第14話 嘘の実話祭り、始まる
商店街の街灯に、まだ昼の熱が少し残っていた。
九月の終わり、蓬莱町商店街はいつもの閉店時間を過ぎても妙に明るかった。乾物屋の軒先には古い電球が吊られ、パン屋の前には夏未が余った木箱を積み上げて即席の台を作っている。陽だまり縁側堂の縁側には、鳩子が縫った布の旗が並び、その一つには大きくこう書かれていた。
嘘みたいな実話を語る夜。
「どうして“祭り”じゃなくて“夜”なんですか」
心暖が司会台本を握りしめたまま聞いた。
雄史は、深い紺色のマントを翻し、縁側の柱に片手をついた。夜風に合わせて髪を払う動きだけは妙に決まっている。
「祭りという言葉は、口に出した瞬間から責任が発生する。屋台、提灯、太鼓、迷子案内、予算、許可」
「最後の二つは私を見て言いましたね」
理香が細い目でにらむ。
「違います。尊敬の方向を間違えただけです」
「方向を直してください」
そのやり取りだけで、周囲にいた高校生たちが笑った。
香織は縁側堂の玄関で、来場者用の小さな紙を並べていた。名前を書いても書かなくてもいい。録音してよい話には丸を、書き起こしてよい話には二重丸を、今日だけ聞いてほしい話には何もつけない。冊子制作の打ち合わせで決めた約束を、萌が一目でわかるように表へ直してくれたものだった。
「丸がない話は、誰にも渡さない。記録もしない。覚えて帰るのは自由だけれど、語り直す時は本人に確認する」
香織が声に出すと、萌がすぐ横でうなずいた。
「はい。受付にも同じ文を貼りました。あと、碧輝さんのオフィスチェアは危険物扱いで、進行表の欄外です」
「欄外なんだ」
「枠の中に入れると、枠が責任を取りたがるので」
視線の先で、碧輝が得意げに改造椅子を押していた。前は坂道を暴走した古いオフィスチェアだったが、今日は背もたれに赤い布が巻かれ、肘掛けには金紙が貼られ、なぜか座面の下に小さな鈴がついている。動くたびに、ちりん、ちりん、と不安な音がした。
「玉座です」
碧輝は胸を張る。
「どのあたりが?」
「座ると偉そうに見えます」
「安全性は?」
「座らなければ安全です」
香織は、受付表の端に“玉座には座らない”と書き足した。
すると雄史が、何を思ったのかその玉座の前に立ち、杖を掲げた。
「今宵、我が領地に集いし者たちよ」
「商店街です」
理香が即座に訂正する。
「我が商店街に集いし者たちよ」
「所有しないでください」
「では、皆さまの商店街に集いし者たちよ」
雄史は一度咳払いをし、今度は少し声を落とした。
「今から語るのは、嘘ではありません。ただし、聞いた人が嘘だろうと言いたくなる実話です。笑ってもいい。驚いてもいい。けれど、話した人の手から勝手に奪って、別の場所へ持っていかないこと。これは、危険な伯爵からの命令です」
最後の一言で子どもが拍手した。大人たちも、つられて手を叩く。
香織は、その拍手の中に奇妙な安心を覚えた。作り物の伯爵が、作り物だからこそ守れる約束もあるのかもしれない。
風歌は縁側の隅で録音機を構え、ヘッドホンを片耳だけにかけていた。みづきは記録許可の紙を確認し、真奈美は小さなノートを開いている。のあは少し離れた電柱の影に立ち、来ないふりをしながら誰より早く来ていた。
「では、最初の語り手。蓬莱町菓子店、心暖さん」
「司会が語るんですか?」
心暖が台本をめくる。
「司会が一度転んでおくと、後の人が転びやすい」
「それは優しさなんですか」
「舞台用語で、床を温めると言います」
「言いません」
理香の訂正にまた笑いが起き、心暖は深呼吸をした。手元の紙が震えている。
「ええと、私の嘘みたいな実話は……昔、お客様に“おすすめはありますか”と聞かれて、緊張しすぎて“私です”と答えたことです」
一拍置いて、商店街がどっと沸いた。
「違うんです! “私のおすすめです”と言いたかったんです!」
心暖は真っ赤になって両手を振った。雄史が大げさに膝をつき、杖で床を叩く。
「その菓子、買おう」
「買わないでください、私を!」
笑い声が、夜の電球にぶら下がるように広がった。風歌の録音機の赤いランプが静かに光っている。
次は夏未だった。彼女は売れ残りではなく、今日のために焼いた小さな丸パンを持ってきた。
「私の実話は、昔、好きだった人に渡すパンを間違えて、町内会長に渡したことです」
「結果は?」と碧輝が聞く。
「町内会長が毎週買いに来るようになりました」
「恋は?」
「売上になりました」
夏未がにこにこと言うので、商店街の店主たちが一斉に拍手した。
鳩子は、学生服の袖から作った小さな旗を掲げた。
「私の実話は、帰宅部だったのに卒業式で“部長、お疲れさま”と言われたこと。部員は私一人。活動内容は、遠回りして帰ることでした」
旗の文字を見て、風歌が少しだけ目を伏せた。帰りたくない日があることを、笑い話にしていい夜だった。けれど、笑い飛ばして終わりにしなくてもいい夜でもあった。
碧輝の番では、例の玉座が中央へ押し出された。
「僕の実話は、椅子に鈴をつけたら安全になると思ったことです」
「なってません」
香織が即答する。
「でも、危ない時に音がします」
「危ない物が自分で鳴っているだけです」
椅子がちりんと鳴り、全員が笑った。
笑い声は、縁側堂の柱や棚にしみ込んでいくようだった。古い家は、いつもより少し息をしているように見える。
それでも香織は、奥の保管棚を何度も見てしまった。
灰色の日記は、今日も棚の中で黙っている。彬子の集合写真も、布に包まれて置いてある。まだ話せないと言って帰った彬子は、来るかどうかわからないままだった。
心暖が次の名前を読み上げようとした時、商店街の入口で小さなざわめきが起きた。
彬子だった。
薄い藤色のカーディガンを羽織り、両手で湯飲みではなく、小さな封筒を押さえている。いつもの柔らかな笑みはあるのに、その口元だけが少し硬い。
香織は反射的に立ち上がった。
「彬子さん、無理しなくて大丈夫です。今日は、聞くだけでも」
「ええ。聞くだけのつもりだったの」
彬子はそう言って、縁側の前で足を止めた。風歌が録音機へ伸ばしていた手を止める。萌が進行表を伏せる。理香は何も言わず、受付の許可紙をそっと裏返した。
誰も、急かさなかった。
雄史も伯爵の姿のまま、杖を下ろした。さっきまで大げさだった彼の背筋が、静かに場を支える形へ変わる。
彬子は香織を見たあと、奥の棚へ目を向けた。
「嘘みたいな実話を、一つだけ」
夜風が旗を揺らした。
ちりん、と玉座の鈴が鳴ったが、今度は誰も笑わなかった。
「昔ね、受け取れなかった手紙があったの」
その声は、商店街の電球よりも小さかった。けれど、その場にいた全員の耳へ、まっすぐ届いた。
香織は、受付表の上に手を置いた。
記録していいかどうかを聞く言葉が、喉元まで上がって、そこで止まる。
今はまだ、紙に残す場面ではない。
ただ、ここに座るための夜だった。




