第4話 打ち合わせ室に顔パック
最初の打ち合わせの日、陽だまり縁側堂の二階は、まだ人を迎える顔をしていなかった。
畳の上には、春井伯仁が残したらしい古い座卓が一つ。壁際には使われなくなった丸椅子が積まれ、天井の隅には蜘蛛の巣が薄いレースのようにかかっている。窓を開けると、商店街の揚げ物の匂いと、どこかの家の洗濯物の柔軟剤の匂いが混ざって入ってきた。
香織は雑巾を絞りながら、座卓の傷を見た。
細い線、丸い焦げ跡、子どもがつけたような鉛筆の跡。査定士だった頃なら、減額理由が五つは並ぶ。けれど今日は、そこに書類を置く予定だった。
「会議室というより、親戚の家で怒られる部屋ですね」
最初に来た萌が、遠慮のない感想を言った。
配送会社の事務をしているという萌は、大きなトートバッグから付箋、油性ペン、タイマー、養生テープ、クリップを次々に出した。まるで小さな文具店が歩いてきたようだった。
「怒られる前提なんですか」
「古い家の二階って、だいたい誰かが『そんなところ開けちゃだめ』って言いに来るじゃないですか」
「今日は開けます。怒られても」
「では、怒られる担当を先に決めましょう」
萌は真顔で付箋に『怒られる係』と書いた。
「その係は作らなくていいです」
香織が言ったところで、階段がきしんだ。
理香がファイルを抱えて上がってくる。続いて、みづきが保存箱を二つ持ち、翠が紙袋を抱え、最後にひどく優雅な足取りで雅道が現れた。
ただし、顔が真っ白だった。
「……誰ですか」
香織は思わず雑巾を握りしめた。
「雅道です」
「知っています。顔のほうに聞きました」
「保湿中です。会議は肌の水分を待ってくれませんから」
美容室兼写真館の店主である雅道は、頬から顎までぴったり白いシートを貼りつけていた。目と口だけが動く。妙に姿勢がいいせいで、古民家の二階に現れた上品な幽霊のようだった。
萌が付箋に『顔パック』と書き、思い直して『美容担当』と直した。
理香は一度だけ雅道を見たが、何も言わずにファイルを開いた。強い。香織は少し感心した。
「本日の議題は三つです。相談所の開所時間、記録方法、建物の安全確認。まず、開所時間ですが」
「その前に、椅子の位置が悪い」
雅道が白い顔のまま言った。
理香の眉が動いた。
「椅子の位置は議題にありません」
「だから問題なのです。人は、座らされた場所で話す内容を変えます」
雅道は丸椅子を一脚ずつ持ち上げ、窓の光を避けるように置き直した。座卓も、壁に対して斜めにずらす。香織は思わず止めようとしたが、移動した後の部屋を見て口を閉じた。
暗かった二階が、急に息をし始めたように見えた。
窓からの光は座る人の横顔にやわらかく当たり、正面から責められている感じが消えている。出入口に背を向けず、かといって逃げ場をふさがない配置だった。
「……どうして、顔に紙を貼ったままそれがわかるんですか」
「目は出ていますから」
「説得力が顔で下がっています」
「顔は一時的です。配置は残ります」
翠がくすりと笑った。
「でも、確かに話しやすそう。相談に来る人が最初に座る場所、大事かもしれません」
みづきも保存箱を置きながらうなずいた。
「日記や手紙を広げるなら、直射日光は避けたいです。この位置なら紙にも優しいですね」
理香はため息をつき、ファイルの余白に何かを書き込んだ。
「では、座席配置を正式な検討事項に入れます。ただし、次回から顔の保湿は会議前に済ませてください」
「肌にも事情があります」
「建物にも事情があります」
「名言みたいに返さないでください」
香織の言葉に、萌が吹き出した。
笑いが起きると、古い部屋の埃っぽさが少し薄まった。香織は雑巾を畳み、座卓の端に置いた。
「相談所の名前は、思い出の捨て方相談所、で進めます。ただ、すぐ捨てる場所ではないことを看板に書きます」
「記録票には、持ち主の同意欄が必要です」
理香がすぐに言った。
「品物の写真を撮るか、話を残すか、第三者へ見せてよいか。あとで揉めないように」
「話を聞く前に同意欄ですか」
「話を聞いたあとでは、断りにくくなります」
香織は反論しかけて、止まった。
理香の言い方は硬い。けれど、硬さの中に相手を逃がす道がある。
萌が付箋を三色に分けて、座卓に並べた。
「緑が当日の流れ、黄色が記録、赤が安全確認。怒られる係は廃止して、注意されたことを残す係にします」
「それも、ほぼ怒られる係では」
「言い方の問題です」
翠が商店街との連絡役、みづきが紙類の一時保管、萌が予約表と鍵の管理、理香が申請書類と安全面の確認。役割が少しずつ埋まっていく。
雅道は最後に、古いスタンドライトを部屋の隅へ移した。
「夜の相談はしないほうがいい。影が濃いと、人は言わなくていいことまで言います」
「夜は開けません。毎週土曜の午後、二時間から始めます」
香織が言うと、理香がうなずいた。
「実績を作るには少ないですが、最初から広げすぎるより安全です。予約制にして、当日分は三組まで」
「三組」
「聞くなら、最後まで聞ける数にしてください」
その言葉は、叱責ではなく釘だった。
香織は灰色の日記の箱を思い出した。彬子の指が表紙から離れなかったこと。保留と書いた査定票。あの二文字に責任を持つなら、来た人を流れ作業にしてはいけない。
「三組で始めます」
香織は言った。
萌が大きな字で付箋に書く。
毎週土曜午後。三組まで。すぐ捨てなくても可。
その三枚が座卓に並んだ時、陽だまり縁側堂は、ほんの少しだけ相談所の顔になった。
会議が終わる頃、雅道の顔パックは端から乾き始めていた。立ち上がった拍子に、頬のシートがぺろりとはがれる。
心暖が階段の下から差し入れの菓子を持って顔を出し、「きゃっ」と小さく叫んだ。
「伯爵の亡霊ですか」
「美容の途中です」
「途中の美容って怖いんですね」
「完成した美容は優しいです」
香織は笑いをこらえきれず、窓の外を向いた。
商店街の屋根の向こうに、薄い春の空が広がっている。古い家はまだ危うい。書類も足りない。お金も足りない。できていないことを数えれば、座卓の傷より多い。
それでも、部屋には付箋が貼られ、椅子が置かれ、人が座る向きが決まった。
捨てるか残すかの前に、まず座る。
そのための場所が、今日、少しだけ形になった。




