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陽だまり縁側堂の、思い出の捨て方 ――嘘の実話祭りと危険な伯爵――  作者: 乾為天女


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16/25

第16話 のあの本名

 休止の紙を貼った翌朝、陽だまり縁側堂の前に、白い紙袋が置かれていた。

 中には古い裁縫箱が入っていた。木の角は丸く、金具は少し錆びている。蓋には、針でつついたような浅い傷がいくつもあった。

 香織は玄関先で紙袋を抱えたまま固まった。

 「休止中に、持ち込みですか」

 理香が背後から言った。市役所分室へ行く前らしく、髪をきっちり結び、手には分厚い封筒を抱えている。

 「名前はありません。でも、これ」

 香織は紙袋の内側に入っていたメモを取り出した。

 ――感傷の倉庫に置くには、ちょうどいいでしょう。

 陽だまり縁側堂を「感傷の倉庫」と書いたのは、のあだった。辛口投稿は何度も更新され、相談所の導線、展示の高さ、椅子の座り心地、心暖の司会の声量にまで点数をつけていた。

 ただ、どの記事にも、来た人の名前だけは出していなかった。

 「開ける前に、本人確認」

 理香は封筒から薄い紙を出した。

 「休止中に決めること、その一。持ち込み品には連絡先。本人がいない物は、勝手に中を見ない」

 「……はい」

 香織は裁縫箱から手を離した。以前の自分なら、金具、木材、保存状態、修理費を先に見ていた。けれど、今は蓋を開けるより先に、紙袋を置いた人の顔を思い浮かべた。

 昼過ぎ、のあは何食わぬ顔で現れた。

 黒いシャツに細い銀のピアス。手にはアイスコーヒー。休止中の札を見ても、まるで自分には関係ないという顔をしている。

 「閉まってるのに、人がいますね」

 「あなたが置いていったからです」

 「証拠は?」

 「言い回しが、あなたです」

 「雑な推理」

 のあは鼻で笑ったが、玄関の床に置かれた紙袋を見ると、口元だけで作った薄い笑いになった。

 ちょうどそこへ鳩子が入ってきた。肩から大きな布袋を下げ、髪には待ち針を一本、飾りのように挿している。

 「わあ、いい裁縫箱。開けていい?」

 「駄目です」

 香織と理香の声が重なった。

 鳩子は両手を上げた。

 「はいはい。今のは布好きの反射です。人の箱は、人の箱」

 香織は、裁縫箱の前に座布団を一枚置いた。

 「ここに座りますか。開けるかどうかは、あなたが決めてください」

 「ずいぶん丁寧になりましたね。前は、捨てるか残すか、すぐ言いそうだったのに」

 「言いそうでした」

 「否定しないんだ」

 「しません。たぶん、言っていました」

 のあはアイスコーヒーの氷を鳴らした。からん、と小さな音が縁側に転がる。

 「祖母のです」

 それだけ言って、彼女は座布団に腰を下ろした。

 鳩子が向かいに座り、理香は少し離れて記録用紙を持った。誰も急かさなかった。

 「祖母は、何でも縫う人でした。服も、袋も、ぬいぐるみも。私が小さい頃、保育園で『その服、古い』って言われたことがあって。祖母が次の日、同じ服に変な鳥のアップリケをつけたんです」

 「変な鳥?」

 鳩子の目が輝く。

 「黄色くて、足が長くて、目が片方だけ妙に大きい鳥。私は嫌で泣きました。余計に目立つから。でも、その鳥を見た子が『それ、強そう』って言って。次の日から、その服ばかり着ました」

 のあはそこで、蓋の金具に指をかけた。

 けれど、開けなかった。

 「祖母が亡くなってから、母はすぐ片づけようとしました。私は、いらないって言いました。古いし、場所を取るし、布も変な柄ばかりだし。そう言ったら、本当に処分されかけて」

 「それで、止めたんですか」

 「止めました。でも、持っていることを認めたくなかった。だから、他人の思い出に点数をつけていました。ぬるいとか、泣かせにきてるとか、倉庫だとか。そう言っていれば、自分の箱を開けなくて済むので」

 鳩子は、裁縫箱の蓋ではなく、のあの手元を見ていた。

 「開けなくてもいいよ」

 「開けに来たんですけど」

 「開けに来た人が、開けないで帰ることもあるよ。布は逃げないし、箱も今日だけで消えない」

 のあは初めて、鳩子をまともに見た。

 「自由な人ですね」

 「よく言われる。だいたい褒め言葉じゃない」

 「今回は、少しだけ褒めています」

 「少しだけ受け取る」

 小さな笑いが落ちたあと、裁縫箱が開いた。

 中には、色とりどりの糸巻きが並んでいた。赤、青、黄色、薄い緑。針山はへたり、指ぬきは黒ずみ、小さなハサミには布くずが絡んでいる。奥には、黄色い布でできた鳥のアップリケが一枚、未完成のまま入っていた。

 片方の目だけが、大きかった。

 のあは息を止めた。

 鳩子がそっと布を見た。

 「この黄色、古い子ども用のスモックかな。こっちの黒い糸、目に使ったんだ。雑だけど、すごく急いで縫った跡がある」

 「急いで?」

 「泣いた子を、次の日笑わせたかったんじゃない?」

 のあの口元が歪んだ。泣きそうなのか、怒りそうなのか、どちらにも見えた。

 「……勝手に、いい話にしないで」

 「しない」

 香織はすぐに言った。

 「嫌だったことも、救われたことも、両方そのままにしましょう」

 のあは返事をしなかった。ただ、未完成の鳥を指でつまみ、膝の上に置いた。

 そのとき、心暖が戸口から顔を出した。

 「すみません、お茶を持ってきたんですけど、今、入っていい空気ですか」

 「空気を読む司会者になったのね」

 のあが言う。

 心暖はぱっと顔を明るくした。

 「褒められました?」

 「半分だけ」

 「半分でも大事にします!」

 鳩子が吹き出し、理香まで少しだけ肩を揺らした。

 香織は記録用紙を出した。

 「のあさん。お名前、記録にはどう書きますか。匿名のままでも構いません」

 のあはしばらく黙っていた。それから、アイスコーヒーのカップを床に置き、はっきり言った。

 「野上亜乃。ブログでは、のあ。ここでは、亜乃でいいです」

 香織は、ゆっくり書いた。

 野上亜乃。

 裁縫箱。黄色い鳥。開けるか迷った時間も含めて、本人確認済み。

 そこへ、咲璃が奥の作業机から顔を出した。

 「香織さん。昨日の日記の切断跡、少し見えてきたことがあります」

 空気が、すっと変わった。

 亜乃は裁縫箱の蓋を閉めなかった。ただ、未完成の黄色い鳥を膝に置いたまま、咲璃を見た。

 「私じゃありませんよ」

 「わかっています」

 香織は言った。

 「昨日見つかった日記の切り口は古いものです。あなたが置いていった裁縫箱とは関係ありません」

 亜乃は、少しだけ目を細めた。

 「じゃあ、危険な伯爵の噂、ちゃんと調べるんですね」

 「調べます。誰かを犯人にして終わらせないために」

 香織がそう言うと、亜乃は未完成の鳥を裁縫箱に戻した。

 「なら、ブログにはこう書きます。感傷の倉庫、休止中。ただし、勝手に捨てないらしい」

 「宣伝ですか、皮肉ですか」

 「均衡です」

 真奈美がいれば喜びそうな言葉を、亜乃は澄ました顔で言った。

 裁縫箱は、まだ捨てない。開けたから終わりでもない。

 けれど、のあという名前だけで遠くに立っていた人が、亜乃として縁側に座った。

 それだけで、休止中の陽だまり縁側堂には、少しだけ人の声が戻った。



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