第10話 鋭い助言と甘いパン
夏の夕方、陽だまり縁側堂の縁側には、相談票が五枚、麦茶のコップが四つ、そして香織の我慢が一つ、順番を待って並んでいた。
相談所を閉めたあとだというのに、理香はまだ帰らなかった。畳の上に書類を広げ、赤い付箋を容赦なく貼っていく。貼られるたび、紙ではなく香織の額に注意書きが増えていくような気がした。
「まず、保管棚の鍵管理が曖昧です。誰がいつ開けたか記録がない日があります」
「私が見ています」
「『見ています』は記録ではありません」
理香は即答した。
「次に、相談内容の匿名化。冊子にする可能性が出た以上、本人確認、掲載可否、撤回方法を分けておく必要があります。それから来客数。初回より増えていますが、滞在時間が長すぎます。予約枠を作らないと、次の人が待ち続けることになります」
香織は唇を結んだ。
言っていることは正しい。正しいから、余計に腹が立つ。
「物を持ってきた人に、はい十五分です、次の方どうぞ、なんて言えません」
「では、三時間待たされた人には何と言うんですか」
「それは……」
「聞きたい気持ちだけで回すなら、ここは相談所ではなく、香織さんの根性披露の場です」
縁側の外で、風鈴が軽く鳴った。
軽い音なのに、香織の中では何かが派手に割れた。
「根性披露って、何ですか」
「そのままです」
「私は、人を点数で見たくないんです。品物みたいに、状態が悪いから処分、役に立たないから終了、そんなふうに切りたくない」
「私は、切れと言っていません。続けたいなら、続けられる形にしろと言っています」
「形、形って。理香さんはいつも数字と紙ばかりですね」
言った瞬間、萌が息をのむ音がした。心暖は片づけていた湯飲みを両手で持ったまま固まっている。
理香は表情を変えなかった。ただ、赤い付箋を一枚、書類の角にまっすぐ貼った。
「数字と紙がなければ、市は動きません。保険も出ません。修繕費も申請できません。事故が起きた時に、ここに来た人を守れません」
「事故の話ばかりしないでください」
「事故が起きてからでは遅いからです」
「私は、人の話を聞いているんです」
「泣かせるなら、最後まで聞きなさい。途中で建物ごと閉められたら、その涙はどこへ行くんですか」
理香の声は荒くなかった。けれど、畳の目にまっすぐ刺さるような強さがあった。
香織は返す言葉を探した。探して、見つからないことが悔しくて、立ち上がった。
「今日は終わりにします」
「はい。戸締まりだけは確認してください」
「します」
「保管棚の鍵も」
「します!」
声が大きすぎた。心暖の肩が跳ねたのが見え、香織はさらに嫌な気分になった。
その夜、陽だまり縁側堂の灯りは、閉店後もしばらく消えなかった。
香織は一度帰りかけたものの、保管棚の鍵を確認したか気になり、商店街の角で引き返した。自分でも、理香の言葉が残っているのだとわかってしまい、足音まで不機嫌になった。
玄関の引き戸は閉まっていたが、奥の打ち合わせ室に細い明かりがあった。
泥棒ならもっと堂々と暗くするだろう。香織はそっと上がり、廊下から中をのぞいた。
理香がいた。
ジャケットを脱ぎ、髪を少し乱し、畳の上で書類に赤字を入れている。昼間よりずっと疲れた背中だった。机には市の申請書、古民家改修の助成制度の要項、保険会社への確認メモ。付箋には、「香織さん確認」「萌さん管理可」「咲璃さんに保管方法相談」と、小さな字で書かれていた。
閉めるための書類ではなかった。
残すための書類だった。
香織は声をかけられなかった。
その時、玄関のほうから小さな物音がした。
「こんばんはー。夜食の押し売りでーす」
夏未だった。パン屋の店主らしく、紙袋を両腕に抱えている。香織に気づくと、口元に指を立てた。
「理香さん、最近ずっとああなの。市役所が閉まってから、ここに寄って直してる」
「……知ってたんですか」
「商店街のパン屋は、夜に働く人の味方だから」
夏未は紙袋を一つ、香織に渡した。まだ温かい。中から、甘いバターと小麦の匂いが立ち上がった。
「売れ残り?」
「失礼な。明日の朝には固くなるから、今がいちばん人を丸くするパン」
「それを売れ残りと言うんじゃ」
「丸くするパン」
夏未は言い切り、打ち合わせ室の障子を軽く叩いた。
「理香さん、パン置いていきます。食べなかったら、明日、香織さんが怒ります」
「なぜ私が」
香織が小声で抗議すると、夏未は笑って逃げるように帰っていった。
理香は障子を開け、香織を見ると、一瞬だけ気まずそうにした。
「鍵の確認ですか」
「はい。……それと、パンの確認です」
「変な確認項目です」
二人は畳に向かい合って座った。紙袋から出したのは、丸いミルクパンだった。表面に薄く砂糖がかかり、割ると湯気が上がる。
理香は小さく一口かじった。
「甘いですね」
「甘いパンですから」
「疲れている時には、少し腹が立つくらい甘いほうが効きます」
香織はパンを見つめた。
「昼間、言いすぎました」
「私も、言い方は強かったと思います」
「思います、なんですね」
「強かったです」
理香が訂正したので、香織は少しだけ笑ってしまった。
理香は書類を一枚、香織の前に出した。
「予約枠を作っても、話を短く切る必要はありません。最初に『今日は決めなくていい』と伝え、次回の時間を用意する。保管棚は鍵の記録をつける。相談票は、処分、保管、修理、手紙、未定に分ける。そうすれば、感情を急がせずに管理できます」
「……もう、そこまで考えていたんですか」
「考えないと、残せません」
理香は淡々と言った。
「私は、陽だまり縁側堂が好きか嫌いかで動ける立場ではありません。でも、事故で終わるのは嫌です。感傷の倉庫と呼ばれても、根性披露の場になっても、続けたい人がいるなら、続けるための形を作るしかない」
香織は昼間の自分の言葉を思い出した。
数字と紙ばかり。
その紙には、誰かがここへもう一度来るための道が書かれていたのに。
「明日の朝、温めたパンを理香さんの机に置いてもいいですか」
「市役所にパンを持ち込む場合、個包装が望ましいです」
「そういうところです」
「必要なところです」
二人の間に、少しだけやわらかい沈黙が落ちた。
香織はメモ用紙を一枚取り、短く書いた。
――昨日は言いすぎました。続ける形を、一緒に作らせてください。
翌朝、その紙は個包装のミルクパンと一緒に、市役所分室の理香の机に置かれた。
昼過ぎ、陽だまり縁側堂の看板の下に、新しい札が増えた。
相談は予約優先。
今日決めなくても大丈夫です。
心暖はそれを読み上げ、「優先」を「優勝」と間違えた。萌がすぐに直し、雅道が「相談優勝者には何が贈られるのか」と真顔で聞いた。
香織は呆れながら、笑ってしまった。
甘いパンの匂いはもう残っていない。けれど、紙袋のしわだけが、打ち合わせ室の隅で小さく光を受けていた。




