第11話 そっと触れる手
咲璃の道具箱は、裁縫箱よりも静かだった。
小さな刷毛、竹べら、薄い和紙、糊を溶く皿。どれも派手さはないのに、縁側堂の打ち合わせ机に並ぶと、まるで小さな手術台のように見えた。
「これ、食べられる糊ですか」
心暖が真剣な顔で聞いた。
「食べないでください」
咲璃はいつも通りの声で答えた。怒ってはいない。けれど、食べたら一生後悔する、と言われたような重みがあった。
香織は棚から灰色の日記を下ろした。彬子が持ち込んだ、あの鈍い色の日記だ。湿気を吸った表紙は少し波打ち、角は丸くつぶれている。処分相当。最初に見た時、香織の頭には迷いなくその言葉が浮かんだ。
今は、同じ言葉が浮かんでも、すぐには口に出せない。
「今日は、破れた端をこれ以上広げない処置だけします」
咲璃は日記を両手で受け取り、机の上へ置いた。物を置くというより、眠っている人を寝かせるような手つきだった。
香織は思わず見入った。
「咲璃さんは、紙に遠慮するんですね」
「紙は、急に触ると怒ります」
「怒る?」
「破れます」
「それは怒ってますね」
心暖が感心したように頷いた。隣で萌が、糊皿の横に小さな紙を貼る。『食用ではありません』。心暖は傷ついた顔をした。
「そこまで疑われるほど、私、食いしん坊に見えますか」
「確認です」
「疑いじゃなくて確認なら、もっと傷つきます」
そのやり取りに、香織は少し笑った。けれど笑いは、日記の表紙を開いた瞬間に静かに消えた。
内側の一枚が、かすかに浮いている。
咲璃が竹べらで端をそっと持ち上げると、古い綴じ糸の跡が見えた。まっすぐではない。誰かが一度ほどき、迷いながら戻したように、穴の位置がわずかにずれている。
「やっぱり、触られています」
咲璃は小さく言った。
「切られたってことですか」
「切ったか、外したか。今はまだ決めません」
その言い方に、香織は胸の奥を指で押された気がした。
決めない。
査定の現場で、その言葉は嫌われた。早く見て、早く値をつけ、早く引き取る。迷う時間は人件費に変わり、保留品は棚を圧迫する。香織はそういう場所で、よく働いた。よく切った。
祖母の部屋を片づけた日のことが、急に鼻先まで戻ってきた。
透明な衣装ケース。紙袋。病院でもらった薬の説明書。使いかけのハンドクリーム。押し入れの奥から出てきた、紺色の布張りの日記帳。
仕事の電話が鳴っていた。葬儀の後の手続きも残っていた。疲れていた。誰かに「日記なんて読んでもつらいだけよ」と言われた。
香織は、その言葉に乗った。
読まずに捨てた。
古紙回収の日、紐でまとめた紙束を集積所に置いた時、朝の空気は冷たかった。日記帳の角が新聞紙の間から少しだけ見えていた。戻ろうと思えば戻れた。なのに、戻らなかった。
「香織さん?」
咲璃の声で、香織は現在に引き戻された。
手が震えていた。
灰色の日記を押さえていた指先が、紙の端を強くつかみすぎている。破れかけた部分が、ほんの少し鳴った。
「あ……ごめんなさい」
香織は慌てて手を離した。離した指が、今度は机の上で行き場を失う。
咲璃は責めなかった。急がなかった。ただ、糊を溶く皿を少し横へずらし、香織の指が紙に触れない場所を作った。
「乾くまで、少し待ちます」
「まだ塗ってませんよね」
「待ってもいいです」
咲璃は刷毛を持ったまま、日記ではなく香織を見た。
その目に、問い詰める色はなかった。話してもいいし、話さなくてもいい。縁側堂の看板に書いた言葉が、そのまま人の姿になったようだった。
香織は唇を結んだ。
祖母の日記を捨てたことは、誰にも話していない。話すほどの事件ではないと思っていた。よくある片づけ。よくある後悔。そういう名前をつけて、棚の奥へ押し込んでいた。
「私、人の物を切るの、簡単だったんです」
声は、自分で思ったより低かった。
「査定の仕事をしていた頃、壊れているとか、価値がないとか、保管状態が悪いとか、そういう理由をつけるのが得意でした。理由があれば、相手も諦めやすいから。私も、迷わなくて済むから」
咲璃は何も言わなかった。
心暖が何か言いかけて、萌に袖をそっと引かれた。打ち合わせ室に、古い柱時計の音だけが残る。
「でも、自分の祖母の日記は……理由をつける前に捨てました。読まない理由を探すのも面倒で。読んだら、たぶん、何かを知ってしまうから」
香織は笑おうとした。うまくいかなかった。
「仕事では、持ち主に『本当にいいですか』って聞いていたのに。祖母には聞かなかったんです。もう、聞けなかったのに」
咲璃は刷毛を皿へ置いた。それから、日記の横に薄い和紙を一枚のせた。
「切った後に、縫える物もあります」
「日記は戻りません」
「戻らない物はあります」
咲璃はそこで一度、言葉を止めた。
「でも、残っている紙に、できることもあります。買い物メモでも、葉書でも、包装紙の裏でも。人は、日記だけで生きていたわけではないので」
香織は息を吸った。
祖母の字を思い出そうとした。丸くて、少し右上がりで、急ぐと最後の線が跳ねる字。冷蔵庫に貼ってあった「卵、牛乳、湿布」のメモ。誕生日カードの端に書かれた「無理しないこと」。あれらを、香織は全部捨てただろうか。
全部ではない気がした。
どこかに、残っている気がした。
「探してみます」
香織は小さく言った。
「祖母の字。日記じゃなくても」
「はい」
咲璃は頷き、今度こそ刷毛を取った。破れた端に、薄い糊をほんの少しだけ含ませる。和紙を重ね、竹べらで空気を逃がす。その動きは、痛い場所に包帯を巻く手に似ていた。
香織は机の端に指を置いた。さっきまで震えていた手は、まだ完全には落ち着かない。けれど、咲璃の手の近くにあると、不思議と急がなくていいように思えた。
紙は、すぐには直らない。
糊が乾く時間がいる。
人の後悔も、きっと同じなのだと、香織は初めて思った。
心暖が、沈黙に耐えきれなくなったように小声で言った。
「乾くまで、お茶をいれます。糊じゃないやつを」
萌が吹き出し、咲璃の肩がほんの少し揺れた。
香織も笑った。涙は出なかった。ただ、胸の奥で固まっていたものが、薄い和紙のように水を含み、少しだけやわらかくなった。
夕方、修理途中の日記は乾燥用の板に挟まれ、棚の一番安定した段に置かれた。
香織はその前で手を合わせる代わりに、両手をそっと重ねた。
捨ててしまった物は戻らない。
けれど、これから触れる物を、同じ手つきで切らないことはできる。
縁側から入る風が、乾きかけの和紙の端をかすかに揺らした。




