第20話 残酷な笑顔をほどく
写真館の暗室には、秋の夕方より濃い影が沈んでいた。
雅道は白い手袋をはめ、ライトボックスの上に古い集合写真を置いた。四角い光に透かされると、紙の端の傷みまで浮き上がる。笑っているはずの若い彬子、少し離れて立つ春井伯仁、その隣で肩を硬くした青年。香織は何度見ても、その写真が祝いの席で撮られたものには思えなかった。
「この写真、最初に見た時から気持ち悪かったんです」
香織が言うと、雅道は眉を上げた。
「言い方」
「すみません。では、美しくない違和感がありました」
「もっと嫌です。美容室兼写真館の店主に対して、美しくないは禁句です」
雅道はそう言いながら、拡大した写真を台の上に並べた。今日は顔パックをしていない。代わりに額へ前髪を留めるピンを三本も挿しているせいで、真剣な顔をしても妙にかわいらしい。
理香は壁際で腕を組み、みづきは年代整理の表を持ち、咲璃は封筒を入れた保存箱から目を離さなかった。亜耶は便箋の紙質を記録し、萌は湯飲みを倒さない位置に全員の荷物を移している。
「彬子さんは?」
香織が尋ねると、理香が短く答えた。
「今日は来ないそうです。無理に呼ばない約束です」
本人、読まずに退室。追わない。
昨夜、理香が管理表に書いた一行が、香織の胸に残っていた。追わないことは、冷たさではない。待つ場所を空けておくことだ。そう思っても、何もしない手の重さには、まだ慣れない。
雅道は写真に定規を当てた。
「まず、彬子さん。口角は上がっています。でも目の下の筋肉が笑っていない。泣いたあとに、無理に形を作った可能性が高いです」
「表情筋でそこまでわかるんですか」
萌が感心して身を乗り出す。
「美容師は、髪だけ見ていると思ったら大間違いです。人は『いつもの私にしてください』と言いながら、だいたいいつもの私ではない顔で椅子に座る」
「名言っぽいのに、前髪ピン三本で説得力が迷子です」
のあが入口にもたれて言った。
いつからいたのか、誰も気づかなかった。手には古い裁縫箱ではなく、ノートパソコンを抱えている。
「呼んでませんけど」
香織が言うと、のあは肩をすくめた。
「呼ばれてなくても来るのが、嫌な近所の強みです。あと、写真の高解像度化、得意な人に頼んだので」
「個人情報」
理香が即座に言う。
「顔は出してません。部分だけ。そこはちゃんとしたわよ」
のあは少しだけむっとした顔で答えた。その言い方に、以前の棘は少ない。他人の感傷を笑って遠ざけるためではなく、自分が踏み込みすぎない境目を確かめているようだった。
雅道は、のあが差し出した拡大画像を確認した。
「助かる。では次、春井伯仁さん。視線は彬子さんではなく、右下。たぶん床か、写真を撮る直前に誰かが置いたものを見ている」
「誰か?」
みづきが年代表に印をつける。
「彬子さんのご主人とされる青年です。彼は笑っていません。口も目も、むしろ閉じている。肩が上がって、手の甲に力が入っている。怒っているようにも、耐えているようにも見える」
香織は写真に顔を近づけた。
若い青年の手は、体の横で固く握られていた。隣に立つ彬子へ触れてはいない。守るようでも、拒むようでもない。ただ、何かを言わずにいる人の手だった。
「春井さんが手紙を出さなかったのは、彬子さんの結婚を壊さないためだったんでしょうか」
心暖が小さく言った。差し入れに持ってきた飴の袋を開けかけ、音が大きすぎると気づいて慌てて閉じる。その袋がまた、ぱり、と余計に鳴った。
「すみません」
「いまの音、逆に助かりました」
澄麗が穏やかに言う。
「ここ、息を止めすぎる場面ですから」
香織は自分の胸に手を当てた。確かに、呼吸が浅くなっていた。
手紙を出さなかった。日記の頁を切った。封筒に分けて戻した。どれも、春井伯仁が誰かを守ろうとした証拠のように見える。けれど、彬子は言った。今になって守ったみたいに言われるのは嫌、と。
雅道は写真をそっと裏返した。
裏面には、薄い鉛筆の字が残っていた。以前は擦れて読めなかったが、光を斜めに当てると、短い文字が浮かぶ。
晴れた日。泣かせた後。
部屋の空気がまた沈んだ。
「誰の字ですか」
萌の声がかすれた。
亜耶が便箋の記録紙と見比べる。
「春井伯仁さんの字に近いです。ただ、写真の裏は急いで書いたみたいに崩れてます」
「泣かせた後、か」
のあが呟いた。
「最低ですね、って書いたら楽なんだけど」
「書かないでください」
香織はすぐに言った。
「わかってる」
のあは珍しく言い返さなかった。
「最低って一語にすると、彬子さんの泣いた理由までこっちが奪うから」
その言葉に、香織はのあを見た。
感傷の倉庫。ぬるい。泣ける町、みたいな売り方は嫌い。
のあの辛口は、誰かを傷つけたいだけのものではなかったのかもしれない。泣いた人を、勝手に飾り棚へ置かないための乱暴な手つきだったのかもしれない。
「春井伯仁さんは、聖人ではない」
理香が静かに言った。
「手紙を出さなかったことで守ったものがあったとしても、説明しなかったことで生まれた傷があります。そこを混ぜると、申請書でも記録でも、話が嘘になります」
「申請書の話ですか」
「申請書の話にもなります。残す理由を書く欄に、美談だけ並べたら、後で自分たちが困ります」
相変わらず理香の着地点は書類だった。けれど、香織にはその言葉がありがたかった。書類は冷たい紙ではない。残すと決めた人間が、あとで逃げないための紙でもある。
咲璃が保存箱のふたに手を置いた。
「日記の切り取られた頁は、いま急いで綴じ戻さない方がいいと思います。戻すと、読める形になってしまう。封筒のまま、彬子さんが選べる状態を保つ方がいい」
「読めるように直すことだけが修理じゃないんですね」
心暖が言った。
咲璃は小さく頷いた。
「読まない形に整えることも、あります」
香織は、祖母の日記を思い出した。
読まずに捨てた。忙しかったから。向き合うのが怖かったから。捨てれば、自分の罪悪感も一緒に片づくような気がしたから。
春井伯仁は、読ませないために切ったのかもしれない。香織は、読まないために捨てた。
似ているようで、違う。違うようで、どこか痛みが重なる。
「香織さん」
澄麗が声をかけた。
「いま、何を決めたいですか」
香織は写真を見た。泣いた後の作り笑い。言わなかった手紙。笑っていない青年。悪者を一人にすれば、話は簡単になる。でも、簡単になった話は、彬子を置き去りにする。
「決めないことを、決めます」
香織は言った。
「春井伯仁さんを、いい人だった話にしません。彬子さんのご主人を、何も知らない人にも、かわいそうな人にも決めません。彬子さんに真実を押しつけません」
「では、記録名は?」
萌がペンを構えた。
香織は少し考えた。
「残酷な笑顔、ではなくて……ほどく前の写真」
雅道が微笑んだ。
「悪くないです。写真は、ほどくものでもありますから」
「前髪ピン三本の人に褒められると、自信が揺れます」
「今日いちばん残酷な発言ですよ」
その場に、ようやく小さな笑いが起きた。
笑いは軽かった。けれど、軽いからこそ、沈んだ紙を少しだけ乾かす風になる。
夕方、香織は写真を新しい薄紙に包み、保存箱の隣へ置いた。封筒は開いたままではなく、閉じたままでもない。中の便箋を傷めないよう、咲璃が作った浅い箱に寝かせてある。
読める状態にするのではなく、選べる状態にする。
香織はその言葉を、胸の中で何度もなぞった。
玄関を閉めようとした時、外の郵便受けに一枚の紙が挟まっているのに気づいた。彬子の字だった。
今日は行けません。けれど、写真は捨てないでください。
香織はその紙を、急いできれいな話にしなかった。
ただ、保存箱の上に置かず、彬子のための封筒に入れた。
秋の陽は短い。縁側の光は、もう床の端まで退いている。
それでも、写真の中の笑顔は、少しだけ息をしやすくなったように見えた。




