第17話 危険な噂の正体
古い日記は、畳の上に三冊並べられていた。
どれも灰色がかっていて、表紙の角は丸く減り、触れるだけで指先に紙の粉がつきそうだった。縁側堂は一時休止中なので、看板は玄関の内側へ裏返されている。それでも朝の光は、休むことを知らない顔で廊下を渡り、日記の背に細く落ちていた。
香織は、その光の端に正座していた。
向かいに咲璃。隣に、市立図書館司書のみづき。理香は少し離れた文机で、鍵の管理表を作り直している。亜乃は「見届けるだけ」と言いながら、裁縫箱を膝に置いて縁側にいた。見届ける人の目ではなく、完全に取材する人の目だった。
「先に言っておきます」
みづきが、白い手袋をはめながら言った。
「年代の推定はできます。でも、誰がいつ何を考えて切ったかまでは、紙だけでは断定できません」
「わかっています」
香織は答えた。わかっている、と言いながら、胸の奥はわかっていなかった。
切られた日記を見つけた夜から、彼女の頭には、はさみの音ばかり残っている。紙が裂ける音ではない。もっと前、査定士だった自分が、価値なし、と心の中で決めた時の音だ。
咲璃は一冊目の日記をそっと開いた。背の近くに、切り取られた跡がある。刃物でまっすぐ切ったのではなく、綴じ糸をほどき、必要な紙だけを抜き、また戻したような跡だった。
「この日記、切り口だけ見ると乱暴に見えます。でも、綴じ直しは丁寧です。紙を傷めないように、糸の太さも元に近いものを使っています」
「日記を切る人が、そんなところだけ丁寧にしますか」
理香が顔を上げた。責める響きではない。確認の響きだった。
咲璃は小さくうなずいた。
「捨てるつもりなら、ここまで戻さないと思います」
みづきが二冊目を開く。薄い鉛筆で、頁の端に数字が書かれていた。あとから分類した印らしい。
「切り取られている箇所、年代も持ち主も違います。ただ、共通していることがあります」
「悪口?」
亜乃が言った。
「秘密?」
鳩子がいないのに、どこかで布をほどくような沈黙が落ちた。
みづきは首を横に振る。
「悪口そのものでも、誰かの不倫話でも、借金の記録でもありません。むしろ、読まれたら誰かが勝手に説明をつけたくなる場所です」
「勝手に説明をつけたくなる場所……」
香織は繰り返した。
咲璃が、三冊目の間に挟まっていた薄紙を見せた。そこには春井伯仁の筆跡と思われる文字が、かすれて残っていた。
――本人の口が戻るまで、頁を預かる。
香織は息を止めた。
「消す、じゃない」
自分の声が、思ったより小さく出た。
「預かる」
咲璃が、その言葉を拾う。
「はい。切り取られた頁は、なくなっているわけではありません。棚の奥に、同じ紙質の封筒がいくつかあります。封はされていますが、外側に日記の番号と頁の位置が書かれています」
理香が文机から立ち上がった。
「つまり、春井伯仁さんは、勝手に読まれないように分けて保管していた可能性がある、ということですね」
「可能性です」
みづきがすぐに正した。
「でも、噂の『日記を切り裂いて過去を消した』とは違う形が見えてきました」
香織は、封筒の山を見た。
茶色く変色した封筒は、整って並んでいた。乱暴な人の手ではない。けれど、説明しない人の手だった。
「守るためでも、黙って切ったら、怖いですよね」
心暖が、台所の方からお茶を運びながら言った。声は遠慮がちだったが、盆の上の湯飲みは一つも揺れていない。
香織は頷いた。
「怖い。だから、伯爵の噂になったんだと思う」
「守っていたのに?」
「守っていたとしても、見た人が傷ついたら、その傷は残るから」
言ってから、香織は自分の胸に小さく刺さるものを感じた。
祖母の日記を捨てた時も、自分は理由を並べた。古いから。読んでも祖母は戻らないから。忙しいから。置き場所がないから。どれも嘘ではなかった。けれど、嘘ではない言葉で、取り返しのつかないことをした。
春井伯仁も、そうだったのかもしれない。
嘘ではない理由で、誰かを黙らせた。
「危険な伯爵って、呼ばれ方、ずるいですね」
亜乃がぽつりと言った。
「怖い人にしておけば、深く考えなくて済む。いい人にしておけば、怒らなくて済む。どっちも楽です」
「じゃあ、ブログにはどう書くんですか」
理香が聞いた。
亜乃は少し考え、裁縫箱の金具を親指でなぞった。
「危険な伯爵、たぶん乱暴ではない。ただし説明不足。町に迷惑。以上」
「辛口ですね」
「甘口にしたら、あなたたちが困るでしょう」
咲璃が、ふっと笑った。珍しいことだったので、心暖が目を丸くした。
「咲璃さん、今笑いました?」
「少しだけです」
「半分ですか?」
「三分の一くらい」
「刻まれた!」
心暖が本気で悔しそうにするので、張りつめていた空気が少しほどけた。
その隙間に、みづきが一枚の封筒を置いた。
「開封には、持ち主か遺族の同意が必要です。これは彬子さんに関わる日記の可能性があります」
香織の背筋が伸びた。
茶色い封筒の表には、細い字でこう書かれていた。
彬子さんへ。戻すか、戻さないかは本人に。
理香がすぐに管理表へ記入する。咲璃は封筒に新しい保護紙を添える。みづきは保存箱の温度と湿度を測る。心暖は湯飲みを置く位置を迷い、結局、誰の手にも触れない場所へそっと並べた。
香織は封筒を見つめたまま、言った。
「彬子さんに、来てもらいます。けれど、読むためじゃありません。選んでもらうためです」
「読まない選択も含めて?」
亜乃が聞く。
「含めて」
香織は答えた。
「私たちは、封筒を開ける理由を作るんじゃなくて、開けなくても責められない場所を作ります」
理香のペンが一瞬止まった。それから、管理表の端に小さく書き足す。
本人の選択を最優先。急がせない。
香織はその文字を見て、胸の奥にあったはさみの音が、少しだけ遠のくのを感じた。
危険な伯爵の噂は、まだ消えない。
消してはいけないのだと思った。
噂の中には、守られた頁と、守られなかった気持ちが、同じ封筒に入っている。
それを勝手にほどかないために、縁側堂はもう一度、待つことから始めるしかなかった。




