を乗せた。キャスターが床板をころりと鳴らし、縁側から土間へ、土間から玄関へと滑っていく。
問題は、その先だった。
陽だまり縁側堂の前の道は、商店街へ向かってわずかに下っている。ほんのわずかだ。歩いていれば気づかない程度の坂である。だが、ブレーキを足と信じる男と、寿命の尽きかけたオフィスチェアにとっては、立派な発射台だった。
「止まらない! 意外と止まらない!」
「意外じゃないです!」
碧輝を乗せたひだまり号は、がたがたと音を立てて坂を下った。竹の棒についた小旗が、必死に風を受けている。買い物帰りの老婦人が道の端へ避け、乾物屋の店主が干し椎茸の箱を抱えて飛びのいた。
「商店街で椅子が出世してるぞ!」
「誰か止めて!」
萌が走り、鳩子が笑いながら追い、香織は草履のまま駆け出した。途中で片方が脱げたが、拾っている余裕はなかった。
ひだまり号は菓子店の前で大きく揺れ、夏未のパンの立て看板へ向かって突っ込んだ。終わった、と香織が思った瞬間、店から出てきた夏未が、売れ残りの食パンが入った大袋を看板の前へ放り出した。
椅子は袋にぶつかり、もふ、と情けない音を立てて止まった。
碧輝は座面にしがみついたまま、青ざめた顔で振り返る。
「安全性に改善の余地があります」
「余地しかありません」
香織は息を切らしながら言った。
集まった商店街の人たちは、最初こそ呆れていたが、やがて誰かが吹き出した。老婦人が「椅子に追い越されたのは初めてだよ」と笑い、乾物屋の店主が「干し椎茸より足が速い」と悔しそうに言う。心暖は菓子店の奥から飛び出し、何が起きたのかもわからないまま拍手をしていた。
その笑いの輪の外側に、学生服の持ち主らしい高校生が立っていた。
香織はすぐに気づいた。昨日は鳩子の後ろに隠れるようにしていた子だ。今日は制服ではなく、薄い灰色のパーカーを着ている。視線は地面に落ちていたが、小旗だけは見ていた。
鳩子がそっと近づき、何も言わずに隣に立つ。
高校生は、小さな声で言った。
「文字、少し変えてもいいですか」
香織は息を整えながら、うなずいた。
「あなたの制服です。あなたが決めてください」
「帰宅部の長い放課後、は……ちょっと、全部ばれるみたいで」
「はい」
「でも、放課後、だけなら」
高校生は、ひだまり号に結ばれた小旗を指さした。
「あそこに、放課後あります、って書いてあったら、見つけられるかもしれない」
香織の胸に、何かが静かに沈んだ。
帰りたいと言えない子に、帰っておいでと言いすぎるのは重い。けれど、どこにも行けない時間に、ここに座っていいと知らせるだけなら、布一枚でもできるのかもしれない。
萌が手帳を閉じ、真面目な顔で言った。
「見守り体制、作りましょう。連絡先確認、開所時間、保護者への説明、全部必要です。椅子の走行は禁止で」
「最後のだけ強調しなくても」
碧輝が小さく抗議したが、全員に見られて黙った。
香織は、傷だらけのオフィスチェアと、救われたパンの袋と、まだ文字のない小旗を見た。
壊れた椅子は、走る向きを間違えれば事故になる。けれど、立てる場所を選べば、誰かの目印になる。
夕方、縁側堂の入口には小さな布が掛けられた。
黄色い糸で刺した家の下に、鳩子の針で、たった四文字が縫われている。
放課後。
大きく呼ばない。追いかけない。ただ、ここにあると知らせるだけ。
香織はその布を見上げ、草履を片方なくした足で、縁側に腰を下ろした。
商店街の向こうから、高校生たちの笑い声が薄く流れてくる。帰る場所を決めるには、まだ早い時間だった。




