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陽だまり縁側堂の、思い出の捨て方 ――嘘の実話祭りと危険な伯爵――  作者: 乾為天女


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第2話 危険な伯爵の噂

 翌朝、香織は「まずは、聞きます」と書いた付箋を、手帳の表紙に貼って商店街を歩いた。

 自分で書いたくせに、なかなか恥ずかしい。聞き込みというより、反省文を胸に掲げているような気分になる。

 蓬莱町商店街は、朝からよくしゃべる場所だった。乾物屋の戸ががらがら鳴り、パン屋の換気扇から甘い匂いが流れ、八百屋の店先では大根が一本だけ妙に堂々と寝そべっている。

 香織はその大根に少し親近感を覚えた。自分も、見知らぬ場所に一本だけ置かれたようなものだ。

 「春井伯仁さんについて、少し伺いたいんですが」

 最初に声をかけた乾物屋の主人は、煮干しの袋を棚に戻しながら、ぴたりと手を止めた。

 「春井さんねえ」

 「はい。陽だまり縁側堂を任されたので、どんな方だったのか知っておきたくて」

 「いい人だったよ。変な人だったけど」

 「いい人と変な人は、両立するんですね」

 「この商店街じゃ、むしろ両立してない人のほうが少ない」

 主人は真顔で言った。香織は手帳に、いい人。変な人。両立可、と書いた。読み返すと何もわからない。

 「危険な伯爵って呼ばれてたのは、なぜですか」

 その言葉を出した瞬間、主人は煮干しの袋を二つ落とした。

 「……それ、誰から聞いた」

 「市役所の理香さんから、少し」

 「市役所は余計なことを知ってるなあ」

 主人は苦笑し、落とした袋を拾った。

 「春井さんは、古い手紙や日記を預かってた。そりゃもう、町じゅうの秘密みたいなもんだ。で、たまに紙を切ってたんだよ。小さいナイフで、すっと」

 「日記を?」

 「見た人がいたんだ。夜に縁側堂の灯りがついてて、春井さんが黒い上着で、日記を切ってたって。それで危険な伯爵」

 「黒い上着だけで伯爵になるんですか」

 「この町はあだ名の審査が甘い」

 香織はまた手帳に書いた。あだ名の審査が甘い。

 思い出の捨て方相談所より、よほど危険な言葉だった。

 次に寄った古着リメイクの小さな店では、入口から布があふれていた。花柄、縞模様、どこかの学校の古いスカートらしきもの。店の奥から、糸くずを髪にくっつけた女性が顔を出した。

 「あら、縁側堂の人?」

 「香織です。春井さんのことで――」

 「伯爵のことなら、甘いお茶の人よ」

 あっさり言われて、香織は肩透かしを食らった。

 「甘いお茶?」

 「そう。お砂糖を入れすぎるの。怖い顔で『飲みなさい』って出してくるから、子どもの頃は薬かと思ったわ。飲んだらただ甘い。甘すぎて、怖さが一周して腹が立つくらい」

 「それは、怖いというより迷惑では」

 「迷惑も積み重なると伝説になるのよ」

 女性は鳩子と名乗った。古い布をほどき、別の形に縫い直す仕事をしているらしい。話しながらも手は止まらず、香織の目の前で、穴の空いた袖が小さな巾着の口になっていく。

 「春井さんが日記を切っていたというのは」

 「見たことはあるわ」

 鳩子の針が、すっと布を抜けた。

 「でもね、切ったあと、捨ててはいなかった。封筒に入れて、元の持ち主の名前を書いてた。理由は聞かなかったけど」

 「聞かなかったんですか」

 「聞かれたくない顔だったもの。人には、聞いていい沈黙と、縫い目みたいに残しておく沈黙があるのよ」

 鳩子は笑い、糸を歯で切ろうとして、香織に見られていることに気づき、はさみを使った。

 「まあ、今のは格好つけた言い方。実際は、甘いお茶のおかわりが怖くて逃げたの」

 香織が手帳を閉じようとした時、外で子どもの悲鳴が上がった。

 「出たあ!」

 「ば、ばくしゃく!」

 「伯爵だ。発音を捨てるな、少年たち!」

 通りに出ると、黒いマントをなびかせた男が、杖を片手に立っていた。襟元には赤いリボン、靴は妙に磨かれている。顔立ちは悪くない。悪くないのだが、昼前の商店街でその格好はだいぶ悪い。

 子どもたちは、彼を遠巻きに見ている。ひとりが勇気を出して近づき、男が片眉を上げた瞬間、全員が散った。

 「成功だな」

 「何がですか」

 香織が言うと、男は大げさに振り返った。

 「おや、新たな縁側の管理人殿。私は雄史。売れない舞台俳優であり、暫定・危険な伯爵である」

 「暫定でよかったです。本物なら市役所に相談するところでした」

 「市役所は伯爵を管轄しているのか」

 「たぶん、していません」

 雄史はうなずき、杖の先で石畳をとんと叩いた。

 「春井伯仁という男は、噂だけが舞台に残った役者みたいな人だった。誰も筋書きを最後まで知らないから、勝手に怖い場面だけ覚えている」

 「あなたは春井さんを知っていたんですか」

 「子どもの頃にな。私は彼の前で三回、伯爵役を演じた。一回目は笑われ、二回目はお茶を出され、三回目は『嘘をつくなら、最後まで面倒を見なさい』と言われた」

 「重い助言ですね」

 「役者には最高の褒め言葉だ」

 雄史は胸を張った。マントの裏地が、よく見ると古い遮光カーテンだった。裾に洗濯表示が残っている。

 香織がそこを見ていると、雄史は急に声を落とした。

 「伯爵の噂を調べるなら、日記に気をつけるといい」

 「棚に、灰色の日記がありました」

 「それだ。誰のものかは知らん。ただ、春井さんはあれを人前に出さなかった。触れられるのを、嫌がっていた」

 「危ないから?」

 「たぶん、違う」

 雄史は子どもたちの去ったほうを見た。ひとりだけ電柱の陰からまだ覗いている。雄史が静かに一礼すると、その子はきょとんとしてから、小さく頭を下げた。

 「怖いものは、見せ方ひとつで少し笑える。けど、笑えるようにしてはいけない怖さもある。春井さんは、その区別だけは間違えなかった気がする」

 その日の夕方、香織は陽だまり縁側堂に戻った。

 玄関の木札は昨日のまま立っている。付箋は端が少し浮いていた。強めるどころか、はがれかけている。

 奥の棚へ行くと、灰色の日記は相変わらず少し手前に出ていた。布張りの表紙は鈍い色で、春の光を吸っても明るくならない。背の角が擦り切れ、誰かの親指が何度も触れた跡だけが濃く残っていた。

 香織は手を伸ばした。

 処分か、保管か。状態を見るなら、開かなければ始まらない。

 けれど、指先が表紙に触れる寸前で止まった。

 本人のものかもしれない。

 本人のものではないかもしれない。

 誰かが読んでほしかったものかもしれないし、誰にも読まれたくなかったものかもしれない。

 昨日までの香織なら、手袋をはめて開いていた。紙の傷みを確認し、湿気を見て、価値を決めた。

 今は、灰色の日記の前で、ただ立っている。

 商店街のどこかから、雄史の大げさな声が聞こえた。

 「少年たちよ、逃げるなら右だ! 左は八百屋の大根が強い!」

 続いて、子どもたちの笑い声が弾ける。

 危険な伯爵。

 その噂は、思ったより軽く、思ったより重かった。

 香織は棚から手を引き、日記の隣に小さな紙を置いた。

 開封保留。

 持ち主確認。

 書き終えてから、ふと笑いそうになった。査定票より、ずいぶん頼りない。

 それでも、灰色の日記は少しだけ呼吸をしやすくなったように見えた。



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