第19話 伯爵の封筒
木箱の中から出てきた紙は、雨の匂いを知らない顔をしていた。
台風の翌日、陽だまり縁側堂の縁側には、干された雑巾と新聞紙と、なぜか鳩子が持ち込んだ花柄の布が並んでいた。湿気取りのつもりらしいが、廊下だけ急に古着屋の試着室のようになっている。
「柄が強いです」
香織が言うと、鳩子は涼しい顔で布の端をつまんだ。
「湿気を吸うにも気合いがいるの」
「湿気に精神論を持ち込まないでください」
理香が記録用紙から目を上げずに言った。
木箱は、朝から打ち合わせ室の低い机に置かれていた。敬基が補強した仮台の上に、みづきが防湿紙を敷き、咲璃が薄い手袋をはめる。昨日の騒ぎとは違って、今日は誰も大きな声を出さない。
ただ、静かすぎると落ち着かないのか、碧輝だけが廊下でオフィスチェアの車輪を磨いていた。
「もう走らせませんよね?」
萌が確認すると、碧輝は真剣な顔で答えた。
「走らせない椅子にも、誇りは必要だから」
「その誇り、廊下にワックスを塗らない範囲でお願いします」
理香の声で、車輪の音がぴたりと止まった。
香織は木箱の蓋に手を置いた。彬子はまだ来ていない。昨日、階段の下で笑いながら泣いた後、今日は「必要なら呼んで」とだけ言って帰った。香織はその言葉を、都合よく読まないように気をつけていた。
必要かどうかを決めるのは、自分たちではない。
「まず、状態だけ確認します」
みづきが言った。
「読まない。推測しない。記録は表紙、素材、破損箇所まで」
「中身に触れるときは、本人の同意が要る」
理香が続ける。
香織は頷いた。
木箱の蓋が持ち上がると、古い紙と乾いた杉の匂いが広がった。中には、薄い布に包まれた日記が二冊、輪ゴムの切れ端、そして小さな紙束が入っていた。日記の一冊は、あの鈍い灰色の日記と同じ紙質だった。
咲璃が布をほどく手つきは、眠っている子どもの毛布を直すように静かだった。
「背が、少し膨らんでいます」
彼女は日記を開かず、背表紙の側面だけを指さした。
「あとから何かを入れて、綴じ直しています。糸の張り方が不自然です」
香織の喉が鳴った。
「また、封筒ですか」
「たぶん」
咲璃は短く答えた。
その言葉だけで、部屋の空気が重くなる。危険な伯爵。日記を切り裂く故人。本人の同意なく読まれたくない頁を守ったかもしれない人。そこまで見えてきても、封筒が出るたびに、香織の胸には古いはさみの音が戻ってくる。
萌が小さく手を上げた。
「彬子さんに連絡しますか」
「状態確認だけなら、まだ」
理香が言いかけたところで、玄関の戸が開いた。
「状態確認だけ、という言葉がいちばん落ち着かないのよ」
彬子が立っていた。薄い茶色の上着に、昨日とは違う杖。後ろには亜耶がいた。文具店の紙袋を抱え、少し困った顔で会釈する。
「亜耶さん?」
香織が驚くと、亜耶は紙袋を軽く持ち上げた。
「彬子さんが、封筒の相談をしたいって。古い便箋なら、うちの店にも少し資料があるから」
亜耶は、いつも見切りが早い。商店街の寄り合いで揉めそうになると、「その話、今日は無理」と誰より先に切り上げる。そのくせ翌朝には、関係者の机に便箋の見本を十種類並べている。諦めが早いのではなく、言葉が傷になる前に別の形へ逃がすのが早い人だった。
彬子は部屋に入ると、木箱を見た。
「開けていいわ」
香織はすぐには頷けなかった。
「彬子さん、本当に」
「読んでいい、ではないの。開けていい、よ」
その違いを、彬子はゆっくり言った。
香織は息を整え、咲璃に目で合図した。
咲璃が綴じ糸をほどく。紙を傷つけないよう、針先のように細い道具で背の隙間を開く。そこから、薄い封筒が滑るように出てきた。封筒の端には、古い糊が白く浮いている。
表には、春井伯仁の字で一行だけ書かれていた。
出さなかったもの。戻すなら、本人へ。
彬子の手が、湯飲みを探すように宙をさまよった。心暖が慌てて湯飲みを差し出しかけ、理香が小声で「熱い」と止める。心暖は湯飲みをいったん自分の手元に戻し、ふうふう冷まし始めた。
「それ、自分用じゃないのよね?」
鳩子が囁く。
「違います。でも、ちょっと味見した方が安全かなって」
「お茶に味見の制度はありません」
理香が言った。
小さなやり取りに、彬子の肩がわずかに揺れた。笑ったのか、泣きそうになったのか、香織にはわからなかった。
封筒の中には、切り取られた日記の頁が数枚と、薄桃色の便箋が三枚入っていた。便箋は古いが、保存状態はよい。春井伯仁が、自分で傷つけた紙を、自分で守っていたように見えた。
亜耶は便箋を見て、眉を寄せた。
「この紙、昔の文具店でよく売られていたものです。女性向けの柄に見えるけど、男性が買うこともありました。たぶん、特別な相手に出す用」
「誰が書いたものか、わかるの?」
彬子の声は平らだった。
亜耶はすぐに答えなかった。便箋の折り目、封筒の糊、文字の傾き。どれも長い時間を越えて、今さら正体を暴かれることに怯えているようだった。
「断定はできません」
亜耶は言った。
「でも、この宛名の字と、便箋の本文の字は近いです。少なくとも、彬子さんのご主人の字ではないと思います」
空気が凍った。
彬子は湯飲みを受け取らなかった。両手を膝の上で重ね、指先だけを強く握る。
「読まなくていい」
香織は反射のように言った。
「ここで決めなくていいです。今日は封筒があった、それだけで」
「それだけ?」
彬子が顔を上げた。
目は濡れていない。けれど、乾きすぎて痛そうだった。
「それだけで済むなら、春井さんはどうして隠したの」
誰も答えられなかった。
彬子は便箋を見なかった。封筒も見なかった。木箱の角だけを見ていた。
「私、あの人が優しかったことを知っているわ。夫が不器用だったことも知っている。だから、誰か一人を悪者にすれば楽になる話ではないのも、わかっているつもりだった」
そこで、初めて声が震えた。
「でも、出さなかった手紙を、今になって『守った』みたいに言われるのは嫌」
香織の胸が痛んだ。
守った。残した。本人へ戻す。
どれも正しい言葉に見える。けれど、受け取れなかった人にとっては、正しさがさらに遅れて届く刃になることがある。
咲璃が封筒を保護紙の上に戻した。
亜耶は便箋を畳み直さず、開いた形のまま、そっと紙の重しを置いた。
「今閉じると、折り目が増えます。でも、読むために開いているわけではありません。傷めないためです」
亜耶の声は、普段よりずっと低かった。
彬子は頷かなかった。
「今日は帰るわ」
香織は立ち上がった。
「送ります」
「送らなくていいの。歩けるから」
「でも」
「香織さん」
彬子は、初めて香織の名前をまっすぐ呼んだ。
「私を、かわいそうな人にしないで」
その一言で、香織は動けなくなった。
彬子は杖を手に取り、玄関へ向かった。心暖が冷ました湯飲みを持ったまま固まっている。碧輝は廊下の隅で、磨いた車輪を手の中に隠した。鳩子の花柄の布が、風もないのに少し揺れた。
玄関の戸が閉まる音は、古い本を静かに閉じる音に似ていた。
香織は机の上の封筒を見た。
春井伯仁が何を守ったのか、まだわからない。
けれど、守るという言葉だけでは、守られなかったものがある。
理香が管理表に一行を書き足した。
本人、読まずに退室。追わない。
その文字を見た瞬間、香織は頷いた。
追わないことも、待つことの一部なのだ。
縁側の外で、乾きかけた青い洗濯ばさみが、かすかな音を立てて転がった。




