第5話 思い出の捨て方相談所、開店
土曜日の午後、陽だまり縁側堂の看板は、香織が思っていたよりも軽い音を立てて玄関脇に掛かった。
木札には、墨でこう書いてある。
思い出の捨て方相談所。
その下に、今朝になって香織が小さく書き足した言葉があった。
すぐ捨てなくても可。
「字が小さいです」
後ろから理香が言った。
「遠くから見えません」
「遠くから見せたい文言ではないので」
「相談に来る前から逃げ道があると伝えるのは大事です」
理香はそう言うと、持ってきた油性ペンを差し出した。香織はしばらく抵抗したが、結局、木札の下半分に大きく書き直すことになった。線が太すぎて、少しだけ駄菓子屋の割引札みたいになった。
縁側には座布団を三枚。二階の打ち合わせ室で決めた通り、初日は三組まで。予約票には、夏未、心暖、鳩子の名前が並んでいる。
萌は受付の小机に座り、同意書と相談票を扇形に並べていた。付箋が三色、筆記具が五本、タイマーが一つ。まるで小さな市役所が縁側に引っ越してきたようだった。
「タイマーは使いませんよね」
「使いません。置いてあると安心するだけです」
「鳴ったら泣いていても終了、みたいに見えます」
「では裏返します」
萌がタイマーを伏せると、今度は置き物の亀に見えた。
最初の客は、パン屋の夏未だった。紙袋から出てきたのは、割れたマグカップである。取っ手の根元から欠け、胴には細いひびが一本走っていた。白地に青い小花模様。よくある品で、査定士時代の香織なら、写真も撮らずに処分箱へ入れていただろう。
「これは、もう飲み物を入れるのは危ないですね」
香織が言うと、夏未はすぐにうなずいた。
「そうなの。だから捨てようと思って。欠けたところで指を切ったら大変だし、店にも合わないし」
説明は早かった。早すぎるほどだった。
香織はカップを布の上に置いた。夏未の手が、布の端をつまんだまま離れない。
「誰の物ですか」
「昔、妹と一緒に買ったの。パン屋を始めたら、朝いちばんのコーヒーはこのカップで飲もうって約束して」
「妹さんも、パン屋さんを?」
「ううん。結婚して遠くへ行った。喧嘩したまま。仲直りの電話をしようと思っていた日に、私、寝落ちしちゃって」
夏未は笑った。いつもの、誰かの成功を自分のことのように喜ぶ時の明るい笑い方だった。けれど、その笑いはカップのひびより細く震えていた。
「次の日も、その次の日も、電話できたはずなのにね。約束を破ったのは、カップじゃなくて私なのに、これを見るとカップが責めてくる気がして」
香織は、処分相当、と口に出すのをやめた。
「飲む物には使わない。けれど、捨てなくてもいい形はあります。店のレジ横で、ショップカードを立てるとか」
「割れたカップを?」
「約束を破った証拠ではなく、今できる約束を置く器にします。妹さんへ手紙を書く日を決めて、そのカードを一枚だけ入れておく」
夏未は困った顔で笑い、それから少し泣きそうになった。
「パンより重いね、マグカップって」
香織は相談票に「用途変更」と書いた。値段ではない言葉を書く手つきに、まだ慣れない。
二組目の心暖は、紙袋を二つ抱えて入ってきた。片方には菓子店の焼き菓子、もう片方には未開封の日焼け止めがぎっしり入っている。
「これ、全部捨てたいです!」
「未開封ですよね」
「去年、商店街の夏の売り出しで、景品にしようと思って張り切って買ったんです。でも発注数を間違えて。あと、顔用と体用と子ども用が混ざって。店長に『太陽と戦争する気か』って言われました」
萌が受付で肩を震わせた。
心暖は赤くなりながら、一本を取り出した。
「褒められたかったんです。準備が早いねって。気が利くねって。でも、結局、邪魔な在庫になって」
日焼け止めのチューブは白く、丸い腹をしていた。香織は使用期限を確認し、まだ使える物と古い物を分けた。
「使える物は、夏の屋外の催しで配れます。古い物は捨てましょう。全部を同じ袋に入れたら、失敗した気持ちまで一緒に捨てることになります」
「分けるんですか」
「はい。役に立てる物と、もう休ませる物を」
心暖は「休ませる」と小さく繰り返した。
その後ろで、理香が静かにメモを取っている。回転率が悪い、と顔には書いてある。だが、口には出さなかった。
三組目の鳩子は、古い学生服を肩に担いでやって来た。
「はい、青春の抜け殻です」
「言い方が軽い」
「重く言うと着られなくなるから」
濃紺の制服は、肘が薄くなり、裾の糸がほつれていた。名前の刺繍はほどかれている。鳩子は「知り合いの子の」とだけ言った。
「学校に行くのは嫌いじゃなかった。でも、教室にいるのが苦手だったんだって。帰宅部なのに帰れなくて、商店街をぐるぐる歩いていたらしいの」
香織は制服の袖口を見た。こすれた布に、長い放課後の手触りが残っている気がした。
「捨てるために持ってきたんですか」
「半分はね。もう半分は、旗にしようと思って」
「旗?」
「帰宅部の長い放課後、って刺繍するの。帰っていい場所がない子が、ここに来てもいいってわかるように」
香織は思わず理香を見た。理香はすぐに首を振る。
「未成年の居場所として扱うなら、見守り体制と連絡先確認が必要です。旗だけ先に立てないでください」
「ですよねえ」
鳩子はまったく悪びれずに笑った。
「でも、布は先にほどける」
その言葉に、香織は制服を返さず、いったん預かり用の布に包んだ。
「ほどく前に、持ち主に確認しましょう。どこまで変えていいか。名前を消すか、残すか。旗にするなら、その子が見て苦しくない言葉かどうか」
鳩子の表情が、ほんの少しだけ真面目になった。
「香織ちゃん、だいぶ相談所の人っぽくなってきたね」
「査定士っぽくない、と言ってください」
「それはまだ半分くらい」
初日の三組が帰ったあと、縁側には物だけが残った。割れたマグカップ、分けられた日焼け止め、布に包まれた学生服。
どれも、市の実績報告には大きな数字にならない。処分量としても、売上としても、ほとんど意味はない。
理香は相談票をそろえながら言った。
「一組に時間をかけすぎです。このままだと、利用実績は伸びません」
「わかっています」
「ただ」
理香はそこで一度、縁側の木札を見た。
「今日の三組は、途中で帰りませんでした。聞く場所としては、悪くなかったと思います」
香織は返事の代わりに、木札の下へもう一枚、小さな札を掛けた。
捨てる、直す、預ける、考え直す。
萌がのぞき込み、首をかしげる。
「考え直す、も相談のうちですか」
「今日からは」
夕方の光が、縁側の傷をやわらかくなぞった。割れたカップの青い花が、その光の中で、まだ咲いているように見えた。




