第3話 鈍い古い日記
灰色の日記は、翌週の土曜日にも同じ場所にあった。
陽だまり縁側堂の奥の棚で、ほかの手紙や帳面よりほんの少しだけ手前に出ている。誰かが取り出しかけて、やめたような位置だった。
香織は朝から、机の上に白い布を広げ、綿の手袋とマスクと小さな刷毛を並べた。元古道具査定士としての道具は、迷わず手が動く。そこが少し腹立たしい。
「捨てるための準備に見えますね」
縁側から声がした。
振り返ると、細身の女性が立っていた。薄い水色のカーディガンに、布張りの鞄。髪は低い位置でまとめられ、靴を脱ぐ動作まで静かだった。玄関の音を立てない人、という印象が先に来る。
「咲璃さん、でしたっけ。図書館の」
「はい。図書館補助員です。製本修理を少し習っています」
咲璃はそう言って、鞄から小さな道具入れを出した。金属のへら、細い筆、紙片を押さえる重し。香織の査定道具より、ずっとやさしそうに見えた。
「今日は、見守りです」
「見守り」
「古い紙は、急がれると破れます。人も、たぶん似ています」
「名言っぽく始めるの、ここでは流行ってるんですか」
「鳩子さんの影響かもしれません」
咲璃がまじめな顔で答えるので、香織は少しだけ笑った。
その時、玄関の戸が控えめに開いた。
入ってきたのは、彬子だった。元小学校教師だと、商店街の誰かが教えてくれた。白髪を上品にまとめ、薄紫のストールを首に巻いている。手には、風呂敷包みがあった。
「すみません。開いていると聞いて」
「大丈夫です。どうぞ」
香織は縁側に座布団を出した。状態は悪いが、埃だけは払ってある。彬子は礼を言って腰を下ろし、風呂敷包みを膝の上に置いた。
結び目をほどく指が、少し震えていた。
中から出てきたのは、あの灰色の日記だった。
香織は思わず棚を見た。そこにあったはずの日記がない。どうやら昨日のうちに、誰かが取り出していたらしい。
「これを、処分していただきたくて」
彬子の声は穏やかだった。穏やかすぎて、よく乾いた紙のようだった。
「ご本人の日記ですか」
「わたしのものではありません。でも、わたしが持っていてはいけない気がして」
持っていてはいけない。
香織はその言い方を手帳に書き留めた。捨てたい、ではない。要らない、でもない。
「中を確認してもよろしいですか」
彬子はうなずいた。けれど、日記の表紙に置いた手は離れなかった。
香織は急がず待った。待つのは得意ではない。値段を出す仕事は、迷いを短くする仕事だったからだ。けれど、縁側堂では迷いが品物の一部になる。
しばらくして、彬子は息を吸い、ゆっくり手を離した。
日記は近くで見ると、かなり傷んでいた。布張りの表紙には湿気の染みがあり、角は丸く潰れている。小口には薄い斑点。紙をめくる前から、カビの気配がした。
香織の頭の中に、いつもの言葉が並ぶ。
保存環境不良。紙質劣化。再利用困難。処分相当。
言葉は整っている。整っているから、冷たい。
「状態だけを見るなら、長期保管には向きません」
香織が言うと、彬子は小さくうなずいた。
「そうでしょうね」
「湿気を吸っています。ほかの紙へ移る可能性もあります。どうしても残すなら、乾燥と隔離が必要です」
「では、捨てたほうが」
彬子が言いかけた瞬間、指先がまた表紙へ戻った。
無意識なのだろう。本人は気づいていない顔をしている。けれど、指は表紙の端を押さえ、日記がどこにも行かないようにしていた。
香織は口を閉じた。
昔の自分なら、ここで言っただろう。ご決断されるなら、こちらで処分します。湿気ている物は早いほうがいいです。読まないと決めたなら、読まないままのほうが楽です。
その言葉で、何人もの人を助けたつもりでいた。
祖母の日記も、そうやって捨てた。
「咲璃さん、見てもらえますか」
香織が声をかけると、咲璃は小さくうなずき、手袋をはめた。日記を正面から奪うのではなく、横に座って、彬子の手が自然に離れるのを待つ。
表紙が少し開いた。
中の紙は黄ばみ、ところどころ波打っている。墨ともインクともつかない文字が並んでいたが、咲璃は本文ではなく背の部分を見ていた。
「……一度、ほどかれています」
「ほどかれた?」
「綴じ糸が途中で変わっています。元の穴と、あとから通した穴が少しずれています」
咲璃はへらの先で、背の内側を指した。
「破れを直した、というより、いったん開いて戻した感じです。糸の張り方が場所によって違います」
彬子の肩が、ほんのわずかに固くなった。
「春井さんが、触ったのでしょうか」
「可能性はあります。でも、今ここで中身を決めつけるのは危ないです」
咲璃の声は静かだった。静かなのに、部屋の空気が止まる。
「危ない日記なんですか」
香織が聞くと、咲璃は首を横に振った。
「日記が危ないのではなく、読む側の急ぎ方が危ないのだと思います」
その言葉で、香織は視線を落とした。
日記の端に、薄く折れたページがあった。誰かが何度もそこを開いた跡。読みたい人がいたのか、読ませたくない人がいたのか。紙は何も言わない。ただ、触れられた回数だけ傷んでいる。
縁側の外で、商店街の呼び込みの声がした。
「危険な伯爵のせいで、今日のコロッケは三割増しで危険です!」
雄史の声だった。
続いて、乾物屋の主人が「食べ物で遊ぶな」と怒鳴る。さらに子どもたちの笑い声が重なり、彬子の口元が一瞬だけゆるんだ。
その笑みはすぐ消えたが、香織は見逃さなかった。
「彬子さん」
「はい」
「今日、捨てるかどうかを決めるのはやめませんか」
彬子は顔を上げた。
「でも、持ち帰ったら、また迷います」
「迷うために持ち帰るのではなく、ここで保留にします。湿気対策だけして、他の紙とは分けておきます。読むか、読まないか。捨てるか、残すか。それを今日決めなくてもいい形にします」
「そんなことをして、ご迷惑では」
「迷惑なら、最初に看板を出しています。『迷っている物、お断り』って」
「少し嫌な相談所ですね」
「はい。開店前につぶれます」
彬子が、今度は声を出さずに笑った。
香織は査定票を一枚取り出した。いつもなら、品名、状態、査定額、処分費と書く欄がある。けれど、この場所でその欄は少し窮屈だった。
品名欄に、鈍い古い日記、と書く。
状態欄に、湿気、破れ、綴じ直し跡あり、と書く。
金額欄で手が止まった。
香織は一度ペンを置き、別の紙片を貼った。そこに、ゆっくり二文字を書く。
保留。
査定票に値段以外の言葉を書いたのは、初めてだった。
理香が見たら、書類としては未完成だと言うだろう。萌なら、保管期限を書き足してくださいと付箋を貼るだろう。鳩子なら、保留にも布のカバーが必要ね、と言うかもしれない。
でも、今の香織には、その二文字がいちばん正確に思えた。
咲璃は日記を薄紙で包み、乾いた箱へ入れた。箱の蓋は完全には閉めず、空気がこもらないように少しずらす。
彬子はその様子を、子どもが給食の配膳を見守るような真剣さで見ていた。
「捨ててしまえば、楽になると思ったんです」
ぽつりと、彬子が言った。
「でも、捨てる前から、もう苦しかった」
香織は答えを急がなかった。
縁側に春の光が差している。灰色の日記は箱の中で黙っている。黙ったまま、処分相当という言葉の外側へ、少しだけ移動した。
「ここに置いておきます」
香織は言った。
「捨てるためではなく、決め直すために」
彬子は長い時間をかけて、うなずいた。
その指はもう、日記の表紙ではなく、自分の膝の上でそっと重なっていた。




