第16話 のあの本名
休止の紙を貼った翌朝、陽だまり縁側堂の前に、白い紙袋が置かれていた。
中には古い裁縫箱が入っていた。木の角は丸く、金具は少し錆びている。蓋には、針でつついたような浅い傷がいくつもあった。
香織は玄関先で紙袋を抱えたまま固まった。
「休止中に、持ち込みですか」
理香が背後から言った。市役所分室へ行く前らしく、髪をきっちり結び、手には分厚い封筒を抱えている。
「名前はありません。でも、これ」
香織は紙袋の内側に入っていたメモを取り出した。
――感傷の倉庫に置くには、ちょうどいいでしょう。
陽だまり縁側堂を「感傷の倉庫」と書いたのは、のあだった。辛口投稿は何度も更新され、相談所の導線、展示の高さ、椅子の座り心地、心暖の司会の声量にまで点数をつけていた。
ただ、どの記事にも、来た人の名前だけは出していなかった。
「開ける前に、本人確認」
理香は封筒から薄い紙を出した。
「休止中に決めること、その一。持ち込み品には連絡先。本人がいない物は、勝手に中を見ない」
「……はい」
香織は裁縫箱から手を離した。以前の自分なら、金具、木材、保存状態、修理費を先に見ていた。けれど、今は蓋を開けるより先に、紙袋を置いた人の顔を思い浮かべた。
昼過ぎ、のあは何食わぬ顔で現れた。
黒いシャツに細い銀のピアス。手にはアイスコーヒー。休止中の札を見ても、まるで自分には関係ないという顔をしている。
「閉まってるのに、人がいますね」
「あなたが置いていったからです」
「証拠は?」
「言い回しが、あなたです」
「雑な推理」
のあは鼻で笑ったが、玄関の床に置かれた紙袋を見ると、口元だけで作った薄い笑いになった。
ちょうどそこへ鳩子が入ってきた。肩から大きな布袋を下げ、髪には待ち針を一本、飾りのように挿している。
「わあ、いい裁縫箱。開けていい?」
「駄目です」
香織と理香の声が重なった。
鳩子は両手を上げた。
「はいはい。今のは布好きの反射です。人の箱は、人の箱」
香織は、裁縫箱の前に座布団を一枚置いた。
「ここに座りますか。開けるかどうかは、あなたが決めてください」
「ずいぶん丁寧になりましたね。前は、捨てるか残すか、すぐ言いそうだったのに」
「言いそうでした」
「否定しないんだ」
「しません。たぶん、言っていました」
のあはアイスコーヒーの氷を鳴らした。からん、と小さな音が縁側に転がる。
「祖母のです」
それだけ言って、彼女は座布団に腰を下ろした。
鳩子が向かいに座り、理香は少し離れて記録用紙を持った。誰も急かさなかった。
「祖母は、何でも縫う人でした。服も、袋も、ぬいぐるみも。私が小さい頃、保育園で『その服、古い』って言われたことがあって。祖母が次の日、同じ服に変な鳥のアップリケをつけたんです」
「変な鳥?」
鳩子の目が輝く。
「黄色くて、足が長くて、目が片方だけ妙に大きい鳥。私は嫌で泣きました。余計に目立つから。でも、その鳥を見た子が『それ、強そう』って言って。次の日から、その服ばかり着ました」
のあはそこで、蓋の金具に指をかけた。
けれど、開けなかった。
「祖母が亡くなってから、母はすぐ片づけようとしました。私は、いらないって言いました。古いし、場所を取るし、布も変な柄ばかりだし。そう言ったら、本当に処分されかけて」
「それで、止めたんですか」
「止めました。でも、持っていることを認めたくなかった。だから、他人の思い出に点数をつけていました。ぬるいとか、泣かせにきてるとか、倉庫だとか。そう言っていれば、自分の箱を開けなくて済むので」
鳩子は、裁縫箱の蓋ではなく、のあの手元を見ていた。
「開けなくてもいいよ」
「開けに来たんですけど」
「開けに来た人が、開けないで帰ることもあるよ。布は逃げないし、箱も今日だけで消えない」
のあは初めて、鳩子をまともに見た。
「自由な人ですね」
「よく言われる。だいたい褒め言葉じゃない」
「今回は、少しだけ褒めています」
「少しだけ受け取る」
小さな笑いが落ちたあと、裁縫箱が開いた。
中には、色とりどりの糸巻きが並んでいた。赤、青、黄色、薄い緑。針山はへたり、指ぬきは黒ずみ、小さなハサミには布くずが絡んでいる。奥には、黄色い布でできた鳥のアップリケが一枚、未完成のまま入っていた。
片方の目だけが、大きかった。
のあは息を止めた。
鳩子がそっと布を見た。
「この黄色、古い子ども用のスモックかな。こっちの黒い糸、目に使ったんだ。雑だけど、すごく急いで縫った跡がある」
「急いで?」
「泣いた子を、次の日笑わせたかったんじゃない?」
のあの口元が歪んだ。泣きそうなのか、怒りそうなのか、どちらにも見えた。
「……勝手に、いい話にしないで」
「しない」
香織はすぐに言った。
「嫌だったことも、救われたことも、両方そのままにしましょう」
のあは返事をしなかった。ただ、未完成の鳥を指でつまみ、膝の上に置いた。
そのとき、心暖が戸口から顔を出した。
「すみません、お茶を持ってきたんですけど、今、入っていい空気ですか」
「空気を読む司会者になったのね」
のあが言う。
心暖はぱっと顔を明るくした。
「褒められました?」
「半分だけ」
「半分でも大事にします!」
鳩子が吹き出し、理香まで少しだけ肩を揺らした。
香織は記録用紙を出した。
「のあさん。お名前、記録にはどう書きますか。匿名のままでも構いません」
のあはしばらく黙っていた。それから、アイスコーヒーのカップを床に置き、はっきり言った。
「野上亜乃。ブログでは、のあ。ここでは、亜乃でいいです」
香織は、ゆっくり書いた。
野上亜乃。
裁縫箱。黄色い鳥。開けるか迷った時間も含めて、本人確認済み。
そこへ、咲璃が奥の作業机から顔を出した。
「香織さん。昨日の日記の切断跡、少し見えてきたことがあります」
空気が、すっと変わった。
亜乃は裁縫箱の蓋を閉めなかった。ただ、未完成の黄色い鳥を膝に置いたまま、咲璃を見た。
「私じゃありませんよ」
「わかっています」
香織は言った。
「昨日見つかった日記の切り口は古いものです。あなたが置いていった裁縫箱とは関係ありません」
亜乃は、少しだけ目を細めた。
「じゃあ、危険な伯爵の噂、ちゃんと調べるんですね」
「調べます。誰かを犯人にして終わらせないために」
香織がそう言うと、亜乃は未完成の鳥を裁縫箱に戻した。
「なら、ブログにはこう書きます。感傷の倉庫、休止中。ただし、勝手に捨てないらしい」
「宣伝ですか、皮肉ですか」
「均衡です」
真奈美がいれば喜びそうな言葉を、亜乃は澄ました顔で言った。
裁縫箱は、まだ捨てない。開けたから終わりでもない。
けれど、のあという名前だけで遠くに立っていた人が、亜乃として縁側に座った。
それだけで、休止中の陽だまり縁側堂には、少しだけ人の声が戻った。




