第12話 作られた伯爵、本物の拍手
黒いマントは、陽だまり縁側堂の物干し竿で風に揺れていた。
朝から干されているのは、昨夜の雨に濡れたためではない。雄史が「伯爵に湿気は似合わない」と言い張り、雅道が「しわは照明を殺す」と言い、萌が「乾燥時間は二時間です」と付箋を貼った結果だった。
香織は縁側からそれを見上げ、ため息をついた。
「相談所の看板より目立ってます」
「それが狙いだよ、香織くん」
雄史は玄関先で、杖代わりの古い傘を回した。白いシャツにベスト、首元には赤紫の布。本人は堂々としているが、その布は鳩子が余り布で縫ったもので、よく見ると端に小さな猫柄が混じっている。
「今日の私は、危険な伯爵の一日相談役である」
「危険というより、洗濯物が取り込まれる前の人です」
「辛辣だね。いいね。伯爵は民の直言を歓迎する」
香織が返事をする前に、心暖が奥から飛び出してきた。手には司会用の紙を三枚握っている。朝から練習していたせいで、紙の端が丸まり、本人の眉も同じ角度に下がっていた。
「あの、えっと、本日の相談所は、危険な伯爵さまが、皆さまの、捨てたい、でも捨てられない、ええと、あれを……」
「物です」
萌がすかさず小声で助ける。
「物を、し、しょぶん……じゃなくて、選び直すお手伝いをします!」
最後だけ勢いがよすぎて、庭にいた雀が一斉に飛んだ。
雄史は胸に手を当て、深々と一礼した。
「実にいい。雀まで退場の合図を知っている」
「失敗を演出にしないでください」
香織はそう言いながらも、心暖の肩が少しだけ下がるのを見た。笑われた、と思ったのだろう。褒められたい気持ちが強い分、読み間違い一つで顔色をなくす。香織は声をかけようとしたが、その前に雄史が心暖の前に膝を折った。
「心暖嬢。舞台で一番怖いものは、台詞を間違えることではない」
「え、では、何ですか」
「誰も聞いていないことだ」
心暖は目を瞬いた。
「君が間違えた時、香織くんは眉を上げ、萌くんは口を挟み、雀は飛んだ。つまり全員が聞いていた。大成功だ」
「雀も、ですか」
「もちろん。あれは辛口の観客だ」
心暖は半信半疑の顔で笑った。萌が胸元の付箋を一枚はがし、「司会・本番」と書き直して渡す。心暖はそれを名札の横に貼り、今度は紙を胸に押し当てた。
昼過ぎ、最初の依頼人が現れた。小柄な女性で、年齢は香織より少し上に見える。両手で抱えているのは、古い置き時計だった。振り子のガラスが曇り、針は二時十七分で止まっている。
「これ、もう動かないんです。捨てようと思って」
香織はいつものように時計の状態を見た。木枠には細かな傷。裏板は浮き、ねじの一部は錆びている。古道具査定士だった頃の癖で、修理費、保管場所、処分費が頭の中に並びかける。
けれど、彼女の指が時計の上を撫でていた。
「止まった時間が、ちょうど父の亡くなった時間なんです」
縁側の空気が、そこで少し重くなった。心暖は司会の紙を握ったまま固まり、萌は受付票のペンを止めた。
雄史が、すっと傘の杖を畳の上に置いた。
「それでは、この時計は本日、伯爵家の客人として扱う」
「客人、ですか」
「そう。捨てるかどうかを決める前に、まず座っていただく。時計も、あなたも」
女性は戸惑いながら笑った。その笑いは、緊張の糸が少しゆるんだ時のものだった。雄史は大げさな身振りで座布団を示したが、座布団の端がめくれていて、自分で足を引っかけそうになる。香織が無言で押さえると、雄史は何事もなかったように咳払いした。
「伯爵は床に試されることが多い」
「畳に謝ってください」
女性が今度ははっきり笑った。
話を聞くと、時計は父親が小さな町工場を閉める時に持ち帰ったものだった。毎日、作業場の壁で鳴っていた。父親が亡くなってからは音が鳴らなくなり、修理に出す気にもなれず、かといって捨てれば父の時間まで終わるようで、押し入れにしまったままだったという。
香織は時計の裏を見た。部品の交換が必要かもしれない。完全に元どおりにはならない可能性も高い。
「直せるかは、専門の人に見てもらわないとわかりません」
香織が慎重に言うと、女性の目が少し沈んだ。
雄史はそこで、わざとらしく手を上げた。
「では、提案がある。鳴らないなら、鳴らない時計としての役を与えてはどうかな」
「役?」
「二時十七分になったら、お父上の話を一つする。毎日でなくていい。思い出した日だけでいい。時計が鳴らす代わりに、あなたが鳴らす」
香織は思わず雄史を見た。ふざけた衣装に、猫柄の布。けれど、声の置き方だけが違った。大げさではなく、押しつけでもなく、聞く人が逃げられるだけの間を残している。
女性は時計の針を見た。
「父の話、あまりしてこなかったです。泣くと思って」
「泣く観客は、悪い観客ではない」
雄史が言うと、心暖が小さく頷いた。さっき自分を救ってもらった言葉を、今度は別の人へ渡すように。
結局、時計はすぐに捨てず、縁側堂で一週間預かることになった。志龍の知り合いに時計を見られる人がいるか確認し、無理なら飾り方を考える。受付票には萌が「保留・役割再検討」と書いた。香織はその字を見ながら、彬子の日記の査定票に、自分が初めて書いた「保留」を思い出した。
その後も相談は続いた。欠けた湯飲み、片方だけ残った手袋、賞状の入った筒。雄史は一件ごとに伯爵の礼をし、時々言い間違え、心暖が司会で噛むたびに「今のは間を取ったのだ」と勝手に解説した。
夕方、最後の依頼人が帰ったあと、心暖は畳に座り込んだ。
「わたし、三回も名前を間違えました」
「四回です」
萌が正確に訂正する。
「増やさないでください……」
心暖が両手で顔を覆うと、雄史はマントを外し、縁側の柱にかけた。伯爵ではない彼は、少し猫背で、思ったより疲れた顔をしていた。
「名前を間違えたら、次にちゃんと呼べばいい。舞台も同じだ。噛んだ台詞より、次の一言を客は覚える」
「雄史さんは、失敗しないんですか」
「するよ。売れない俳優だからね。失敗の在庫なら、商店街で一番持っている」
さらりと言った声に、香織は返す言葉を失った。
雄史は軽く笑い、マントの猫柄部分をつまんだ。
「でも、嘘を着ると、人は少しだけ本当のことを話しやすくなる。伯爵なんていない。だけど、伯爵に向かってなら言えることがある。なら、その嘘は最後まで面倒を見たほうがいい」
香織は、干されていた黒い布が夕日の中でただの布に戻っていくのを見た。
作られたものは、偽物だと思っていた。
けれど、作られた礼、作られた沈黙、作られた拍手が、誰かの本音を置く台になることもある。
「雄史さん」
「なんだい、香織くん」
「今日の伯爵は、少しだけ役に立ちました」
「少しだけか」
「調子に乗ると、相談所の前で処分します」
「恐ろしい。やはり本当に危険なのは、伯爵ではなく査定士だね」
心暖が笑い、萌も笑った。
その時、縁側の外からぱちぱちと音がした。隣の菓子店からパンを届けに来た夏未が、両手がふさがったまま拍手していたのだ。袋の中でパンが揺れ、拍手というより、やわらかい紙袋が慌てて返事をしている音に近かった。
それでも雄史は、誰よりも深く頭を下げた。
香織はその姿を見て、今日初めて、拍手には値段も状態評価もいらないのだと思った。
ただ、聞いていたと伝えるだけで、人は少し立っていられる。
夕暮れの縁側で、止まった時計が二時十七分のまま、静かに光を受けていた。




