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陽だまり縁側堂の、思い出の捨て方 ――嘘の実話祭りと危険な伯爵――  作者: 乾為天女


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15/25

第15話 切り裂かれた帰り道

 彬子の封筒は、古い便箋を入れるには少しだけ小さかった。

 角が押され、紙の形が薄く浮いている。それを両手で押さえる仕草は、湯飲みを抱く時とよく似ていた。温かいものを冷まさないようにではなく、胸の奥からこぼれそうなものを留めようとしているように見えた。

 商店街の提灯が揺れる。縁側堂の前に集まった人々は、さっきまでの笑い声を落としたまま、彬子の言葉の続きを待っていた。

 「手紙って、不思議ね」

 彬子は誰にともなく言った。

 「届かなかったら、なかったことになると思っていたの。けれど、なかったことにしたものほど、長く残るのね」

 香織は返事をしなかった。うなずくことさえ、今は軽すぎる気がした。

 風歌の録音機は止まっている。理香が止めたのではない。風歌自身が、赤いランプを消していた。

 「若い頃、帰り道が同じだった人がいたの。勤め先からの帰り道よ。坂の下に古い文具屋さんがあって、そこで便箋を選ぶのが好きだった。あの人は、いつも私より先に店を出るのに、角のところで靴紐を結び直しているの。何度も何度も」

 鳩子が、息だけで笑った。

 「本当に、よくほどける靴紐だったのね」

 「いいえ。ほどけていたのは、待つ理由の方」

 彬子の口元に、小さな笑みが浮かんだ。けれど、それはすぐに消えた。

 「その人から、手紙をもらうはずだったの。人づてに聞いたのよ。『今度生まれ変わっても好きになる』って書いてあったらしいわ。嘘みたいでしょう。若い人が書くには大げさで、年を取ってから思い出すには、少し恥ずかしい」

 碧輝が、玉座の車輪を押さえた。鈴が鳴らないように、両手でぎゅっと挟んでいる。

 「でも、私は受け取らなかった。受け取れなかったのか、受け取らなかったのかも、もう曖昧。結婚の話が進んでいたし、相手はいい人だった。誰も悪者にしたくなかったの」

 そこまで言って、彬子は封筒を強く握った。紙が、かすかに鳴った。

 「だから、帰り道を変えたの。坂の下の文具屋を通らない道にした。靴紐を結び直す人を見なくて済む道に」

 商店街の奥で、店じまいのシャッターが音を立てた。彬子の肩が小さく震える。

 香織は思わず一歩近づいた。

 「彬子さん」

 「だめね。ここまでにするわ」

 彬子は笑った。写真の中で見た、あの笑顔に似ていた。口元だけが整っていて、目が追いついていない。

 「嘘みたいな実話は、嘘みたいなところで止めるくらいが、ちょうどいいのかもしれない」

 雄史が杖を床につけた。

 「途中で幕を下ろすのも、語り手の権利です」

 伯爵の芝居の声ではなかった。けれど、誰かが場を閉じるには十分な、低くて静かな声だった。

 彬子は小さく頭を下げ、縁側へ上がらずに商店街の灯りへ戻っていく。

 香織は追いかけなかった。

 続きを求めることは、相談ではなく、取り立てに近い気がした。

 祭りは、そのあと少しだけ続いた。けれど、誰も大きな声で笑おうとはしなかった。雄史は閉会の言葉を短くした。碧輝の玉座は、鈴が鳴らないように押された。鳩子の旗は、夜風で少し斜めになったまま、誰も直さなかった。

 片づけが始まったのは、九時を少し過ぎた頃だった。

 萌が進行表を回収し、心暖が紙コップを重ね、雅道が照明の位置を元へ戻していく。香織は保管棚の前に立ち、布で包んだ集合写真と灰色の日記が無事かを確かめた。

 「この棚、少し前に出した方がいいです」

 敬基が柱のそばで腰をかがめて言った。

 「裏に湿気が回ってる。今日みたいに人が多いと、空気もこもる。いったん動かして、壁との間を見たい」

 「今からですか」

 理香が腕時計を見る。

 「今見た方がいい。雨のあとなら、染みが残る」

 香織はうなずいた。萌が軍手を配り、志龍がなぜか工具箱からメントール菓子を一つ取り出した。

 「力仕事の前に、どうぞ」

 「なぜ毎回それなんですか」

 「目が覚めます」

 「心も鼻も必要以上に覚めるんです」

 香織が受け取らずにいると、碧輝が横からひょいとつまんだ。三秒後、碧輝は目を白黒させた。

 「強い!」

 「だから言ったでしょう」

 小さな笑いが、少しだけ戻った。

 けれど、その笑いは長く続かなかった。

 保管棚は見た目より重かった。敬基が片側を支え、志龍と碧輝がもう片側を押す。香織と萌は中の箱が落ちないように押さえた。

 「せーの」

 棚が数センチ動いた。

 その瞬間、奥から、乾いた紙の匂いがした。

 咲璃が先に気づいた。

 「待ってください」

 彼女は床へ膝をつき、棚の裏側へ手を伸ばした。壁と棚の隙間に、細い木箱が挟まっている。長いあいだそこにあったらしく、箱の表面には棚の跡が黒く移っていた。

 咲璃は無理に引っぱらず、敬基に板を少し持ち上げてもらいながら木箱を取り出した。蓋はゆるく、紐は切れている。中には、日記が一冊入っていた。

 灰色の日記ではない。

 もっと古い、深い茶色の表紙だった。背は波打ち、表紙の角は丸い。そして、開く前からわかった。横から、何かが抜けている。

 咲璃が息を止める。みづきが眼鏡を押し上げた。理香の顔から色が引いていく。

 日記の途中に、刃物で切られた跡があった。数か所だけ。けれど、その切り口はまっすぐで、迷いがなかった。

 新しい傷ではない。紙の断面は茶色く焼け、繊維は年月でやわらかく毛羽立っていた。

 「……昔の跡です」

 咲璃が言った。

 「少なくとも、今日や昨日のものではありません」

 その言葉で、かえって場が冷えた。

 春井伯仁が、古い日記を切り裂いていた。

 商店街で聞いた噂が、急に輪郭を持って目の前に置かれた気がした。

 「本当に、切っていたんですね」

 香織の声は、自分でも驚くほど小さかった。

 咲璃はすぐに答えなかった。切られた箇所を見て、綴じ糸を見て、背のふくらみを指で確かめる。

 「切った、という事実はあります。でも、なぜ切ったのかは、まだわかりません」

 「でも、日記でしょう。人の記録でしょう」

 言ってから、香織の胸が痛んだ。

 自分も、祖母の日記を読まずに捨てた。切ったのではなく、捨てた。けれど、本人に確かめなかったことは同じだった。

 理香が一歩前に出た。

 「今日はここまでです」

 その声は厳しかった。ただし、怒っているのではない。事故を止めるための声だった。

 「鍵の管理、保管棚の管理、記録の扱い。曖昧なまま古い私物を預かるのは危険です。これ以上、人を入れて開くのはやめましょう」

 「やめるって」

 「閉めるという意味ではありません。一時休止です。調べる。持ち主を確認する。保管方法を決める。そこまでしないと、残したいものまで壊します」

 反論したかった。

 けれど、棚の裏から出てきた切り裂かれた日記を前に、香織は何も言えなかった。

 春井伯仁が守ろうとしたのか、隠そうとしたのか、壊そうとしたのか。今はまだ、どれも言い切れない。

 ただ、誰かの帰り道が、ここで一度切られていた。

 その夜、陽だまり縁側堂の看板には、萌の字で新しい紙が貼られた。

 ――しばらく、お休みします。

 その下に、香織は小さく書き足した。

 ――預かったものは、勝手に捨てません。



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― 新着の感想 ―
更新ありがとうございます。思ったよりも被害は甚大でした。彬子さんの想い、適切な表現とは言えませんが、捨てられた靴紐さん。誰も悪くなかったから余計に痛いのでしょう。香織さんガンバレ!
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