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陽だまり縁側堂の、思い出の捨て方 ――嘘の実話祭りと危険な伯爵――  作者: 乾為天女


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第1話 春を連れてきた古民家

 四月の風は、まだ冬の名残を袖口に隠していた。

 香織は蓬莱町商店街の端に立ち、手のひらの中の鍵を見下ろした。古びた真鍮の鍵だった。握ると、冷たい。けれど、軸の先だけが妙に丸く減っていて、長いあいだ誰かの指に使われてきたことがわかる。

 目の前には、築六十七年の古民家があった。

 看板には、かすれた墨で「陽だまり縁側堂」と書かれている。字は穏やかなのに、建物は穏やかではなかった。瓦は少し波打ち、雨樋は片方だけ肩を落としている。玄関脇の植木鉢からは、名前のわからない草が好き勝手に伸びていた。

 「……査定なら、減点から入る物件ね」

 つぶやいてから、香織は自分の声に顔をしかめた。

 もう、査定士ではない。

 少なくとも、今日からは違う。そう決めて来たはずなのに、癖は古い埃のように落ちにくい。

 祖母の知人だったという春井伯仁が亡くなり、遠縁でもない香織へこの家の管理話が回ってきた。理由はよくわからない。遺言めいた手紙には、ただ一行だけあった。

 ――縁側に座れる人へ。

 座れるかどうかで家を託されても困る。香織は最初、そう思った。けれど、祖母の名前がそこに添えられていたせいで、断る言葉を選べなくなった。

 鍵穴に鍵を差し込む。途中で引っかかった。

 「はい、開かない。初日から不採用」

 独り言は、思ったより大きく出た。

 向かいの乾物屋の軒先で、年配の男性がこちらを見た。香織は何もなかった顔で鍵を回す。がり、と嫌な音のあと、錠は軽く外れた。

 玄関を開けた瞬間、乾いた木と古い紙の匂いが押し寄せた。

 中は薄暗い。靴を脱ぐ場所には砂ぼこりが残り、廊下の奥から春の光が細く伸びていた。その光の先に縁側がある。

 香織は鞄を胸に抱え直し、そっと上がった。板の間がきしむ。責められているような音だった。

 縁側には、くたびれた座布団が三枚重なっていた。緑色の布は日に焼け、端がほつれている。捨てるなら可燃ごみ。状態は悪い。再販価値はない。

 頭の中で勝手に並んだ言葉を、香織は舌で押し戻した。

 「……今日は見に来ただけ」

 そう言って座布団を一枚めくると、下から小さな木札が出てきた。

 表には、細い筆跡でこう書かれていた。

 思い出の捨て方。

 香織は木札を持ったまま、しばらく動けなかった。

 捨て方なら、知っている。壊れた椅子も、欠けた皿も、誰かが大切だと言い張るだけの古い箱も、値段をつけ、状態を告げ、処分の理由を並べればいい。必要なら、持ち主が目をそらしている間に運び出すこともした。

 そのほうが親切だと思っていた。

 昔は。

 奥の部屋へ進むと、壁一面の棚が現れた。棚には日記帳や手紙の束、古い封筒が並んでいる。背表紙の色は茶、紺、灰色。どれも人の声を吸い込んで黙っているようだった。

 その中で、一冊だけ鈍い灰色の日記が少し手前に出ていた。

 触れようとした時、玄関のほうで戸が鳴った。

 「失礼します。春井邸の管理引き継ぎ、今日でしたよね」

 返事を待つ前に、女性が上がってきた。きっちりしたジャケットに、低いヒール。髪を後ろでまとめ、片手に分厚いファイルを抱えている。市役所の窓口にいそうな、笑顔より先に必要書類を出しそうな人だった。

 「日向坂市役所分室、地域相談担当の理香です。あなたが香織さんですね」

 「はい。まだ、何も壊してません」

 「壊す予定があるんですか」

 「ありません。たぶん」

 理香は一秒だけ香織を見たあと、持っていたファイルを開いた。香織は、こういう人を少し苦手だと思った。数字を出されそうだからだ。

 「この建物は、来年三月末までに利用実績と安全改修案を出せなければ、取り壊しの対象になります。老朽化、耐震、保険、近隣への安全面。どれも未解決です」

 「一年、ですか」

 「正確には、今日から十一か月と少しです。市の書類上は、放置空き家に近い扱いです」

 「空き家ではありません」

 反射的に言ってから、香織は口を閉じた。

 誰も住んでいない。鍵も冷えていた。座布団には埃が積もっていた。空き家と言われても仕方ない。

 それでも、奥の棚に並ぶ日記を見たあとでは、空っぽという言葉だけでは足りなかった。

 理香は棚を一瞥し、木札に目を留めた。

 「思い出の捨て方、ですか。相談所の名前にするには、少し危ないですね」

 「危ない?」

 「捨てたい人だけが来るとは限りません。捨てさせられたくない人も来ます」

 香織は木札を裏返した。裏には何も書かれていない。逃げ道のない、白い木肌だけがある。

 「古道具なら、要るか要らないかで分けられます」

 「人の事情は?」

 「事情も聞きます。聞いたうえで、使えない物は捨てれば――」

 その時、縁側から風が入った。

 座布団の端が浮き、埃が光の中で舞った。

 香織は、祖母の家の押し入れを思い出した。

 古い日記があった。祖母が亡くなったあと、忙しいから、読んでも仕方ないから、湿気ているから、と理由を並べて処分した。中身を見なかった。見ないことが礼儀だと思った。そう思わなければ、手が動かなかった。

 けれど時々、思う。

 本当に、読まれたくない日記だったのか。

 それとも、誰かに一行だけでも見つけてほしかった日記だったのか。

 「香織さん?」

 理香の声で、香織は我に返った。

 「取り壊しを避けたいなら、ここを何に使うのか決めてください。思い出の捨て方でも、古道具相談でも、地域の休憩場所でもいい。ただし、感傷だけでは建物は残せません」

 「感傷だけでは残せない」

 「はい」

 「でも、数字だけでも、人は座りに来ませんよね」

 理香が初めて、少しだけ眉を動かした。

 言ってしまった。香織は内心で肩をすくめた。初対面で市役所の担当者に喧嘩を売る予定はなかった。予定はなかったが、鍵穴も建物も予定どおりには動かなかったので、今日という日はもうそういうものなのかもしれない。

 理香はファイルを閉じた。

 「では、両方見てください」

 「両方」

 「数字と、人です。片方だけなら、誰でもできます」

 厳しい声だった。けれど、突き放す声ではなかった。

 香織は木札を持って縁側へ戻った。座布団の埃を手で払い、そっと一枚置き直す。まだ使える、とは言えない。けれど、今日すぐ捨てるほどでもない。

 奥の棚では、灰色の日記が沈黙している。

 玄関の外では、商店街の誰かが笑い、遠くで自転車のベルが鳴った。春は頼んでもいないのに来る。来て、古い家の悪いところも、忘れたふりをしたものも、明るく照らしてしまう。

 香織は木札を玄関の内側に立てかけた。

 思い出の捨て方。

 その下に、持っていた付箋を一枚貼った。

 まずは、聞きます。

 字は少し曲がった。理香がすぐに言った。

 「掲示物としては弱いです」

 「初日なので、やわらかめにしました」

 「やわらかすぎます」

 「じゃあ、次回までに強めます」

 理香は笑わなかった。けれど、ファイルの角で口元を隠した。

 縁側に差す光が、座布団のほつれを金色に染めている。

 使えない物は捨てればいい。

 その言葉は、まだ香織の中にある。簡単には消えない。

 それでもこの日、陽だまり縁側堂で最初に捨てられなかったものは、埃をかぶった座布団でも、鈍い灰色の日記でもなかった。

 香織自身の、言い切る癖だった。



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