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陽だまり縁側堂の、思い出の捨て方 ――嘘の実話祭りと危険な伯爵――  作者: 乾為天女


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3/25

第3話 鈍い古い日記

 灰色の日記は、翌週の土曜日にも同じ場所にあった。

 陽だまり縁側堂の奥の棚で、ほかの手紙や帳面よりほんの少しだけ手前に出ている。誰かが取り出しかけて、やめたような位置だった。

 香織は朝から、机の上に白い布を広げ、綿の手袋とマスクと小さな刷毛を並べた。元古道具査定士としての道具は、迷わず手が動く。そこが少し腹立たしい。

 「捨てるための準備に見えますね」

 縁側から声がした。

 振り返ると、細身の女性が立っていた。薄い水色のカーディガンに、布張りの鞄。髪は低い位置でまとめられ、靴を脱ぐ動作まで静かだった。玄関の音を立てない人、という印象が先に来る。

 「咲璃さん、でしたっけ。図書館の」

 「はい。図書館補助員です。製本修理を少し習っています」

 咲璃はそう言って、鞄から小さな道具入れを出した。金属のへら、細い筆、紙片を押さえる重し。香織の査定道具より、ずっとやさしそうに見えた。

 「今日は、見守りです」

 「見守り」

 「古い紙は、急がれると破れます。人も、たぶん似ています」

 「名言っぽく始めるの、ここでは流行ってるんですか」

 「鳩子さんの影響かもしれません」

 咲璃がまじめな顔で答えるので、香織は少しだけ笑った。

 その時、玄関の戸が控えめに開いた。

 入ってきたのは、彬子だった。元小学校教師だと、商店街の誰かが教えてくれた。白髪を上品にまとめ、薄紫のストールを首に巻いている。手には、風呂敷包みがあった。

 「すみません。開いていると聞いて」

 「大丈夫です。どうぞ」

 香織は縁側に座布団を出した。状態は悪いが、埃だけは払ってある。彬子は礼を言って腰を下ろし、風呂敷包みを膝の上に置いた。

 結び目をほどく指が、少し震えていた。

 中から出てきたのは、あの灰色の日記だった。

 香織は思わず棚を見た。そこにあったはずの日記がない。どうやら昨日のうちに、誰かが取り出していたらしい。

 「これを、処分していただきたくて」

 彬子の声は穏やかだった。穏やかすぎて、よく乾いた紙のようだった。

 「ご本人の日記ですか」

 「わたしのものではありません。でも、わたしが持っていてはいけない気がして」

 持っていてはいけない。

 香織はその言い方を手帳に書き留めた。捨てたい、ではない。要らない、でもない。

 「中を確認してもよろしいですか」

 彬子はうなずいた。けれど、日記の表紙に置いた手は離れなかった。

 香織は急がず待った。待つのは得意ではない。値段を出す仕事は、迷いを短くする仕事だったからだ。けれど、縁側堂では迷いが品物の一部になる。

 しばらくして、彬子は息を吸い、ゆっくり手を離した。

 日記は近くで見ると、かなり傷んでいた。布張りの表紙には湿気の染みがあり、角は丸く潰れている。小口には薄い斑点。紙をめくる前から、カビの気配がした。

 香織の頭の中に、いつもの言葉が並ぶ。

 保存環境不良。紙質劣化。再利用困難。処分相当。

 言葉は整っている。整っているから、冷たい。

 「状態だけを見るなら、長期保管には向きません」

 香織が言うと、彬子は小さくうなずいた。

 「そうでしょうね」

 「湿気を吸っています。ほかの紙へ移る可能性もあります。どうしても残すなら、乾燥と隔離が必要です」

 「では、捨てたほうが」

 彬子が言いかけた瞬間、指先がまた表紙へ戻った。

 無意識なのだろう。本人は気づいていない顔をしている。けれど、指は表紙の端を押さえ、日記がどこにも行かないようにしていた。

 香織は口を閉じた。

 昔の自分なら、ここで言っただろう。ご決断されるなら、こちらで処分します。湿気ている物は早いほうがいいです。読まないと決めたなら、読まないままのほうが楽です。

 その言葉で、何人もの人を助けたつもりでいた。

 祖母の日記も、そうやって捨てた。

 「咲璃さん、見てもらえますか」

 香織が声をかけると、咲璃は小さくうなずき、手袋をはめた。日記を正面から奪うのではなく、横に座って、彬子の手が自然に離れるのを待つ。

 表紙が少し開いた。

 中の紙は黄ばみ、ところどころ波打っている。墨ともインクともつかない文字が並んでいたが、咲璃は本文ではなく背の部分を見ていた。

 「……一度、ほどかれています」

 「ほどかれた?」

 「綴じ糸が途中で変わっています。元の穴と、あとから通した穴が少しずれています」

 咲璃はへらの先で、背の内側を指した。

 「破れを直した、というより、いったん開いて戻した感じです。糸の張り方が場所によって違います」

 彬子の肩が、ほんのわずかに固くなった。

 「春井さんが、触ったのでしょうか」

 「可能性はあります。でも、今ここで中身を決めつけるのは危ないです」

 咲璃の声は静かだった。静かなのに、部屋の空気が止まる。

 「危ない日記なんですか」

 香織が聞くと、咲璃は首を横に振った。

 「日記が危ないのではなく、読む側の急ぎ方が危ないのだと思います」

 その言葉で、香織は視線を落とした。

 日記の端に、薄く折れたページがあった。誰かが何度もそこを開いた跡。読みたい人がいたのか、読ませたくない人がいたのか。紙は何も言わない。ただ、触れられた回数だけ傷んでいる。

 縁側の外で、商店街の呼び込みの声がした。

 「危険な伯爵のせいで、今日のコロッケは三割増しで危険です!」

 雄史の声だった。

 続いて、乾物屋の主人が「食べ物で遊ぶな」と怒鳴る。さらに子どもたちの笑い声が重なり、彬子の口元が一瞬だけゆるんだ。

 その笑みはすぐ消えたが、香織は見逃さなかった。

 「彬子さん」

 「はい」

 「今日、捨てるかどうかを決めるのはやめませんか」

 彬子は顔を上げた。

 「でも、持ち帰ったら、また迷います」

 「迷うために持ち帰るのではなく、ここで保留にします。湿気対策だけして、他の紙とは分けておきます。読むか、読まないか。捨てるか、残すか。それを今日決めなくてもいい形にします」

 「そんなことをして、ご迷惑では」

 「迷惑なら、最初に看板を出しています。『迷っている物、お断り』って」

 「少し嫌な相談所ですね」

 「はい。開店前につぶれます」

 彬子が、今度は声を出さずに笑った。

 香織は査定票を一枚取り出した。いつもなら、品名、状態、査定額、処分費と書く欄がある。けれど、この場所でその欄は少し窮屈だった。

 品名欄に、鈍い古い日記、と書く。

 状態欄に、湿気、破れ、綴じ直し跡あり、と書く。

 金額欄で手が止まった。

 香織は一度ペンを置き、別の紙片を貼った。そこに、ゆっくり二文字を書く。

 保留。

 査定票に値段以外の言葉を書いたのは、初めてだった。

 理香が見たら、書類としては未完成だと言うだろう。萌なら、保管期限を書き足してくださいと付箋を貼るだろう。鳩子なら、保留にも布のカバーが必要ね、と言うかもしれない。

 でも、今の香織には、その二文字がいちばん正確に思えた。

 咲璃は日記を薄紙で包み、乾いた箱へ入れた。箱の蓋は完全には閉めず、空気がこもらないように少しずらす。

 彬子はその様子を、子どもが給食の配膳を見守るような真剣さで見ていた。

 「捨ててしまえば、楽になると思ったんです」

 ぽつりと、彬子が言った。

 「でも、捨てる前から、もう苦しかった」

 香織は答えを急がなかった。

 縁側に春の光が差している。灰色の日記は箱の中で黙っている。黙ったまま、処分相当という言葉の外側へ、少しだけ移動した。

 「ここに置いておきます」

 香織は言った。

 「捨てるためではなく、決め直すために」

 彬子は長い時間をかけて、うなずいた。

 その指はもう、日記の表紙ではなく、自分の膝の上でそっと重なっていた。



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― 新着の感想 ―
私は浅学非才なので正確に表せているとは言い難いですが、プロの書き手のようです。情景描写がすこぶる丁寧に感じます。後、この世界は中国と日本と今と昔が入り混じった不思議な町の様な?
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