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陽だまり縁側堂の、思い出の捨て方 ――嘘の実話祭りと危険な伯爵――  作者: 乾為天女


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10/26

第10話 鋭い助言と甘いパン

 夏の夕方、陽だまり縁側堂の縁側には、相談票が五枚、麦茶のコップが四つ、そして香織の我慢が一つ、順番を待って並んでいた。

 相談所を閉めたあとだというのに、理香はまだ帰らなかった。畳の上に書類を広げ、赤い付箋を容赦なく貼っていく。貼られるたび、紙ではなく香織の額に注意書きが増えていくような気がした。

 「まず、保管棚の鍵管理が曖昧です。誰がいつ開けたか記録がない日があります」

 「私が見ています」

 「『見ています』は記録ではありません」

 理香は即答した。

 「次に、相談内容の匿名化。冊子にする可能性が出た以上、本人確認、掲載可否、撤回方法を分けておく必要があります。それから来客数。初回より増えていますが、滞在時間が長すぎます。予約枠を作らないと、次の人が待ち続けることになります」

 香織は唇を結んだ。

 言っていることは正しい。正しいから、余計に腹が立つ。

 「物を持ってきた人に、はい十五分です、次の方どうぞ、なんて言えません」

 「では、三時間待たされた人には何と言うんですか」

 「それは……」

 「聞きたい気持ちだけで回すなら、ここは相談所ではなく、香織さんの根性披露の場です」

 縁側の外で、風鈴が軽く鳴った。

 軽い音なのに、香織の中では何かが派手に割れた。

 「根性披露って、何ですか」

 「そのままです」

 「私は、人を点数で見たくないんです。品物みたいに、状態が悪いから処分、役に立たないから終了、そんなふうに切りたくない」

 「私は、切れと言っていません。続けたいなら、続けられる形にしろと言っています」

 「形、形って。理香さんはいつも数字と紙ばかりですね」

 言った瞬間、萌が息をのむ音がした。心暖は片づけていた湯飲みを両手で持ったまま固まっている。

 理香は表情を変えなかった。ただ、赤い付箋を一枚、書類の角にまっすぐ貼った。

 「数字と紙がなければ、市は動きません。保険も出ません。修繕費も申請できません。事故が起きた時に、ここに来た人を守れません」

 「事故の話ばかりしないでください」

 「事故が起きてからでは遅いからです」

 「私は、人の話を聞いているんです」

 「泣かせるなら、最後まで聞きなさい。途中で建物ごと閉められたら、その涙はどこへ行くんですか」

 理香の声は荒くなかった。けれど、畳の目にまっすぐ刺さるような強さがあった。

 香織は返す言葉を探した。探して、見つからないことが悔しくて、立ち上がった。

 「今日は終わりにします」

 「はい。戸締まりだけは確認してください」

 「します」

 「保管棚の鍵も」

 「します!」

 声が大きすぎた。心暖の肩が跳ねたのが見え、香織はさらに嫌な気分になった。

 その夜、陽だまり縁側堂の灯りは、閉店後もしばらく消えなかった。

 香織は一度帰りかけたものの、保管棚の鍵を確認したか気になり、商店街の角で引き返した。自分でも、理香の言葉が残っているのだとわかってしまい、足音まで不機嫌になった。

 玄関の引き戸は閉まっていたが、奥の打ち合わせ室に細い明かりがあった。

 泥棒ならもっと堂々と暗くするだろう。香織はそっと上がり、廊下から中をのぞいた。

 理香がいた。

 ジャケットを脱ぎ、髪を少し乱し、畳の上で書類に赤字を入れている。昼間よりずっと疲れた背中だった。机には市の申請書、古民家改修の助成制度の要項、保険会社への確認メモ。付箋には、「香織さん確認」「萌さん管理可」「咲璃さんに保管方法相談」と、小さな字で書かれていた。

 閉めるための書類ではなかった。

 残すための書類だった。

 香織は声をかけられなかった。

 その時、玄関のほうから小さな物音がした。

 「こんばんはー。夜食の押し売りでーす」

 夏未だった。パン屋の店主らしく、紙袋を両腕に抱えている。香織に気づくと、口元に指を立てた。

 「理香さん、最近ずっとああなの。市役所が閉まってから、ここに寄って直してる」

 「……知ってたんですか」

 「商店街のパン屋は、夜に働く人の味方だから」

 夏未は紙袋を一つ、香織に渡した。まだ温かい。中から、甘いバターと小麦の匂いが立ち上がった。

 「売れ残り?」

 「失礼な。明日の朝には固くなるから、今がいちばん人を丸くするパン」

 「それを売れ残りと言うんじゃ」

 「丸くするパン」

 夏未は言い切り、打ち合わせ室の障子を軽く叩いた。

 「理香さん、パン置いていきます。食べなかったら、明日、香織さんが怒ります」

 「なぜ私が」

 香織が小声で抗議すると、夏未は笑って逃げるように帰っていった。

 理香は障子を開け、香織を見ると、一瞬だけ気まずそうにした。

 「鍵の確認ですか」

 「はい。……それと、パンの確認です」

 「変な確認項目です」

 二人は畳に向かい合って座った。紙袋から出したのは、丸いミルクパンだった。表面に薄く砂糖がかかり、割ると湯気が上がる。

 理香は小さく一口かじった。

 「甘いですね」

 「甘いパンですから」

 「疲れている時には、少し腹が立つくらい甘いほうが効きます」

 香織はパンを見つめた。

 「昼間、言いすぎました」

 「私も、言い方は強かったと思います」

 「思います、なんですね」

 「強かったです」

 理香が訂正したので、香織は少しだけ笑ってしまった。

 理香は書類を一枚、香織の前に出した。

 「予約枠を作っても、話を短く切る必要はありません。最初に『今日は決めなくていい』と伝え、次回の時間を用意する。保管棚は鍵の記録をつける。相談票は、処分、保管、修理、手紙、未定に分ける。そうすれば、感情を急がせずに管理できます」

 「……もう、そこまで考えていたんですか」

 「考えないと、残せません」

 理香は淡々と言った。

 「私は、陽だまり縁側堂が好きか嫌いかで動ける立場ではありません。でも、事故で終わるのは嫌です。感傷の倉庫と呼ばれても、根性披露の場になっても、続けたい人がいるなら、続けるための形を作るしかない」

 香織は昼間の自分の言葉を思い出した。

 数字と紙ばかり。

 その紙には、誰かがここへもう一度来るための道が書かれていたのに。

 「明日の朝、温めたパンを理香さんの机に置いてもいいですか」

 「市役所にパンを持ち込む場合、個包装が望ましいです」

 「そういうところです」

 「必要なところです」

 二人の間に、少しだけやわらかい沈黙が落ちた。

 香織はメモ用紙を一枚取り、短く書いた。

 ――昨日は言いすぎました。続ける形を、一緒に作らせてください。

 翌朝、その紙は個包装のミルクパンと一緒に、市役所分室の理香の机に置かれた。

 昼過ぎ、陽だまり縁側堂の看板の下に、新しい札が増えた。

 相談は予約優先。

 今日決めなくても大丈夫です。

 心暖はそれを読み上げ、「優先」を「優勝」と間違えた。萌がすぐに直し、雅道が「相談優勝者には何が贈られるのか」と真顔で聞いた。

 香織は呆れながら、笑ってしまった。

 甘いパンの匂いはもう残っていない。けれど、紙袋のしわだけが、打ち合わせ室の隅で小さく光を受けていた。



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― 新着の感想 ―
更新ありがとうございます。結局の所、本気で物事を成す時に人は衝突をするんですね。私には出来なかった事です。香織さん理香さん良いパートナーになるかも知れませんね。2人共歩く道は違えども目指す頂きは同じで…
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