第18話 オフィスチェア救出
台風が過ぎた朝、陽だまり縁側堂の庭には、どこから飛んできたのかわからない青い洗濯ばさみが一つ落ちていた。
濡れた瓦が朝日を受け、商店街のアーケードからは、まだ水滴がぽつりぽつりと落ちている。香織が玄関を開けると、畳と古い木が湿気を吸った匂いがした。
「……これは、まずいかも」
奥の廊下に、小さな水たまりができていた。
「水たまりを見てから走らないでください。転んだら相談所の継続以前に、あなたの継続が危ないです」
背後で理香が言った。長靴姿で、手には点検表。台風後の確認に来るとは聞いていたが、準備がよすぎる。
「二階の天井も見ます。昨日の雨量だと、屋根裏側に染みている可能性があります」
香織は、二階へ続く急な階段を見た。
陽だまり縁側堂の階段は幅が狭く、踏み板も高い。元気な大人でも少し身構える角度だった。まして、膝を痛めている彬子には厳しい。
けれど、その彬子が玄関先に立っていた。
薄紫の雨傘を杖代わりに持ち、布の小袋を両手で押さえている。
「彬子さん。今日は無理しなくていいんです」
「無理ではないの。少し、上を見ておきたくて」
「上?」
「昔、春井さんが日記の棚を移す時、二階から古い箱を下ろしたことがあったの。雨が入ったなら、あそこも濡れていないか気になって」
香織は言葉に詰まった。
彬子が戻ってきてくれた。それだけで胸が熱くなるのに、階段の前で細い指が傘の柄を握りしめているのを見ると、止めたい気持ちと、止めきれない気持ちがぶつかった。
理香が点検表を閉じた。
「安全上、階段昇降はおすすめできません。ただし、確認したい理由は記録します」
厳しい言葉の後に、理香はすぐ次の紙を出した。
その時、外から軽いベルの音がした。
「お待たせしました、縁側堂の未来を担う移動革命です!」
碧輝が、古いオフィスチェアを押して入ってきた。
背もたれには、鳩子の縫った小さな旗が立っている。旗には「帰宅部の長い放課後」と書かれていたはずなのに、台風で文字がにじみ、今は「帰宅部の長い放水後」に見えた。
「帰宅部が水害対応みたいになってる」
香織がつぶやくと、碧輝は胸を張った。
「時代に合わせて進化しました」
「進化じゃなくて浸水です」
理香が即座に言った。
さらに、工具箱を持った志龍と、板材を抱えた敬基が入ってくる。志龍は雨上がりなのに、なぜか爽やかな顔でメントール菓子をくわえていた。
「完全な昇降機は無理ですけど、荷物を下ろす仮台なら作れます。人を乗せるのは本来だめです」
「本来だめなものを、今からどうするつもりですか」
理香の眉が上がる。
敬基が板材を床に置き、低い声で言った。
「人を運ぶんじゃない。香織さんと俺が二階へ上がる。箱を下ろす。彬子さんは下で確認する。それなら危険は減る」
志龍が頷いた。
「滑車と板を使います。オフィスチェアは下の受け台にします」
「つまり、あの椅子は走らせないんですね」
「走らせません」
志龍が真顔で言った横で、碧輝だけが残念そうにした。
「走った方が盛り上がるのに」
「盛り上がるのは事故報告書です」
理香が言い、萌がすでに白紙を三枚出していた。
「役割、分けます。上がる人、支える人、記録する人、叫ぶ人」
「叫ぶ人いる?」
「碧輝さんです」
「適任だね!」
碧輝は褒められたと思ったらしく、元気よく親指を立てた。
濡れた廊下に新聞紙を敷き、敬基が階段の軋みを確かめる。志龍は滑車の位置を見ながら、古い柱に傷をつけないよう布を巻いた。理香は危険箇所を読み上げ、萌が付箋を貼る。
「賑やかね」
玄関框に腰かけた彬子が言った。
「すみません。もっと静かに点検する予定だったんですけど」
「静かすぎる家は、少し苦手なの」
その一言で、香織は二階の暗さを思い浮かべた。
春井伯仁が日記を切り、封筒を残し、説明しないまま亡くなった家。そこに今、軋む階段、工具の金属音、理香の注意、碧輝の大げさな掛け声が増えている。笑えるほど慌ただしいのに、どれも誰かを置き去りにしないための音だった。
「上、行きます」
香織は軍手をはめた。
敬基と二階へ上がると、天井の隅に水染みがあった。壁際の古い箱は、幸い直接濡れてはいない。だが、埃をかぶった木箱の上に、春井伯仁の字らしい紙札が貼られていた。
下ろす前に、香織は階下へ声をかけた。
「彬子さん、紙札があります。読みますか」
少し間があった。
「……読んで」
香織は紙札に目を落とした。
「『雨の日に開けないこと。紙は濡れると、言い訳までふやける』」
階下で、誰かが吹き出した。たぶん碧輝だった。すぐ理香に「笑うところか確認してから笑ってください」と叱られている。
彬子は長く息を吐いた後、くすりと笑った。
「春井さんらしいわ。大事なことを言っているのに、いつも少し腹が立つの」
木箱は仮台に乗せられ、ゆっくりと階下へ下ろされた。志龍が滑車を支え、敬基が上から角度を調整する。オフィスチェアの座面に載せられた箱が、ぎしりと鳴った瞬間、碧輝が叫んだ。
「受け止めます、伯爵の重み!」
「箱です!」
香織と理香の声が重なった。
その声がおかしかったのか、彬子が声を出して笑った。笑いながら、目尻に涙が滲んでいた。
木箱が無事に床へ下りると、志龍はほっとした顔でメントール菓子を差し出した。
「彬子さん、落ち着きますよ」
彬子は一粒受け取り、舌に乗せて目を白黒させた。
「あら。冬が来たみたい」
「十月です」
理香が訂正した。
彬子は涙を拭きながら、木箱にそっと手を置いた。
「階段を上がれないと、もう会えないものが増えたと思っていたの」
香織は膝をつき、彬子の手元に目線を合わせた。
「上がらなくても、会える形を探せます」
「そうね」
彬子は頷いた。
「思い出も、人も、昔と同じ場所に立てなくなるのね。でも、別の場所からなら、まだ見られる」
香織は、古いオフィスチェアを見た。
かつて商店街の坂を暴走した、ただの厄介な椅子。捨ててもよかったもの。笑われて終わるはずだったもの。
それが今日は、二階から木箱を下ろすための受け台になった。
壊れた物も、向きを変えれば誰かを助ける。
その言葉を、まだ香織は口にしなかった。簡単な教訓にしたくなかった。
代わりに、濡れた床の新聞紙を替えた。彬子の傘を畳み、木箱の横へ乾いた布を置いた。
縁側の外では、台風で折れた小枝が風に転がっている。部屋の中には、湿った木の匂いに混じって、パンとメントールと古い紙の匂いがした。
いつか、この階段も変えなければならない。
残すために、変えなければならないものがある。
そのことを、古い椅子が誰より先に教えてくれた気がした。




