第13話 均衡の取り方
翌週、陽だまり縁側堂のちゃぶ台には、妙にきれいな紙束が置かれていた。
古い家に似合わない、真っ白な紙だった。角はきっちり揃えられ、表紙案には淡い色の縁取りが入っている。手書き風の文字で、仮の題名まで載っていた。
――陽だまり縁側堂 泣ける思い出相談帖。
香織はそれを見た瞬間、眉間に力が入った。
「泣ける、は外してください」
まだ席にも座っていない真奈美が、上品な薄灰色のジャケットを直しながら目を瞬かせた。
「早いですね。タイトル案を出してから却下まで、三秒でした」
「三秒も要りません。うちは泣かせる店ではないです」
「でも、読者に届く言葉は必要です。何をしている場所なのか、ひと目で伝わらないと手に取ってもらえません」
「手に取ってもらうために、人の事情を看板にするんですか」
ちゃぶ台の向こうで、萌が付箋を持ったまま固まった。心暖はお茶を注ごうとして、急須のふたを湯呑みにのせてしまい、鳩子が黙って戻した。
理香は資料を一枚めくり、淡々と言った。
「冊子化自体は悪くありません。利用実績の説明にもなります。三月末の判断材料にもなる」
「理香さんまで」
「ただし、掲載許可、匿名化、保管方法、撤回できる期限は決める必要があります」
真奈美が小さく頷いた。
「そのために来ました。感動話を抜き出して売るつもりはありません。ただ、外の人には、ここで何が起きているか見えない。見えなければ、残す理由も伝わらない」
香織は言い返そうとしたが、縁側に置かれた古い置き時計が目に入った。二時十七分で止まったままの時計。先週の女性は、まだ処分を決めていない。時計は預かり棚の上で、鳴らない役目を持って座っている。
もし誰かがあの時計を「泣ける父娘の記録」と書いたら。
香織は、想像しただけで喉の奥がざらついた。
「本人が話したくない部分まで、きれいな形に削られるのが嫌です」
「そこは同感です」
真奈美はすぐに答えた。返事が早すぎて、香織は少し拍子抜けした。
「本にすると、どうしても話は整います。始まりがあり、山があり、救いがあるように見せたくなる。でも、本当は、救いまで行っていない人もいる。捨てたくないまま持ち帰る人もいる。そこを削ると嘘になります」
「だったら、なぜ泣けるなんて書いたんですか」
「香織さんが怒るかどうか見たかったので」
「査定しますよ、その性格」
真奈美は涼しい顔で「減点理由は巻末にお願いします」と返した。心暖がこらえきれずに吹き出し、急須のふたがまた少しずれた。
そこへ、澄麗が静かに手を上げた。
「まず、言葉を分けましょう。残したい人、載せたい人、読まれたくない人、読まれてもいいが名前を出したくない人。同じ『記録』でも、意味が違います」
彼女は持参した罫線入りの紙を広げ、ゆっくりと四つの欄を作った。
一、本人の名前を出してよい。
二、品物だけ載せてよい。
三、話は載せてよいが、細部は変える。
四、載せない。相談所内の記録だけにする。
萌がその横へ、すばやく付箋を貼っていく。
「撤回期限、確認者、保管場所、掲載後の見本確認……あ、これ台帳いりますね」
「台帳なら作れます」
みづきが、図書館で使っている分類表のようなものを鞄から出した。
「日付順だけだと、後で探せなくなります。品物の種類、依頼者の希望、公開範囲で分けたほうがいいです。ただし、細かくしすぎると誰も続けられません」
「続けられない仕組みは、仕組みではなく願望です」
理香が言うと、香織は思わず理香を見た。厳しい。けれど、今日はその厳しさが、冊子を作る方向へまっすぐ向いている。
真奈美は表紙案を一枚引き寄せ、ペンで「泣ける」を二重線で消した。
「では、別案を出します。たとえば、『捨てる前に座る場所』」
部屋が少し静かになった。
派手ではない。手に取りたくなる強い言葉でもない。けれど、縁側堂の木の匂いには、そのほうが似合っていた。
香織は声に出さず、何度かその題名を口の中で転がした。
捨てる前に座る場所。
捨てない場所、ではない。残す場所、とも言い切っていない。ただ、決める前に座る。迷っていい時間を置く。
「……それなら、まだ許せます」
「まだ、ですか」
「まだ、です」
鳩子が、端切れの入った袋を開いた。
「表紙、布を貼ったら? 全部同じ紙だと、ちょっとよそ行きすぎる。縁側堂はもっと、座布団の角が曲がってる感じ」
「座布団の角が曲がっている表紙とは」
真奈美が真剣にメモを取り、心暖が「それは褒め言葉ですか」と小声で尋ねた。鳩子は「最高の褒め言葉」と答え、古い学生服の切れ端を表紙案の隅にそっと置いた。
その紺色の布を見て、風歌が身を乗り出した。
「冊子に、音は載せられませんか」
「音?」
「相談している声は無理でも、縁側のきしむ音とか、パンの袋を開ける音とか、心暖さんが司会で噛んだところとか」
「噛んだところは削ってください!」
「でも、そこが人間っぽくていいです」
心暖は耳まで赤くなった。雄史がいれば大げさに拍手しただろうが、今日は舞台の稽古で不在だった。それでも、彼の伯爵マントが柱にかかったままで、部屋の隅に少しだけ余白を作っている。
真奈美は風歌へ向き直った。
「冊子にQRコードをつければ、短い音声記録へつなげることはできます。ただし、声が入るなら許可はより厳密に」
「じゃあ、声じゃなくて音だけの日も作ります。沈黙も録りたいです」
「沈黙を録るの?」
香織が聞くと、風歌は照れたように笑った。
「録れないかもしれません。でも、誰もしゃべらない時間があったことは、残したいです。話した言葉だけだと、話せなかった人がいなかったことになりそうで」
その一言で、香織の中にあった苛立ちが少しほどけた。
記録にされることが怖いのは、誰かの涙が飾られるからだと思っていた。けれど、記録しなければ、座った時間ごとなかったことになる場合もある。
大事なのは、載せるか載せないかではない。
誰が、どこまで、いつ選べるかだ。
「冊子には、成功した話だけ載せないでください」
香織は真奈美に言った。
「捨てられなかった話も、何も決まらなかった話も、本人がいいと言った範囲で入れてください。あと、相談所が休む日があることも」
「それは地味ですね」
「地味でいいです」
理香が書類の端に何かを書き込みながら言った。
「地味なほうが、予算説明には強い場合もあります。派手な成功例より、継続可能な手順のほうが信用されます」
「理香さん、たまに味方みたいなことを言いますね」
「たまにではありません。残すために必要なことを言っているだけです」
その言い方があまりにも理香らしくて、香織は少し笑った。
夕方までに、ちゃぶ台の上は紙と付箋で埋まった。表紙案から「泣ける」は消え、「捨てる前に座る場所」が仮題になった。掲載許可の紙には、難しい言葉を避けた説明文を澄麗が書き、萌が確認欄を三つに分けた。みづきは保管棚に貼る分類札を作り、鳩子は布の見本を並べた。
真奈美は最後に、真っ白だった表紙案の隅へ、紺色の小さな布を貼った。
きれいすぎた紙が、少しだけこの家のものになった。
片づけの途中、香織は棚の奥にある灰色の日記を見た。まだ読めないページがある。切られた理由も、すべてはわかっていない。
冊子にできることは限られている。
けれど、限られていると知ったうえでなら、誰かの選択を奪わずに残せるものもあるのかもしれない。
縁側の外では、夏の終わりの風が洗濯ばさみを小さく鳴らしていた。
風歌がその音へ録音機を向ける。
「これ、入れてもいいですか」
「誰の許可を取ればいいんですか。洗濯ばさみ?」
香織が言うと、心暖が真面目な顔で洗濯ばさみに頭を下げた。
「掲載してもよろしいでしょうか」
洗濯ばさみは、からん、とだけ返事をした。
真奈美が笑いながら、その音をメモに書く。
捨てる前に座る場所。
その題名はまだ仮のものだったけれど、ちゃぶ台の上で、もう少しだけここにいてもいい顔をしていた。




