第15話 切り裂かれた帰り道
彬子の封筒は、古い便箋を入れるには少しだけ小さかった。
角が押され、紙の形が薄く浮いている。それを両手で押さえる仕草は、湯飲みを抱く時とよく似ていた。温かいものを冷まさないようにではなく、胸の奥からこぼれそうなものを留めようとしているように見えた。
商店街の提灯が揺れる。縁側堂の前に集まった人々は、さっきまでの笑い声を落としたまま、彬子の言葉の続きを待っていた。
「手紙って、不思議ね」
彬子は誰にともなく言った。
「届かなかったら、なかったことになると思っていたの。けれど、なかったことにしたものほど、長く残るのね」
香織は返事をしなかった。うなずくことさえ、今は軽すぎる気がした。
風歌の録音機は止まっている。理香が止めたのではない。風歌自身が、赤いランプを消していた。
「若い頃、帰り道が同じだった人がいたの。勤め先からの帰り道よ。坂の下に古い文具屋さんがあって、そこで便箋を選ぶのが好きだった。あの人は、いつも私より先に店を出るのに、角のところで靴紐を結び直しているの。何度も何度も」
鳩子が、息だけで笑った。
「本当に、よくほどける靴紐だったのね」
「いいえ。ほどけていたのは、待つ理由の方」
彬子の口元に、小さな笑みが浮かんだ。けれど、それはすぐに消えた。
「その人から、手紙をもらうはずだったの。人づてに聞いたのよ。『今度生まれ変わっても好きになる』って書いてあったらしいわ。嘘みたいでしょう。若い人が書くには大げさで、年を取ってから思い出すには、少し恥ずかしい」
碧輝が、玉座の車輪を押さえた。鈴が鳴らないように、両手でぎゅっと挟んでいる。
「でも、私は受け取らなかった。受け取れなかったのか、受け取らなかったのかも、もう曖昧。結婚の話が進んでいたし、相手はいい人だった。誰も悪者にしたくなかったの」
そこまで言って、彬子は封筒を強く握った。紙が、かすかに鳴った。
「だから、帰り道を変えたの。坂の下の文具屋を通らない道にした。靴紐を結び直す人を見なくて済む道に」
商店街の奥で、店じまいのシャッターが音を立てた。彬子の肩が小さく震える。
香織は思わず一歩近づいた。
「彬子さん」
「だめね。ここまでにするわ」
彬子は笑った。写真の中で見た、あの笑顔に似ていた。口元だけが整っていて、目が追いついていない。
「嘘みたいな実話は、嘘みたいなところで止めるくらいが、ちょうどいいのかもしれない」
雄史が杖を床につけた。
「途中で幕を下ろすのも、語り手の権利です」
伯爵の芝居の声ではなかった。けれど、誰かが場を閉じるには十分な、低くて静かな声だった。
彬子は小さく頭を下げ、縁側へ上がらずに商店街の灯りへ戻っていく。
香織は追いかけなかった。
続きを求めることは、相談ではなく、取り立てに近い気がした。
祭りは、そのあと少しだけ続いた。けれど、誰も大きな声で笑おうとはしなかった。雄史は閉会の言葉を短くした。碧輝の玉座は、鈴が鳴らないように押された。鳩子の旗は、夜風で少し斜めになったまま、誰も直さなかった。
片づけが始まったのは、九時を少し過ぎた頃だった。
萌が進行表を回収し、心暖が紙コップを重ね、雅道が照明の位置を元へ戻していく。香織は保管棚の前に立ち、布で包んだ集合写真と灰色の日記が無事かを確かめた。
「この棚、少し前に出した方がいいです」
敬基が柱のそばで腰をかがめて言った。
「裏に湿気が回ってる。今日みたいに人が多いと、空気もこもる。いったん動かして、壁との間を見たい」
「今からですか」
理香が腕時計を見る。
「今見た方がいい。雨のあとなら、染みが残る」
香織はうなずいた。萌が軍手を配り、志龍がなぜか工具箱からメントール菓子を一つ取り出した。
「力仕事の前に、どうぞ」
「なぜ毎回それなんですか」
「目が覚めます」
「心も鼻も必要以上に覚めるんです」
香織が受け取らずにいると、碧輝が横からひょいとつまんだ。三秒後、碧輝は目を白黒させた。
「強い!」
「だから言ったでしょう」
小さな笑いが、少しだけ戻った。
けれど、その笑いは長く続かなかった。
保管棚は見た目より重かった。敬基が片側を支え、志龍と碧輝がもう片側を押す。香織と萌は中の箱が落ちないように押さえた。
「せーの」
棚が数センチ動いた。
その瞬間、奥から、乾いた紙の匂いがした。
咲璃が先に気づいた。
「待ってください」
彼女は床へ膝をつき、棚の裏側へ手を伸ばした。壁と棚の隙間に、細い木箱が挟まっている。長いあいだそこにあったらしく、箱の表面には棚の跡が黒く移っていた。
咲璃は無理に引っぱらず、敬基に板を少し持ち上げてもらいながら木箱を取り出した。蓋はゆるく、紐は切れている。中には、日記が一冊入っていた。
灰色の日記ではない。
もっと古い、深い茶色の表紙だった。背は波打ち、表紙の角は丸い。そして、開く前からわかった。横から、何かが抜けている。
咲璃が息を止める。みづきが眼鏡を押し上げた。理香の顔から色が引いていく。
日記の途中に、刃物で切られた跡があった。数か所だけ。けれど、その切り口はまっすぐで、迷いがなかった。
新しい傷ではない。紙の断面は茶色く焼け、繊維は年月でやわらかく毛羽立っていた。
「……昔の跡です」
咲璃が言った。
「少なくとも、今日や昨日のものではありません」
その言葉で、かえって場が冷えた。
春井伯仁が、古い日記を切り裂いていた。
商店街で聞いた噂が、急に輪郭を持って目の前に置かれた気がした。
「本当に、切っていたんですね」
香織の声は、自分でも驚くほど小さかった。
咲璃はすぐに答えなかった。切られた箇所を見て、綴じ糸を見て、背のふくらみを指で確かめる。
「切った、という事実はあります。でも、なぜ切ったのかは、まだわかりません」
「でも、日記でしょう。人の記録でしょう」
言ってから、香織の胸が痛んだ。
自分も、祖母の日記を読まずに捨てた。切ったのではなく、捨てた。けれど、本人に確かめなかったことは同じだった。
理香が一歩前に出た。
「今日はここまでです」
その声は厳しかった。ただし、怒っているのではない。事故を止めるための声だった。
「鍵の管理、保管棚の管理、記録の扱い。曖昧なまま古い私物を預かるのは危険です。これ以上、人を入れて開くのはやめましょう」
「やめるって」
「閉めるという意味ではありません。一時休止です。調べる。持ち主を確認する。保管方法を決める。そこまでしないと、残したいものまで壊します」
反論したかった。
けれど、棚の裏から出てきた切り裂かれた日記を前に、香織は何も言えなかった。
春井伯仁が守ろうとしたのか、隠そうとしたのか、壊そうとしたのか。今はまだ、どれも言い切れない。
ただ、誰かの帰り道が、ここで一度切られていた。
その夜、陽だまり縁側堂の看板には、萌の字で新しい紙が貼られた。
――しばらく、お休みします。
その下に、香織は小さく書き足した。
――預かったものは、勝手に捨てません。




